そして二人、流浪した。
小宇宙は使わない。
使う機会は、もう訪れないかもしれない。
車を何度も乗り換え、立ち寄る街をまたすぐに離れる。
根無し草のように風任せ、ふらふらと漂う。
人々の気づかない、ささやかな薄闇に紛れるのは、簡単なことだ。
二人は今まで、世界を裏側から眺めてきたのだから。
廻る昼と夜、朝と黄昏を、行き交う人々の傍を通り過ぎ、
たまに立ち止まってサーカスを眺め、暑い日には街角でアイスを食べた。
そして何一つ残さず、街を去る。

あちらへ。 その次はこちらへと。
漂泊の月日を重ねるうちに、季節は一巡りしていた。
新たな春を迎えた頃、二人は岬の町に流れ着いた。
小さな町だった。
どこからでも青い海が見え、木々は赤い花を咲かせて良い香りがする。
この町で部屋を借りようと、サガは言った。

白い壁のアパートの、三階の奥。
海へと窓を開ければ、優しい風が頬を撫でた。
空も、海も、光の季節。
果てのない青の、眩さ。
潮鳴りは静かに、遥かに。

「髪を切ろうか」

呟くように、サガは言った。
腰まで伸びた豊かな髪は、邪魔になると軽く結うこともあったが、
デスマスクは、その朝日のような黄金色が、光に透きとおる様子が好きだった。
指で流せば、光は眩いほど溢れる。

「本当に切るの?」
「春になったらそうしようと思っていたんだ」

部屋を片付け、真ん中に椅子を一つ置いた。
サガはそこに腰掛けて、窓の向こうに広がる水平線を眺める。
デスマスクは、銀色の鋏を手に、彼の後ろに立った。

「でもさァ、切るならちゃんとしたトコでやってもらえば」
「デス以外に触れてほしくないんだよ」
「ふぅん……」

掌に掬った髪を一房、さらりと流す。
まるで、金色の夕陽を浴びながら、きらきらと煌く優しい雨。
その髪に、鋏を入れた。
光が散った。

「まァ俺、器用だけどね」

ジャキ、ジャキッ、刃の噛み合う音は、少し鈍い。
サガがデスマスクに手渡したのは、戸棚で見つけた、ごく普通の鋏だ。
前の住人が置き忘れていったのだろう。
他に準備といえば、首にタオルを巻いて襟元をくるりと覆ったぐらいで、
切り落とした髪は、椅子に座る彼や床に、
はらはらと、無造作に散っていく。

「……終わったらそのまま風呂でも入ってね。
 ここは掃除するから。 服についた髪は全部ここに落として行って」

いつになく、真剣な声だった。
サガは微かに笑みを浮かべ、その声に耳を傾ける。
左手の櫛が髪を梳き、右手の鋏が刃にぷつりと髪を食み、切り落とす。
切れ味の良くはない鋏を、デスマスクは言葉どおり細やかに操る。
黄金の光は、はらはらと、はらはらと。
サガは、静かに眺めていた。
さらりとまた、一房。
落ちた金糸は弧を描き、あるいは長々と緩やかに、曲線の幾何学模様を床に描き出す。
それは、今まで彼の一部分だったものだ。
ふと、風を感じた。

「あ、窓」

閉め忘れた窓のカーテンが翻り、穏やかな風が通る。
外は、春。
青い海と天の果てから、風は生まれ来る。
窓を閉めようとする彼を、サガは止めた。

「そのままにしてくれ」
「……風があると切り難いんだけどなァ」

デスマスクは、そうぼやきながら、サガの髪を梳き、鋏を入れる。
二人の足元、金糸の図絵は風に揺れる。
遥かな水平線を眺め、サガは言った。

「これが終わったら、……今度は私が切ってやろう」
「結構です」
「遠慮しなくていい」
「結構です」

さらりと軽く、デスマスクは鋏を動かす。
すげなく断られたサガは、黙り込んだ。
一秒、二秒。
けれど、互いにちらりと目を交わし、その瞬間に二人は笑い出していた。

「私にもやらせてくれていいだろ」
「ダメです」

けらけらと笑い続けるデスマスクは、その腰を抱き寄せられて、サガの腿の上に座った。
子供がふざけてるのと同じだ。
と、後ろにいるサガを振り返ったデスマスクは、口をつぐんだ。
肩越しに見た双眸は、この世の何よりも、深い青。
サガは、何も言わなかった。
ただ、デスマスクの肩に顔をうずめるように、その身体をぎゅっと抱きしめる。
デスマスクは、自分を支えて離さない腕を、見下ろす。
もどかしいと、思った。
鋏と櫛で両手が塞がっていて、動けない。
俺も、この人に、さわりたい。

突然に、言葉は消え去って。
そのまま何も言えなくなり、サガは、腕の中の身体を抱きしめる。
顔を上げられないまま、目蓋を伏せる。
温かいと、思った。
腕の中に、温もりのある身体が、確かに存在している。
生きて、呼吸している。
傍に、いてくれる。
ただそれだけで、とめどなく溢れ出す感情。

「……なら、今日は私が髪を洗ってやろう」
「えー? んー、まあ別に、いいよ」
「よし、早速バスルームに行こうか」
「俺あんたの髪切ってる途中ですけど」
「後でいい」
「言っとくけど、今のあんた、笑っちゃう頭だよ」

サガは笑った。
笑った拍子に滴が零れて、それが涙と知った。
腕の中に抱きしめた身体が、気遣うように柔らかく、寄りそってくれる。
そうやって、支えてくれる。

「……仕方ないなァ、サガは」
「全くだ」

何もない部屋なのだ。
流れ流れて、二人で辿り着いたのは。
ただ、窓から青色の景色を眺めるだけの、小さな部屋。
これからも、息をひそめるように、生きていくのだろう。
決して何も求めず、何を得ることもなく。

けれど、何も失ってはいないのだ。
初めから、ただ一つのものは、共にあった。


「しょうがないから、俺がずっとサガの面倒見てやるよ」








そして。

春風の、無限の青。
廻る昼と夜、朝と黄昏を、行き交う人々が通り過ぎる傍らで。
二人きりの、幸福な子供のように。
いつまでも 海を見ていた。
















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