たとえば

言葉を伝えようとして
けれど、出来なかった時
誰にも届かなかった言葉は、どこへ行くのだろう
そんな言葉は、一生の間にどれほどあるか分からない
まして、人類の過去を振り返れば、星の数にも及ぶだろうか
けれど、もしかしたら
それら無限の言葉も、どこか遠いところに、届いていたのかもしれない
そこは案外、居心地の良い世界だったかもしれない

夜空は、降るような星々














月が昇っている。
でけェな、と夜空を仰ぐデスマスクの足元で、
男は、震えながら蹲っている。
うねるような黒髪は、夜闇の産み落とした艶やかさ。
月光と星明を浮かべる、漆黒の河のような。

聖域。 天空に最も近い峻嶺、スターヒル。
十三年前、この場所で本物の教皇を密かに殺し、
以来、名前も顔も教皇の仮面の下に消し去り、聖域の玉座にあり続けた男は、
今、苦しげに身を戦慄かせていた。
デスマスクは、随分と昔から、彼の素顔を知っている。

「サガ」

呼びかける声に、男は酷く緩慢に顔を上げた。
月光を浴びる秀麗な面は、身を二つに引き裂く苦痛で歪み、
その額やこめかみに、青黒い血管が這っている。
血の赤を湛えた双眸が、デスマスクを睨んだ。
しかし、その両手は黄金の短剣を握り締め、刃は首筋に触れようとぶるぶる震えていた。
右手は、短剣を押し込む。
左手は、それを押し退けようとする。 
まるで、二人の人間がそれぞれの腕を操り、互いの命を奪おうとしているように。

「この阿呆を止めろ。 それとも、私の首が離れる様を見たいか」

夜闇の髪、赤く染まった双眸のサガは言い捨てるが、
己の頚動脈を頑なに切り裂こうとしている「阿呆」も、サガなのだ。
片や己の罪咎を贖うため、十三年振りに聖域へ帰る女神に自らの命を差し出そうとし、
片や己の大願を遂げるため、人の身でありながら神に挑もうとしている。
蟹座の聖闘士は、ただ静かに眺めていた。

「……とりあえず、ソレ降ろして? 話をしよう」
「奴の話を聞く必要など無い」

ひび割れた声で嘲笑う首に刃がぐっと迫り、呪詛を吐く。
滑稽な光景だ。
地上で最も神聖な聖地で、二人の男が一つの身体で殺し合いをしている。
デスマスクは、表情を変えなかった。
地に崩れ動けずにいる男の前に膝をつき、男の両目を真正面に見据えた。
暗く濁った眼窩の奥の、荒れ狂う黒い渦の底。
互いを憎悪し合う二つの魂に向かって。
にっと笑ってみせた。

「じゃあさ、一回死んでみる?」


世界の全てを俯瞰する聖域の玉座を手に入れながら、
一人のサガは悔いていた。
一人のサガは狂っていた。
しかし、一つだけの身体の中、真逆の魂を争わせる二人は、
実際には、まるで双子のようだった。
教皇も女神も既になく、聖域に導きとなるべきものなど、何も無かった。
サガだけが、教皇の仮面と共に残された。
聖域の、世界の秩序を維持しようとする時、二人のサガは、狂気のように冷静だった。
そうさせたサガの大願と懊悩の、本当の深さを、デスマスクは知らない。
理解出来るとも思わない。
教皇の仮面の下にある正体を知りながら、彼の命ずるまま、数限りない魂を刈り取ってきた。
その度、矛盾と葛藤に苦しみのたうち回るのは、勅命を授けた本人の方だった。
デスマスクは、そんな高尚な感情が生まれるほど、複雑な世界には、棲んでいない。
俗物だと自分で思う。

「嫌なら、もう教皇なんて辞めちゃえよ」

青褪めた月を背負い、死神は無邪気に言った。

「死ねば、ここから出られる。 あんたは自由になる。
 だったら、死体になればいい。
 上手く殺してやるよ、俺そういうの得意だし。
 その後は、あんたの好きなように生きれば良い。
 どこにでも行けるし、何にでもなれる」

顔を寄せ、まるで子供が秘密の打ち明け話をするように、
けれど笑って。 楽しげに笑って。

「平和的な解決策だろ?」

教皇と呼ばれた男は、何も答えなかった。
ただ、笑顔だけが、彼の目の前にあった。




記憶の苦い霧の彼方、自分は女神の聖闘士であることを、まだ信じていた頃。
そうやって笑ってくれた子供がいた。
今はもう、過ぎ去った遠い景色。
海を見たいと繋いだ手は
小さく、温かだった。




そして
星降る山の頂の、夜闇に封密された静けさ。
月影を知るのは二人だけ。
戯言を聞き咎めた者はない。
男が一人、夜の深淵に消えたとして、その行方を誰が追うだろう。
やがて、サガは黄金の短剣を、地に置いた。

「……愚策だな」

悠然と立ち上がり、黒髪の流れを掻き上げる。

「おまえが間抜けなことを言うので、奴が引っ込んだぞ」

その双眸は、傲慢なほど光に満ち、先刻までの苦痛は跡形もない。
デスマスクは、頭の上から降ってくる笑いに、唇を小さく吊り上げた。

「泣いてすがったほうが良かったかな」
「私がこの聖域を手放すと、本気で思ったのか」
「んー、一億分の一の可能性ぐらい あるんじゃないの」
「無い」

言い切った男は、遥か下方に広がる世界を睥睨する。

「聖域が欲しいのなら、力尽くで奪えば良い。 この私のようにな。
 それが出来ない者に、たとえ女神であろうと、私の首を取らせることなど有り得ん。
 易々とこの場所を明け渡すこともな」

デスマスクが見上げるその背中。
長い髪は大きく風を受け、漆黒の翼を広げるように。
炯々と鋭く煌く双眸が、眼下の世界を射貫く。
彼の敵を迎え撃ち、滅ぼすために。

「ふぅん?」

その背から目を逸らし、
デスマスクは黄金の短剣を拾うと、剥き出しの刃をしっかりと鞘に納めた。
溜息が漏れそうで、唇を歪めて笑った。
この刃にどれほど怯えたか、今更表情に出したくない。
俗物なのだ、要は。
サガのように、魂が二つに裂けるほど欲したものなど、ない。
この世のものは全て、いつか崩れて形を失い、生も死も等しく塵芥に過ぎない。
だから、何もいらない。 欲しくない。
ただ、サガがいれば良かった。
生憎、泣いてすがるには悲劇性が足りない人間だから、
他愛もない戯言しか口に出来ないけれど。

「……サガなんて、教皇辞めたら何も出来そうにないしね」

すると、その人が振り返り、言った。

「その時は、おまえも一緒に来るのだろ」

月光を貫く、たかが一億分の一の戯言。
眼窩に湛える、涙のような血の色はそのままに、微笑む双眸は、清冽な青。
どちらのサガと話をしているのか、一瞬わからなくなる。
まるで、二人とも笑っているようだ。

もしもサガが、彼を苦しめる全てを捨てたら、とは考えない。
戯言は戯言だ。
けれどそんな、何もかも終えた、夢のように穏やかな世界も、
この宇宙のどこか遠くには、あるのかもしれない。
そんな夢があるのなら、もう、いい。

デスマスクは、自分でも気付かないうちに、笑っていた。
両手で顔を覆って笑い続けた。
子供じみた思いつきだ。
けれど、取り繕うことなど出来なかった。
まるで、なんだか、幸せな錯覚をしてしまいそうで。
目を明けられない。

「女神がやって来たら、おまえはどうする」
「そーねー、勝ちそうな方に尻尾振ります」
「犬のような奴だ」
「あんたが主人なら可愛がってよ」

すると、くしゃりと頭を撫でられた。
柔らかな感触に驚いて目を明けると、夜闇に浮かぶ光の弧。
月光と星明が透き流す、澄んだ光の髪。

サガは、微笑っていた。


















+++++++++++++++++++++++++++++++++++

(結)



←もどる。