彼は、本当に気分が良かった。
楽しくて楽しくてたまらなかった。
こうやって自由に動けるのは、本当に久し振りのことだった。
大地を駆ける足は彼の物。
苦しいほど歓喜を叫ぶ心臓。
たらたらと零れる赤い血も、彼の物。

痺れるように冷たい毒は傷から内側に浸透し、
細胞を壊しながら血流を犯して体内を巡る。
その痛みも、全て、彼の物。
脳髄に螺子を差し込まれるような、確固たる存在性。

まるで新しい世界に産み落とされたように、
幸福だと思う。




シュラが、あまり幸せそうな顔をしないのは、
多分、そういう顔なんだろう。





津波のように押し寄せる怪物の群を、
デスマスクは、流水の岩を飛ぶように跳ねる。
気ままに着地する足の下、怪物は潰れ、また次へと軽やかな足は飛ぶ。
全く無傷というわけにはいかない。
彼を楽に押し潰せる大きな影達が跳躍し、太い脚を振り上げる。
それを真っ向から殴り殺した時、同時に脇腹を裂かれていた。
しかし、傷は臓腑まで届かない。
そう理解しているのか、そもそも痛覚自体が正常に機能しないのか、
少年の動きは止まらない。
いつのまにか、微笑みを浮かべていた。

5年、何もなかった。
何もしなかったが、自由もなかった。
だが、デスマスクはその5年間を不自由と思ったことはない。
そもそも、自分の意志が他人に聞き入れられるという幻想を知らなかった。
目に映るものはただ一つだけあったが、それも彼のものではなかった。

そして今、ぞくぞくと悪寒を覚える。
それは、確実に重くなっていく四肢であり、
血肉で暗く囁く毒であり、
全く数を減らす気配のない蜘蛛達の、洪水のように押し寄せる敵意だ。
世界は、実に鮮やかに、目の前にある。
その一瞬、一瞬間を、彼は赤子の純粋さで享受する。
少年の目には、明澄な幸福があった。
それは流れ出る血潮と同じ色をしていた。


沸騰するような心に反して、デスマスクは冷静に周囲の動きを観察していた。
蜘蛛達は一様に彼を目指して襲い掛かってくる。
生きた血の匂いか、獲物が弱っているのを知っているのか。
繭状の巣には、外部と繋がる亀裂が数箇所作られている。
そこからも蜘蛛は続々と現れ、散らばっていた個体が全てここに集まってくるようだ。
逆の動きは、ない。
まるで巣を守ろうというように。
あるいは、ここにある何かのために。
それを彼は待っている。

早く、早く会いたかった。
待っているのがじれったくて、とても嬉しかった。

はしゃぐ子供の視界に、突然白い壁が出現した。
そのままデスマスクは弾き飛ばされ、黒い群の中に落ちて沈んだ。


大地が波打つ。
洞窟全体が激しく戦慄き、次々に地割れが走る。
その裂け目を突き破り、葉も枝もない白い巨樹が姿を現した。
怪物達を蟻のように蹴散らし、圧倒的な大きさの幹が身を起こす。
その形は、蟲の脚に似ていた。 

デスマスクは、目を明けていた。
彼の小さな身体は群がる蜘蛛達の下で押し潰され、牙を突き立てられていたが、
黒い波の下から遥かな天を望むような、その光景に魅入られた。
八本の巨大な脚がそびえ立っていた。

世界が鳴動する。
大地が隆起する。
薄絹のように繭を引き裂き、その真実が地の底から這い上がる。
大地と思っていたものは、途方もなく大きな "蜘蛛"の背中だった。

「……母親かァ」

悠然とした氷山のような盛り上がった腹。
脚の爪先に至るまで雪の白。
真紅に輝く八つの瞳。
小さな子供達を引き従えて押し進む巨体は、女王の威容を誇る。
彼女の瞳には、狂暴な知性の光があった。
そして、"力"を持つ者の神聖な強さが。

輝く瞳が異物を捉える。
ざわざわと蠢く子供達の中に、何か白いものが微かに覗いている。
人間の子の、か細い腕だった。
彼女は躊躇いなくその脚を振り下ろした。



少年の目は、心は、奪われていた。
そこにいたのは、彼が決して目にしたことのない、美しい生き物だった。
魔物の瞳は、真紅。

どくんと、心臓が跳ねた。
鼓動が重く、苦しくなる。
何かが胸の底から突き上げ、喉を焼き焦がして呼吸を奪い去る。
溺れる人のように、腕を伸ばした。
世界に対して何一つ求めなかった腕を。

(掌には、いつかの手)
(指に触れた、たった一度の指の記憶)


ぽろぽろと、涙が零れた。







彼女は、自分の身体には小さくなってしまった巣を眺めた。
以前僅かに目を覚ましたのは、いつのことだったか。
彼女は夢見る女王だった。
果てしない年月、静かな大地の底で、
子供達にかしずかれ、白絹の寝床で安らかに眠っていた。
彼女の頭の上には、鈍い動物達がいた。
捕食は容易く、またそれらは互いに争い、或いは他愛無く病に冒されるので、
流れ続ける血は彼女の喉を潤してきた。
捧げられる命の数が彼女を大きく育てた。
彼女は、美しかった。

今、真紅の瞳は、鏡のように澄みきって
天から降り立つ少年の影を映す。

それは単純な事実だった。
彼女の振り下ろす脚、筋肉と神経の反応速度よりも、デスマスクは速い。
その絶対的な差を彼女が知覚するより、なお速く。
彼女の瞳に拳を突き入れる。


ぽろぽろと、零れる涙は
彼女が美しかったからだ。

胸を締め付けられるのは
嬉しかったからだ。

別れがこんなに哀しいものだと初めて知った。

溢れるような幸福に締め付けられ、デスマスクは、女王の瞳を破壊した。
身体を底から揺さぶる絶叫がたまらなく心地良く、また涙が出た。



破裂する赤。
噴き上げる赤。
一つ一つ眼球は潰され、溢れ出す体液は赤い涙のようだ。
天を貫く咆哮。 狂った獣が二匹、慟哭する。
遥か星夜、冷たい夜気は微かに震え、
どこかで子供が笑った。



彼女は、大きく膨れ上がった自分の命が、小さな子供のものになるのかと戦慄いた。
少年は、熟れて張り裂けそうな彼女の命が、自分の手の中に落ちてくるのを感じた。
それでも、彼女は女王なのだ。
振り上げた雪白の脚は、鉤爪で少年を深々と引き裂いた。


痛みは、とっくに感じなくなっていた。
ただ、ただ、身体が酷く重く、
墜ちる。
墜ちて行きながら、デスマスクは満ちるものを感じる。
いつもそこに見えていた、底の無い暗い虚無。
それが今は、彼女の命、恐怖と怨嗟、そして儚い寂寥に、満ちて。
真紅の全てに、満たされて。


けれど、目蓋が閉じる一瞬前、壮絶な光の刃を見た。
























































話すことがなくならないように、
ぽつりぽつりと、言って聞かせる。

「……散漫だ、やり方が……」

薄闇の、濡れた底は一面の月色。
シュラは淡々と話をする。

「確実に仕留めろ、気を抜くな」

腕の中には、ずぶずぶに赤く濡れた生き物。
地面に腰を下ろしたシュラの脚と脚の間に、ぐにゃぐにゃとして
やっと彼にもたせかけた頭も、元が何色か分からない。
座っている、というほど意志はなく、
今にも閉じそうな目蓋は うつらうつら。

「やればそれで良いんじゃない」

だから、シュラは声を聞かせ、
ぐにゃぐにゃの身体を支える手で、汚れた頬を拭う。
まるで、死に掛けた猫の子でも抱いているような、青褪めた心音。
大きく裂けた背の、脊椎と心臓が無事なだけ、良かった。

「起きてろ。 まだ止血しか出来てない」

腕の中、デスマスクの目に焦点はない。
二人静かに空もなく、ただ薄明の、大地の底。


シュラは、治癒に向かない。
小宇宙で他者の細胞を修復、再生できる聖闘士は存在するが、
シュラの小宇宙は、本質的に真逆のものだ。
あまり血を失えば猫の子も救えない。
小宇宙は、命が灯す炎。
心臓に熱を宿し、血潮を巡らす。 命と肉体を結ぶ。
シュラに出来ることは、その炎が絶えぬよう、自分のそれと同調させ、励起することだ。


余計なことをした、と思う。
子供の言う事に構わなければ、もっと早く片付いていた。
子供だ、デスマスクは。
思慮なく血肉を噛み千切る獣の子だ。

聖域の人間に、子供はいない。
いるのは、戦場を駆ける聖闘士だ。
十にもならない頃、既にシュラは勅命を賜っていた。


(喧騒の 乾いた火花の匂い)
(泥と 血と 血溜まりの 丸めた四肢)
(さびしいことを おもいだそうと している)



微かな、酷く緩やかな吐息を聞きながら、シュラは黙り込んだ。
腕に抱いた、小さな子供の身体。
二人の他、もう何もいない。




早く、目を覚ませばいい。































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