特に意味もなく笑うのは得意だった。


水に溶けているような、ぼんやりした意識の輪郭。
それが鮮明さを回復した途端、傍らにあるシュラの顔に気づくと、
デスマスクは、ふにゃっと笑ってみせた。
そして、緩んだ腕の中からもぞもぞ這い出そうとする。
シュラがどんな表情をしたかは気にも留めず、
ただ、無感覚でいた時間の長さに急かされた。
知りたいことがあった。

辺り一面は青白く光る液体で溢れ、少し動く度にびしゃりと水音がする。 ぬるりと滑る。
それが何かは知っている。
けれど、静かだった。
掠れた吐息がうるさく感じられるほど。
乾いた唇を舌で湿らせて、息を飲み込む。 奥歯できつく噛み絞る。
静か、だった。

もがいたつもりが、その身体はほとんど動いてなかった。
動くはずがなかった。
出血量から考えれば、二度と目を覚まさない可能性もあった。
四肢をもがれたようにもどかしい身体を、シュラは軽々と抱えて立ち上がる。

「戻る」

デスマスクは何も答えなかった
視界は彼の背よりも高く、辺りを良く見渡せた。
音もなくシュラは歩き出す。
壁のようにうず高く積み重なった、屍と屍の間を。

「もう終わった」

両断された肉塊と肉塊の隙間、はみ出た完全な形の脚や頭部。
一太刀で斬り伏せられた、鮮やか過ぎる切断面。
彼の処刑は、常に精緻に行われる。

デスマスクは呆然としていた。
端の分からない奇妙な壁に囲まれ、迷い路はうねる。
壁の向こうに、巨大な白い影が横たわっていた。
目を凝らす。
けれど、真ん中から綺麗に裂かれたそれは、もう動かなかった。

「……待てよ」

シュラは足を止めない。
ちらりとデスマスクの様子を確かめると、その視線の先に目をやる。
そして、ああ、と頷いた。
それだけだった。

デスマスクは、笑うことは得意だった。
だから、そうした。

「何で殺した」

シュラは前だけを見て答えた。

「しくじったから」

その目を見上げながら、デスマスクは、ああ、と頷いた。
そして、蕩けそうな声で、もう一度同じ問いを繰り返す。

「……敵だから」

処刑者は暫く考え、端的に言う。
問う子は楽しげに頷き、そしてまた繰り返す。

「聖闘士だから」

簡潔な、最低限度の言葉だった。
それで彼は事足りた。
デスマスクは、笑う。

「だから、おまえはいつも殺すんだな」




暗い風が、吹き抜けたような気がした。
シュラは立ち止まった。
振り返る。
何もいない。
ただ、煙るような薄闇が流れていく。
また前に向き直ろうとして、足を止めた。
顔を上げると、そこに天空があった。

轟々と、天の高みで風が唸る。
陰鬱な雲が身悶えして吹き流される。
重く垂れ込めた曇天の、ほんの僅かな切れ目の向こう、
無限の虚無が遥かに広がっている。

ここは地底だ。

「幻覚、なのかなァ……」

熱のない声でデスマスクが言った。
ぼんやりと開いた両目は、冷たい空を映し込んでいる。

「幻術なら、誰が、何でこんなことするんだろう」

それは、シュラの考えを見透かしていたが、まるで独り言のようだった。
シュラは精神を研ぎ澄ます。
その意図を察し、デスマスクはするりと彼から離れ、地面に降りた。
同時に、シュラが動く。
放たれた光の刃は両翼となって虚空を薙ぎ払った。
屍の壁は、冷徹な鮮やかさで切り裂かれる。
しかし、

「俺は、ずっと分からないんだ」

雲が、流れていく。
風が岩を砂にする。
荒涼とした大地の、果てしない彼方。
寂しい色をした地平線が雲と混ざり合う。

何も無い世界にシュラは立ち尽くしていた。

蜘蛛の脚や、欠けた頭、方形になった腹の小片。
それらの壁は崩れ落ち。
光刃の痕は崩れ落ち。
塵になり。
一片も残さず塵になり、風に撒かれて消え去った。
後には何も残らない。

幻覚か、現実か、まるで別のものなのか。
シュラは判断がつかなかった。
眼球、皮膚、神経、小宇宙、全ての感覚が訴えることは一つ、
この世界は死に絶えている。

「……そうやって、なァんにも無くなっちゃうんだ……」

呟くようなデスマスクが、遥かに眺める地平。
黒い山がある。
シュラは、薄闇の滲むようだった視界が、急に晴れていくのを感じた。
噴火口のように抉れた山頂が見える。
そして、その山を目指し、何か影のようなものが列をなして大勢歩いている。
しかし、人影のように見えるそれが、生命を持つ者とは、
どうしても思えなかった。

シュラは、デスマスクの手首を取った。
子供の温みとは逆に、自分の掌は酷く冷たくなっていた。
見下ろした、痩せた背中。
骨が割れるほど深く裂けていた傷が、彼の中に溶け入るように消えていく。
それを眺めるシュラの、胸骨の内側、
脈動するはずの赤い臓器は今、生きているのかどうか。

シュラは片腕を振り上げた。
もしも全て幻術だとすれば、或いは、全く次元の違う何かだとしても、
その術者は




振り下ろした聖剣は、デスマスクの首を刎ね落とす寸前で止めるはずだった。
牽制のつもりでしかなかった。
何かしらの反応なり変化なりが見られれば、それで良い。 真意を問い質しやすくなる。
デスマスクは明らかにこの世界を知り、慣れている。
だが、シュラはそうしなかった。
出来なかった。

俯いていた子供が顔を上げた時、シュラの腕は凍り付いた。
笑うことを止めた目は、だからこそ、幼い。
初めて会った日とまるで変わらない。

「俺は、ずっとここにいたのに」













硝煙と、瓦礫と、死体。
記憶の中、壊れた街。
陽炎と、乾いた風、破裂する火花。
初めて勅命を賜った頃だった。
血溜まりの中に見捨てられた子供を拾った。
何を話しかけても一言も口をきかなかった。 喋れないのだと思った。
次の朝、その子はどこかに連れて行かれた。
その後どうなったのか、知らない。
誰もシュラに聞かせなかった。

それは仕方のないことだった。
シュラはまだ十にもなっていなかった。

"俺は、ずっとここにいたのに "

もっと早く気づくべきだった。
デスマスクは幼過ぎた。
あれから5年も経っているのに、まるで時間が止まっていたように、子供のままだ。
そして、あの日と同じ目をしたまま、5年後のシュラを見上げている。
赤く濁った、憎悪の目で。

呪詛と、絶望。
世界の有りとあらゆるものに絶叫する切望。
暴虐の末に投げ捨てられた子供の、小さな手を、あの日シュラは掴み、
そして離した。
その子がどうなったのか、知らない。

「おまえはいつも殺すのに、なんでおれはダメなの」

魔物の紅い瞳を前にして、
シュラは、振り上げた片腕を、降ろすことが出来なかった。

































(夜の 終わり)
(朝を待ちながら)
(薄闇の 子供が二人)


どうしようもなく壊された、
何も言わない、何も聞かない、怯えた目に、憎悪だけがある子供を
名前すら無い子供を、抱き締めながら、泣いていたような気がする。

ただ、哀しかった。
自分と同じくらいの子供が、世界を呪いながら死んでいくことが
死なせてしまうことが、悔しかった。
だから、その手を、引き上げた。



(夜は 明けて)
(子供は一人)








































かちん と針が鳴った。

白々とした人工の明かりの下、
ベンチに座ったデスマスクが、ふにゃりと笑って見上げてくる。

シュラの目に映る世界は唐突に差し替えられていた。
見覚えのある地下鉄のホーム。
時計は、夜明けが近いことを教える。

「次、俺の邪魔したら殺す。 絶対に殺す」

けらけらと、楽しげにデスマスクは笑った。
シュラは、教皇から任された"監察"が終わったことを知った。



あの、何もかも死に絶えた世界が、本当は何なのか。
確かなことをシュラは言えない。
だが、デスマスクは、あちら側からこちらの世界へ解き放たれた。
もう止まろうとはしないだろう。
駆け抜ける数多の戦場で屍の山を積み上げる。
そうさせたシュラのように。
けれど、デスマスクは嗜虐を楽しむ。
己と、己以外全ての血を、等しく渇望している。

シュラは、違う。
シュラは聖闘士だ。
だが、自分の選択がどれほど正しく、どれほど間違っていたのか、分からない。

もしも、あの腕を、掴まなかったら。






「地下鉄、乗りたかったなー」

デスマスクは、眠たげな声で言った。
赤く汚れた服を眺め、大きく裂けた部分を見ると、かくんと首を傾けた。

「そろそろ始発だろ?」

言いながら行儀悪く片足をベンチに上げ、膝に顎を乗せて欠伸する。
シュラは、その傍らに立っていた。

「……乗ればいい」
「えー、浮くだろ普通」

デスマスクは目蓋を閉じたまま、にっと笑った。
その顔を、シュラは見下ろしていた。
自分の役目は済ませた。
もう、どこへでも行ける。

言葉が途切れると、世界はまだ眠っているように静かだった。
二人だけが目を覚まし、呼吸をしていた。



もしも、あの腕を、掴まなかったら。
きっと、もう片腕を掴んで引き上げていただろう。



ベンチに腰を下ろしたシュラを、
デスマスクは顔を上げて、まじまじと彼の横顔を眺める。
けれど、何も言わなかった。
ただ二人で、夜明けの時を待っていた。













「あ、来た」
































+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


2008年蟹誕用に書いていたとはとても言えない……。

凸凹というか、すごく年の差ありそうな二人ですが、実際タメ年です。
もう1、2年もすれば蟹さんは充分育ちますが、その頃には山羊さんはもっと大きくなっているという。
蟹さんは、基本的に悪い子なので、どこかに仕舞われてたんだと思います。

この後、メトロの車掌さんは明らかに様子のおかしい子供二人に声をかけますが、
「パフォーマンスです」と言い切られて、近頃の子供は分からんな首を傾げます。



←もどる。