かちん と針が鳴った。
短針が3を指していた。
昼なのか真夜中か、地下鉄のホームは明るい。
上も下もコンクリート、白いボードで固められた、箱詰めの光だ。
まるで薄い氷でも透かすような世界に、少年。
たった一人、ベンチの端に座っていた。
14、5才の、どこへ行こうとするのか。
大人びた目が真っ直ぐに見据える先、鈍色の線路が横たわり、
白々とした世界を抜けて常闇へと潜っていく。


かち、と針が鳴った。
少年は、ふわりと線路に飛び降りた。
その足で躊躇いなく駆け出した。





闇を、闇を、闇の中を、
音も無く疾駆する。
遠く瞬いていた照明灯が見る間に後方へ消える。
鋼のレールに沿って駆け抜けるシュラは、彼自身が一筋の闇だ。
やがて、分岐路に出た。
進むべき道筋は頭に入っていた。


シュラが賜った勅命は、彼が常に担う類のものではなかった。
深夜の地下鉄構内、そして沿線で失踪事件が相次ぎ、監視カメラには異形の影が映っていた。
それは、人を食うようだった。
人ならざる者が人に害をなす時、聖闘士はそれを討つ。
しかし「全て掃討せよ」という勅命を賜ったのは、シュラではなかった。
シュラの役目は、


分岐で古い側道を選ぶ。
封鎖区域であることを警告するバーを飛び超え、さらに奥を目指せば、周囲の様子は一転する。
そこは、掘削した跡の露に残る坑道だった。
元々ここを走る地下鉄の始まりは鉱山鉄道だ。 かつては石炭の採掘で栄えた街だった。
その鉱山は、大規模な落盤事故を最後に閉山している。
今も行方の分からない大勢の犠牲者達は、本当に岩の下で命を落としたのか。
聖域の感知する以前から、異形の怪物は地の底に潜んでいたのかもしれない。


蟻の巣のような廃坑道を進んでいくと、ぼうっと光が見えた。
照明灯ではない。 もっと暗い、淡い光が。
足を止め、静かに近づく。
そこに何かが蹲っている。
シュラは、予め監視カメラの記録を確認していた。
だから、驚きはない。
何のことはない。 "蜘蛛"なのだ、形は。
その腹は、地に伏せた熊ほどの大きさだったが。
自然の理から狂ったようなそれは、脚を数本無くし、半ば潰れかけて、死んでいた。
闇の中、この辺りだけがぼんやりと明るい。
壁や足元一面に青褪めた光がこびりついている。
シュラは膝をつき、死骸を間近に観察した。
光っているのは怪物の体液らしい。
深海魚の発光に近いのだろうか。

地の底、青い燐火が燃えるような深淵で、
少年が一人、静かな肉塊を眺めている。
その状況が、正常か異常か。
彼には興味がない。

シュラは、地面に残された痕跡をじっと見詰めた。
飛散した発光体液。 その中に、スニーカーの跡がある。
ここにいた"人間"は、ただ一度の踏み込みで怪物を打ち殺した後、
二歩歩いて、自分の靴裏を汚す液体に気づいた。
それを岩になすりつけ、また歩き出す。
軽い足取りで
まるで遊びに行く子供のように。

シュラは立ち上がり、"彼"が歩き去った方向を睨んだ。
闇の奥、今はどこまで進んでいるのか。
駆逐対象の数について情報が足りず、万が一にも街の住人に被害が及ばぬよう、
シュラはあのホームで待機していたが。
やはり、一人で先に行かせるべきでなかった。

「掃討」の任を与えられたのは、今日初めて実戦に投入される "子供" だった。
その補佐をシュラは任された。 そして、監察を。

捩れた坑道を奥に進むにつれ、怪物の死骸が増えていく。
まるで鬼火の国へと下っていくようだ。
丸々とした腹を潰され、脚を踏み折られ、白い臓腑はどろりと流れ。
それらにもう一瞥もくれず、駆ける。
見なくても分かる。
どれも粗雑なのだ、やり方が。
地形と位置、攻撃と防御の機微を読まず、ただ真正面から突っ込み、破砕する。
危ういと言うしかない。

"彼"、監察対象について、シュラは多くのことを知らされていない。
聖域に見出されてすぐ聖闘士として最高の位階を許されながら、
聖衣を一度も纏わぬまま教皇に預け、5年も聖域から遠ざかっていた。
遠ざけられていた、とも聞く。
それが突然召還され、勅命を与えられた。
そして教皇は、シュラに同行を命じた。
何か、あるのだろう。

白銀や青銅ではない。 "黄金"なのだ、シュラと同じ。
けれど、まともに言葉を交したこともない。
あの、地下鉄のホーム。
ベンチに座って、勅命内容についてほんの二言三言、話をした。
そしてすぐ闇の中に消えた。

あの目を見た時、乾いた火花の匂いを思い出した。



唐突にシュラは足を止めた。
黒い肉片の散らばる地面に、これまで見なかった色が広がっていた。
今流れ出たばかりの赤い血は、誰の。

二人とも自分の聖衣は聖域の教皇の下にある。
それも教皇の指示によるものだ。
だが、それは何のためか。
試しているとでも言うのか。

地を見据えたシュラの目が見開く。
気配を殺すことを止めた小宇宙が一気に第七識の極みまで昂ぶる。
肉体を超えて覚醒した知覚が、分厚い岩盤の向こうに広がる空間を、そこにいる者を捉える。
シュラは、聖剣を閃かせた。











青い満月の光が、雪原を照らしていた。
柔らかく降り積もった銀の新雪。
そこに、痩せた少年がいる。
赤い滴りが腕を落ちる。










岩盤を切り裂いた先の世界は、シュラを一瞬惑わせた。
その幻ごと彼の刃は全てを断ち切っていたが。

舞い散るように
雪にも似た白い糸。
大地は青白い光で出来ている。
新たに怪物達が光の血飛沫を噴き上げる。

四方から蜘蛛の糸に囚われていたものが、自由になる。
その目が、射る。
唇を歪めて笑う。

「……相変わらず余計なコトすんのが好きだな。 俺、頼んだか?」

少年は、今は デスマスクと呼ばれていた。

上背のあるシュラと比べてだいぶ小柄で、歳も四、五才は下に見えた。
肉の薄い身体にはいくつもの裂傷があり、血で染まった様子は痛々しいが、
笑わない目は、じっとシュラを見上げている。
子供の明らかな幼さを前にして、シュラは何故か ぎくりとした。

見上げる眼差しの
見下ろす眼差しの
二人は、まるで違う。

シュラは、なにか躊躇う自分を感じた。
だが、

「……もういい」
「は?」
「後の始末は俺が付ける。 下がってろ」
「いきなり来て何言ってんだ バカ、バーカ。 何もすんなって最初に言ったろ!」
「状況による」

赤く裂けた肩にシュラは手を伸ばす。
デスマスクは身体ごと後ろに下がった。

「止まってない」

シュラの見立てでは、傷はそう深くなかった。
聖闘士に備わる回復力なら自然と塞がる程度のものに見えるが、
赤い血はたらたらと流れ続けている。

「そういう毒なんだろ」

デスマスクは気にする素振りもなく、まだ絡み付いていた糸を乱暴に引き千切った。
血は滲むように溢れた。
シュラは眉を顰め、もう何も言わなかった。
ただ、自分の進むべき方向を見据え、右腕に小宇宙を集中させる。

おそらく地下水が大地を抉って造った巨大洞穴だろう。
見渡す限りの岩面は、真っ白いものに覆われていた。
幾重に重ねた薄絹のように、繊細な模様を織りなす、蜘蛛の糸。
その下に透けて、無数の人骨が見える。
ここが巣なのだ。

気配が騒ぐ。
こちらの様子を窺う冷たい視線が増えていく。

あのベンチに座って、黙って成り行きを眺めていることも出来た。
しかし、シュラはそれを選ばなかった。
一息に全てを斬り伏せるため、ここにいる。 シュラにはそれが出来る。
これ以上余計な損害を出す必要はない。


デスマスクは、ただシュラを眺めていた。
鋼のように揺らぎなく前を見据えるその目を。
その中に宿る、自身の力に対する信念を。

「……ふぅん、やっぱりそういうのが "聖闘士" なんだ?」

呟くように、声が笑った。
デスマスクはふらりと歩き出す。
世界は月光の繭のようだ。
デスマスクは、シュラを笑っていた。

「行く前に決めたろ。 俺が前衛、おまえ待機。 俺がくたばったらおまえの番」

それはまるで、酩酊した猫のようで、
本当は何を言いたいのか、シュラには分からなかった。

糸が、震える。
地響きがする。
黒い津波が押し寄せてくる。
同族の死骸を踏み砕き、蜘蛛達が迫り来る。

「おまえこそ、そこで見てろ」

デスマスクは、その真ん中に突っ込んだ。
















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→2

なんとなくエピGっぽく。
1巻のソリが合わなそうな二人が好きですよ。
エピGなので蟹さんの目の色が珍しく赤です。


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