目を開けた。
星があった。

意識を失っていた数瞬が惜しくて跳ね起きれば、口から血が溢れる。
左の肋骨のあたりを抉るような痛みが走った。
二、三本は折られたかもしれない。
しかし構わず立ち上がって、闇の先を見据えた。
荒野はただ風が甲高く吹き荒んでいた。
もう、誰もいない。



「シュラ」
まだ幼いその声に、シュラは振り返った。
背後の崖から少年が一人降り立つ。金糸の髪に星明かりが煌く。
アフロディーテは顔を真っ青にしていた。
「シュラ、アイオロスは……」
天使と喩えられる愛らしい相貌が、今は唇まで色を無くしている。
シュラは顔を背けた。
「行った」
「え?」
「止められなかった」
「そんな……それじゃあ本当にアイオロスは」
謀叛、という言葉を震えながら飲みこんだ、翠玉の瞳が泣き出しそうに歪められる。
シュラは緩慢に首を振った。
「アイオロスは何も言わなかった」
「……何も? なんで何も言ってくれないの? どうしてあんなことしなきゃいけなかったの?
何も言ってくれないんじゃ、本当の反逆者ってことじゃないか!」
「馬鹿を言うなッ」
思わずシュラは声を荒げた。
「あいつが謀叛などするはずがないッ それはおまえも分かっているはずだろ?!」
「だったら、どうして!」
堪えきれなくなった涙が大きな目から零れ落ちる。
「どうして、こんなことになったの……?」
シュラは何も言えなかった。








一人の黄金聖闘士が女神の殺害を企て、逃亡した。
正義を守護すべき神聖なる砦に、決してあってはならぬ事態。
討伐に遣わされたのは三名の黄金聖闘士。

謀叛を起こしたのは最高位の聖闘士である。
同じ位階の者でなければ処分はおろか捕捉もままならない。
しかし、失踪したジェミニ、そして反逆した当の本人を除けば、
既に実戦を経験している黄金聖闘士は、三人しかいなかった。
他はやっと黄金聖衣を賜ったばかりだった。
三人の、まだ十になるかならないかの幼さなど、勅命の前では無に等しかった。

感知されるのを恐れ、小宇宙を消して逃げる反逆者を、分かれて探した三方向。
見つけたのはシュラだった。


謀叛など、信じていなかった。
彼が自分たちを裏切るなど、シュラには考えられなかった。
それなのに彼は何一つ言わぬまま聖域を捨てようとし、そして。








肺から搾り出す空気は血の味がした。
折られた箇所には焼け付くような嫌な熱がある。
けれど身体の芯は震えていた。
両の腕がまるで人形のそれのように冷えきっていた。
「……怪我をしたんだね、シュラ」
治すよ、と涙に詰まった声で言い、アフロディーテは柔らかな小宇宙を高めていく。
その白い指先も震えていた。
二人は項垂れ、決して視線を合わせようとしなかった。
互いの目の中にあるものを見るのが恐ろしかった。

不安なのだ、二人とも。
いったい今、何が起きているのか、彼に何が起きたのか、どうしたら良かったのか。
答えなど、探せぬまま。
暗い闇の中から迫る不安にさらわれる。
どうしようもなくて、シュラは自分の腕を掻き抱いた。



「シュラ……腕についているそれは、アイオロスの血なの?」

その呆然とした、目。

















彼は、死んだ。
その最期を見届けた友人から、彼が無実の罪を着せられたのだと知った。

あの時、どうして事情を一言も話してくれなかったのか。
話せなかったのだ。
真実を知れば、必ずシュラも聖域を追われることになるから。
彼は、自らを殺すために遣わされた人間まで、守ろうとしたのだ。

そう理解して、世界は壊れた。
彼にとってシュラは、庇護すべき子供でしかなかったのだ。
真実を知るに値しない、その力を信ずるに足りない存在だったのだ。
それが彼を殺した。
彼の聖域を失わせた。
この非力な腕に、全てを奪われてしまった。

だから、ただ、力を。
決して折れぬ、不安も怯懦も一切斬り伏せる刃になることを、ひたすら望んだ。


そして、そういう存在になった、はずだった。




















命を捨てて自分を滅ぼそうとする紫龍に、シュラは叫ぶ。

 自分が死んでの勝利になど、なんの価値があるのか

死に抗しようとする本能よりも強く喉を引き裂くそれは、
心の内で密やかに縋り続けてきた何かが殺されていく悲鳴だ。

死ねば塵。
無力は罪。

そうやってひたすら敗北を恐れた。屠り続けた。
けれど、自分一人の命など、惜しくはないと。
決して自分のためではないものを祈り続け、戦っていたのは、いったい誰だったのか。

ああ、皆死んでしまった。



もう何も奪われたくはなかった。もう二度とあんな思いだけはしたくなかった。
そのための刃でもあったはずなのに。

どこかで間違えたのか、俺は。









挙句の果ての、これが報い。
何も為さぬまま死んだ英雄が、最後の残したものに、この身は滅ぼされる。























































13年、経った。
帰ってくるのが遅過ぎだ、英雄なんて言われていたくせに。
待つ方の身にもなってみろ、俺もあいつらも、すっかり待ちくたびれてしまった。

もう、いいけれど。




















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