静かな息を、一つ吐いた。




嵐の海に投げ出された小舟のように、身体は軋み、引き裂かれる。
それでもシュラの呼吸は穏やかなままだった。
紫龍の意識は無くなったらしい。
亢龍覇は荒れ狂う奔流となり、更に上昇を続けている。
暴走するその小宇宙がこのまま二人を飛散させるか。
それとも身体が燃え尽きる方が早いのか。
もう、どちらでもよかった。
ただ目を瞑り、終わりを待っていた。




しかし、何か。
柔らかな、暖かなものが腕に触れたような気がした。
まるで地上に連れ戻そうとするように、そっと手を取られる。
それが何なのか気付いて、シュラは目を開けた。

大きく深く包み込むような、女神の小宇宙だった。
遥か地上の聖域。
黄金の矢を受け、死に瀕しながらもその腕を伸ばし、紫龍を救おうとしている。

シュラは乱流に捻じ切られそうな右腕を無理やり持ち上げた。
その身に残された小宇宙全てを一刃に燃やす。
そして振り下ろす、最後の聖剣。
亢龍覇は切り裂かれ、弾ける。
シュラは、自分の身体が砕ける音を聞いた。









「守ってやってくれないか」

そう言ったつもりの喉からは、掠れた息が僅かに漏れただけ。

「頼む」

シュラの身体から聖衣がゆっくりと離れ、紫龍を追ってその身を覆う。
紫龍は女神の小宇宙に導かれ地上へ降りていった。
それを視界の隅で見届け、シュラは右腕を動かそうとした。
感覚すらなかった。
肩から持っていかれたのかもしれない。
ついでだ。くれてやろう。
使いこなせるのなら自由にするといい。俺はもう使えない。





浮き葉のようにシュラは流される。
しかし女神の小宇宙は、まだそこにあった。
もはや指一つ動かない身体を癒すように抱き止める。
その暖かさ、大きさを初めて知って、吐息が震えた。
女神は、許そうとしている。
剣を振るうべき理由を見失った弱さを、積み上げた屍の空しさを、傷んだ身体ごと救おうとしている。
そう気付いて、胸の中で何かが引き千切れ、溶けていった。
流す涙などとうの昔に枯れ果てた。
だから、どうすればいいんだ。
この思いは。


慰めるように女神の小宇宙はシュラを連れ、地上に帰ろうとする。
その流れに身を委ね、閉じようとした目に映ったのは、あの鬼火。


空虚な暗黒の宇宙に浮かんだ、冷たい、恐ろしい光。
けれど、どこまでも優しい、積尸気の燐火。


シュラは少し笑った。
そして暖かさを手放した。

























女神の小宇宙はもう遠い。
果ての無い暗黒をたった一人、壊れた人形のように漂いながら、孤独が骨の髄を凍らせる。
それでもこの腕は。
神に救い、許される必要など決して無いものを、確かに掴んでいた時があったのだ。
この腕は、同じように足掻いていた友の手は放さなかった。
だから、もういい。








冷たい闇が目の前に降りてくる。
それでもあの燐火は見えていた。

















ああ、そうか。俺は









俺はあいつが死んで、悲しかったのか。














































































「おい」






















「おーい」






















「あっれー? おかしいなあ、先生」
「誰が先生だ」
「報告には聞いたが本当に反応しない。普通コキュートスから引きずり出された時点で起きるはずだろ。
先生んトコの親分、なんか間違ったんじゃねえの」
「人の話を聞け。そして無礼な口を叩くな」
「貴公の主君たる冥皇の御手の間から愚かな魂が一つ迷い落ちたと見受けたが……これで満足か?」
「……止めろ、普通に話せ。頭が痛くなる」
「注文細かいなあ、先生」



覚えのある声がする。
この喋り方を知っている。



「まあいいや、とにかくどうしてこいつだけまだ眠ってんだ」
「知るか」
「うわっ、あんたそれでも冥界三巨頭の一人か? 今度の聖戦の先陣を仕切んのはあんたなんだろ。
こういうのもあんたの責任なんじゃねえのー?」
「貴様に言われる必要などないわッ」
「じゃ、教えてください、先生」



これは誰だ。ここはどこだ。
忘れるはずがない、この声を。



「……冥皇の許しを得、コキュートスの柩から出された死者の魂は、その瞬間に眠りから覚める。
だが、稀に自ら望んで眠りの中に留まろうとする者もある」
「起こされたのが気に食わないってか? 寝起き悪い奴だなー」
「貴様がどうにかしろ。が、そのまま打ち捨てても俺は構わんがな。
自らの意志で剣を振るうことのできん人間など戦場を汚すだけだ」
「ラダマンティス」
「何だ」
「今、言い当てたな」
「なんだと?」
「後で見せてやるよ」


「なあ、シュラ?」



ああ、この呼び声は。
一人でさっさといった薄情な大馬鹿者がそこにいる。






「おはよう、シュラ」



空の無い地獄を背に、嬉しげな顔が笑っていた。




























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寝起きが悪いというか、他人になんか言われるのが嫌なのかもしれない。

この後、先生は山羊が蟹に向けてぶちかました聖剣に巻き込まれるとかなんとか。
聖戦前で魔星が封印されたままでも先生は頑張っておりますよ! 下準備とか。


積尸気の火というのは、死人にとっては道標なんじゃないかと思うんです。


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