アフロディーテは笑い続ける男を優雅に蹴った。
「はぁはぁ……繋いでいたのが途絶えてしまったじゃないか。向こうにいる私の聖衣が何事かと思ってしまう」
再び小宇宙を高め、聖域を観察しようとする。
「しかし、そうするとワイバーンはまだハーデス城か? ならば私より君のほうがいいだろう。
あの場所は冥皇の結界に守られているからな」
言われたデスマスクは大儀そうに腰を上げた。
周囲に淡い金色の陽炎が立つ。
それは、アフロディーテと同じく黄金聖闘士の小宇宙であるはずだが、
まるで違う冷たさを孕んでいた。
色の無いような髪が銀色に揺れる。
次の瞬間、知覚の眼差しは、聖域の遥か北西、ハーデス城の内部にあった。
冥皇の結界は、この見えざる異物に不思議と反発しない。
凪いだ水面のような結界に干渉しないよう、感覚の視野をゆっくりと広げていき、
ハーデス城にひしめく冥闘士を捉えていく。
「……ゴチャゴチャいて区別つかねえな」
「一番大きいのを探すんだ。地上に出た三巨頭は一人しかいないだろ」
「あー……うわ、いるっ。なんか熊みたいにうろうろしてる大きいのが一つ」
デスマスクは顔を顰めた。
「おいおい何だよ? なんでこいつ出撃してないのよ。一番やる気だったんだろ!?
聖闘士の亡者どもは信用できんと散々言ってだろうが!」
「あの男の出撃はパンドラが許さないだろ」
「それを計算に入れたとしても、天猛星なら自分から聖域に突っ込んでくれると思ったんだよッ」
「君はそんなことも狙っていたのか」
大袈裟に喚く男をアフロディーテはまじまじと眺める。
「当たり前だ! 俺が背中まで見せて誘ってやったのに!」
「ほう、誘っていたのか、あの醜態は。私はてっきりサービスかなあと」
「なんだサービスって」
「あんまり楽しそうだったからさ。そういうのも好きだろ? 君は」
「好きですよ」
「だから思わず私も乗ってしまった」
「俺はおまえがものすんごい乗ってくるもんだから、このままでいいんだと思ったんです」
二人は顔を見合わせてにやりと笑った。



「削れる戦力なら早めにどうにかしたいだろ」
嘆く男は語る。
「あいつが一番めんどくせーシャカとやり合ってくれれば、サガたちも楽になんだろ。
冥皇の結界の中で戦えばこっちが不利だし、聖域まで引き摺り出せればよかったんだけどな」
道義も道理も無意味な男が、己に課せられた務めには忠実だったことを、
アフロディーテは知っている。
たとえ一度死んだとしても、彼に変わるところはないらしい。
だが自分は、と内省する。
今の自分はきっと彼とは違うのだろう。
「……そう全てが上手く行くわけもあるまい。
我々に任されたことは、一人でも多くの冥闘士をハーデス城から聖域へ誘い出すことだ。
取敢えずは成功といっていいだろう? 後は地上にいる者達の演ずるところだ」
アフロディーテは気ままな傍観者に戻る。
ちらりと傍らを見ると、彼はとっくに小宇宙まで断ち切っていた。
この男はいつも最低限必要な分しか能力を使おうとしない。
それは既に習性のようなのだろう。
アフロディーテは、自分の見ているものが友人にも伝わるように、そっと同調させた。
そして聖域にいる者たちを意識で追う。
「……白羊宮にはまだムウもシオン様もいるな……サガたちは金牛宮を抜け、双児宮を目指している……」
「冥闘士は何をしている」
「影のようにサガたちの後にいるな。自分たちから前に出るつもりはまだ無いらしい」
「ふん、そのうちムウあたりが追いつくだろ」
「ムウはシオン様が抑えているのだろう?」
「いや、まだあのお方が来ていない」
“あのお方”と口にする表情は、常とは改められていた。
「冥闘士の封印はもう解かれたんだ、あの人は絶対に来るだろうさ」
「五老峰の老師か」
「そ。老師が相手ではシオン様とて本気にならざるを得まい。ムウに拘っていられねえよ。
あー、よかったなー、妖怪大決戦に巻き込まれなくて」
珍しく神妙になったかと思えば男はすっかり元に戻り、隣の同僚にふざけた笑みを見せた。
だがアフロディーテは別の事を考えていた。
「ふむ……しかし、ムウは」
「あん?」
「先ほどの白羊宮での事だ。
仮にもかつて黄金の名を冠した三人を前にして、初手がクリスタルウォールとは迂闊でないか」
「そりゃあ……足止めのつもりだったんだろ」
「それが甘いというのだ」
感情を交えぬ声で、冷徹な判断を下す。
「もし私がムウの背後から薔薇を召喚していたらどうなる。あるいは一点に集中させ壁を砕いたらどうだ。
こちらにはシオン様もいたというのに。
自分の手の内を知られている相手と戦うのなら、もっと他にやりようがあるはずだ」
「しようがねーよ、それがムーちゃんの性格だもん」
「対応が遅い」
「慎重なのよ。まあ、考えてもみな? 黄金聖闘士が皆シュラみたいな奴だったら困るだろ?」
デスマスクはエクスカリバーをまね、おどけてみせるが、
不意に何か妙な想像をしたらしく、ぞっとした。
アフロディーテも少し声を和らげる。
「一挙一動が最大級の必殺技だな。それも正しい姿の一つかもしれない」
「人間もっとコミュニケーションを楽しもうぜー」
「君は敵で遊ぶのが好きなんだろ」
「時と場合による」
デスマスクは自分の砕けた冥衣を指した。
「ムウだって結局キレて俺達二人とも一気に消滅させたんだ。あいつはもうしっかり、本気になってる」
実際はその瞬間に積尸気への扉を開くことによって、技を躱していたのだが。
それを知らないムウは、もう逡巡することもないだろう。
後はただひたすら戦うだけ。
「だから、あいつは大丈夫だ」
アフロディーテは、色彩の無い男が小さく笑うのを見た。
「……君は甘い」
「おまえは点がきつい」



懐かしい人たちのいる聖域は、遥かにある。
荒涼たる積尸気の大地に立ちながら、それでも二人は笑いながら話を続ける。


「ところで思ったんだが、積尸気冥界波は君自身に効果あるのか?」
「そりゃあもう。ここへの出入りは冥界波を自分にかけるようなもんだから」
「ではあの時ムウに技を跳ね返されたのは危なかったんじゃないのか」
「危なかったね、ホント」
「もし自分の技をまともに食らっていたら完璧に馬鹿だな。後でシュラに言おう」
「食らったらシオン様が怒りそうだったから止めておいたけど」
「やりたかったのか」
「少し。けど意味がない」
「ああ、そうか」
「そ。俺はここから出るのもフリーパスだから」



「そういえばスターヒルにペガサスを感じたよ」
「ムウに飛ばされたな」
「君はあの子の技をいくつか受けていたな。どうだった?」
「ローリングクラッシュなー、首にくるんだよ、あれ」
「君は楽しそうだったよ。私も混ぜてもらえばよかった」
「ムウの相手するより楽だしな。ムウは……あいつ、やさしい顔して本当にッ バカ力だから」
「ん? 君がムウに掴まれたあれは素だったのか?」
「あれだけな」
「情けない」
「……おまえ今度会ったときに試してみろ!」



つまらないこと、くだらぬこと、どうでもいいこと。
思いつくまま二人はのんびりと話をする。
それは役目が終わるまで決して心からは言わなかった、気楽な言葉達かもしれない。

笑い合いながら、二人は知っていた。
この緩やかに流れる時間が仮初に過ぎないことを。

聖域では、火時計に灯されていた十二の炎が揺らぎ、静かに一つ消えていった。
















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