落ちる。
落ちていく。
光の見えない闇の中を真っ逆さまに。



死界へと続く穴を、ぼろぼろの影が二つ、落ちていく。
声の限りに哀れな悲鳴を上げるが、漆黒の闇はそれすら飲みこみ、沈黙する。
死の静寂の中、二つの影が落ちていく。


その絶叫が不意に止んだ。
「……ふッ」
どちらともなく吹き出す。
それはいつか大爆笑になっていた。
高速自由落下の最中に笑うもんだから咽る。咳き込む。また笑う。
「……いい加減にしないか。また笑ってしまう」
滑らかな、耳に心地好い声が笑いながら言った。
「ぅえ、ゲホッ……んなこと言われてもなあ」
咽ながらもげらげらと笑っていたほうが答える。
「どうするんだ、このまま落ちるのか?」
「それもいいけどなー、あの眉毛、御丁寧にコキュートス直行便に落としてくれたみたいよ」
「ふむ、このままあそこに戻るのもつまらん話だな。……それに」
「上の様子が気になるか?」
「首尾良くいっているならいいが、ここでは少し分かりにくいな」
生界から死界へと緩やかに時空は歪み、闇は続いている。
それはどちらの次元からも切り離され、漂っているとも言える。
「じゃあ積尸気に行くか」
「ここからでも行けるのか?」
「問題ない」
闇の中で一度、小さな鬼火が燃えた。
後はただ静寂ばかり。




もの言わぬ亡者が列をなし、黄泉比良坂を落ちていく。
積尸気は死の門。
歩くのはただ死者のみであるはずの大地に、金髪の美丈夫が降り立った。
身には闇色の鎧、冥衣を纏っている。
月のように暗く輝くそれは、所々ひび割れ、砕けていた。
腰まで届く金糸の髪も乱れ、白皙の頬には血が滲んでいるが、
それゆえに凄まじいような美しさがあった。
透き通るエメラルドの瞳が、積尸気の決して晴れぬ曇天を見上げる。
「先ほどはすぐに通り過ぎてしまったが、ここは寂しいところだな」
「慣れてしまえばそれほどでもない」
傍らの岩に腰を下ろしていた男が答えた。
やはりぼろぼろの冥衣を纏い、色の無い髪をぞんざいに掻き上げ、
「まあ、普通慣れる必要もないけどな」
唇を歪めるように笑った。


二人は、美神の如き男をアフロディーテ、人を食ったような笑みを浮かべる方をデスマスクという。
どちらも一度は鬼籍に入った人間である。
かつては地上の正義を守護する女神の下で戦う聖闘士、その最高の地位にあった。
しかし、聖域から女神を排した教皇を、そうと知りつつ奉じて女神に反し、
後に聖域に帰還した女神等との戦いの中で落命した。

冥府に下ったその魂は、女神の大敵である冥皇に忠誠を誓い、再び女神の首を取ろうと冥府より甦ったが、
聖域第一の宮、白羊宮を守るアリエスのムウによって肉体を消滅させられた……はずだった。

そのムウは、消滅したはずの二人が何故かその後、聖域から遠く離れた、冥皇の結界に包まれたハーデス城に、
五体満足で現れていたことを知らない。
そして二人が女神殺害の失敗を咎められ、死界に続く穴へ大変愉快に投げ落とされたことを、多分もっと知らない。
ましてその後のたがが外れた大爆笑、など。


「さて、始めるか」
アフロディーテは軽く頭を振り、隣に座る男を見下ろした。
その僅かな動作だけで金糸の髪からは光が零れ落ちる。
デスマスクは目を細めてそれを眺めていた。
「なんだ?」
「やー、なんか薄汚れてんなーって。珍しいもん見てる」
のんびりと笑う男に、美神は己の姿を一瞥した。
「脆いものだな、冥衣というのは」
「所詮借り物だからな」
「しかしスターライトエクスティンクションの余波だけで砕けるとは……」
「黄金聖衣と比べんなよ」
「ふ、何か懐かしさすら感じるな、その言葉は」
アフロディーテは にっと笑った。
「君もなかなか似合ってるぞ、薄汚れた格好というのが」
「そういうの好きですから」
「だが、やはり黄金聖衣のほうが似合ってるよ」
「そーかあ?」
「そう」

麗人は微笑の欠片をそのままに、前を見据えた。
「さあ、彼の戦地を高見の見物といこうじゃないか。途中退場した我々の権利だからな」
その身体から金色の小宇宙が力強く溢れ出る。
それは生命の光だ。
積尸気の冷たい暗がりの中、まるで太陽のように輝くアフロディーテは、黄金聖闘士であった頃と何一つ変わりない。
感覚は五感を超えて覚醒し、時空を遥かに飛び越え、地上の様子をアフロディーテに伝える。
慣れ親しんだ、かつては命をかけて守ろうとした聖域。
今そこは、肌刺す戦の空気に包まれている。
「さて、どこから行く」
「冥闘士だ」
小宇宙が高まるとともに、豪奢な金髪が波打つ。
「ふむ……小賢しく小宇宙を消しているな。しかし、確実に聖域内に入っているぞ。
やはりあの男、我慢がきかずに冥闘士を動かしてきたな」
「当然。それで? 人数は分かるか」
「私を誰だと思っている」
麗人は切り捨てるように艶然と笑った。
「私は聖域十二宮最後を預かるピスケスだ。聖域でこの私に感じ取れぬものは無い」
「……はーい、俺が野暮でしたー。で?」
「ん、入りこんだ異物は十七ある。勿論サガたちは除いているが」
「十七? 思ったより少ないな」
「元々正規の冥闘士を出動させる予定ではなかったのだから、このぐらいだろう」
「精々頑張ってほしいもんだな。聖域が混乱すればそれだけサガが助かる」
アフロディーテも頷いた。
「冥闘士どもが他の黄金聖闘士を少しでも足止めしてくれれば、それで上々。
文字通りに命をかけてもらおう。
ハーデス城の目が聖域に集中すればその分、冥界の守りは薄くなる。
冥界に下った女神が首尾良く冥皇を討てば、たとえ聖域全ての聖闘士を生贄にしたとしても……
我々の勝ちだ」
淡々とアフロディーテは語る。
冥府より甦る前、シオンが内密に描いた計画は酷薄なものだった。

女神を殺せば死界から解き放ち、永遠の命を授けると冥皇は言う。
それを逆手に取り、聖域に攻め入り女神の血をもってその聖衣を目覚めさせ、
完全武装の女神を冥府へ送り、冥皇を滅ぼすという計画。
長きにわたって繰り返された聖戦に終止符を打つため、自らの全てを犠牲として捧げよとシオンは言った。
二人は頷いて、今ここにいる。
自己犠牲に酔う感傷なら欠片も持ち合わせてなかったが。

「死人ばかり働いてないで、向こうの駒にも協力してもらわないとなー。
……今度の話は駒の方でも気に食わなかったみたいだが」
デスマスクは人の悪い笑みをした。
「おい、眉毛は来てるのか」
「ムウならいるぞ」
「違うッ」
「眉毛だけではどちらか分からないだろ。君はワイバーンのことを言ってるんだな?」
答えたアフロディーテの見えざる感覚の指は、更に繊細に聖域内の異物を洗い出していく。
そこに求めるものは無かった。
「……あの男は来ていないよ」
「まさか、 本当か?」
「たとえ時空の遥か向こうだとしても、聖域の双魚宮にはピスケスの聖衣がある。
それが私のアンテナになってくれているんだ。だから間違えるはずがない」
「おまえ、いいね」
「何がだ?」
「いや、聖衣が従順で。俺のは色々すごいから」
「君の聖衣が十二宮の戦いで君を見捨てたというのは本当か?」
「ああ、これ以上ないタイミングでな。流石 俺の聖衣!」
「ぷ、くははははッ。笑わせてくれるな、集中が途切れる」
「この程度で乱れるなら、おまえは所詮それまでということよ!」
「だから止めろと言っている……ッ」
結局抑えることの出来なかったアフロディーテは、肩を震わせて笑い出した。
その様に直接原因の方もげらげらと大笑いする。
馬鹿笑いする二人を、亡者たちはそっと避け、黄泉比良坂を目指して歩いていった……。







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生きていようが死んでいようが、そんなノリで。

OVAでラダマンティスが積尸気を使ったことがどうにも許せません。

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