ふとアフロディーテは顔を上げた。
「ん」
聖域にいるサガたちの動きがおかしい。
「妙だな。サガたちが双児宮で止まっている」
「今あそこは空いてるはずだろ。守護するジェミニがいないんだから」
「そのはずなんだが……これは、サガ?」
自分の感じているものに首を傾げる。
守護者不在の双児宮に、不思議な小宇宙が立ち昇っていた。
恐ろしく強大なそれは、かつて自分の正義の全てを託した人に似ていた。
「サガのはずがない……それなのに、これは」
双児宮内部の時空が歪んでいる。
おそらく何者かの小宇宙によって迷宮となっているのだろう。
「まるでサガが守護していた頃のようだ……」
デスマスクは、傍らの同僚が伝えてくるものをぼんやり考えていた。
「サガたちは双児宮の中で迷っているのかもしれない。……しかし、これはまるでサガが二人いるようだな」
アフロディーテが思わず漏らした言葉に、デスマスクは小さく頷く。
「放蕩息子が帰ってきたのかもな」
「なんの話だ?」
「いや。他の宮にも何か妙な様子はあるのか?」
アフロディーテは訝しげな顔をしていたが、言われた通りに感覚の視点を転ずる。
「……ん?」
「どうした。まだ何かあるのか」
「巨蟹宮に、君がいる」
「はあ?」
「ここの空気にそっくりだ。君がいた頃の巨蟹宮そのものだよ」
主亡き後はただ静謐としていた星宮が、魂を凍えさせるような、濃密な死の匂いに満ちている。
「……誰か人の宮をトラップ代りにしてる奴がいるな」
デスマスクは思いきり眉を顰めた。
「こちらも幻覚なんだろうが……しかし誰の小宇宙なのか、簡単に悟らせてくれそうにないな」
小宇宙を高めようとする観察者に、元守護者は言う。
「生きてる人間を消去法しろ」
アフロディーテは暫く考え、それから、ほうと呟いた。
「不在の宮が増えたとはいえ、代りに守ろうとする人間はいるらしい」
「もっと楽に通してくれないかねえ」
元守護者は苦笑いしていた。


「予定外のことが幾つか起きているな」
「双児宮、巨蟹宮は障害にならないはずだった。予想外の人間も来ている」
「青銅の子供等が聖域から遠ざけられているのは、こちらとしても好都合だが……あまり予定が狂うのもな」
「大丈夫だろ」
デスマスクは言った。
「シュラもカミュも大丈夫だ。サガがいる」
気休めでも、楽観でもない言葉を、笑いもせずに吐く。
「やることやって帰ってくるだろ、あいつらなら」
アフロディーテは友人の、青とも灰色ともつかない目をちらりと見た。
その視線に気づいた男がにやりと笑う。
「だから地獄で待っててやるさ」
「そうだな」
アフロディーテも頷き、また意識を聖域に戻した。
サガたちはまだ双児宮から動いていない。
火時計に灯された炎は少しずつ小さくなっていく。

冥皇との契約は、女神の首を12時間以内に取ってくることだ。
それを過ぎれば地上に甦った死者は全て塵に帰ってしまう。
火時計の炎が全て消えるまで、12時間。
その前に誰か一人でも女神の所へ辿りつかねばならない。

死界の穴を落ちたはずのアフロディーテは、もう表立って地上に出ることが許されない。
ただ時が流れるのを待つだけだ。
それがいつかの記憶を呼び覚ます。

「双児宮には迷宮、巨蟹宮には死界の入り口……まるであの日のようじゃないか?」
そう話す同僚を、デスマスクはじっと見た。
美貌の人は穏やかに笑っていた。
デスマスクは何も答えず岩の上に座りこむ。
「君や私が死んだ日だよ」
アフロディーテは積尸気の彼方に思いをはせる。
「君が真っ先に死んだな。
いつまで待っても君の小宇宙が積尸気から戻ってくることはなかった。
君なら、そうなるんじゃないかと思っていたがね……シュラはずっと怒っていた。
そのシュラも、カミュも死んで、私は最後まで残された。
火時計の炎が一つ一つ消えるのを眺めながら、私はずっと待っているだけだったよ」
しかし、とアフロディーテは続ける。
翠の宝玉を思わせる双眸が燃えるような光を放つ。
「後悔などない、何一つ」
胸を張り、凛と立つ。
曇天の向こうを見据える瞳は神々の世界すら貫くようだ。
「何一つ、ない。女神を捨てたことも、そして死んだことも。
たとえ未来永劫、畜生と罵られ地獄の業火に焼かれるとしても、何者も私の進む道を曲げることはできない」
傲然ですらある断言は、しかし揺らぎのない決意だ。
自分の魂のあるべき姿を見出した者の強さと美しさに、その目は満ちている。
「……おまえさー」
それまで黙って聞いていた男が口を開いた。
「なんで冥皇の話に乗ったの?」
既に地上での生にすら未練がないはずなのに、どうしてシオンの計画に賛同したのか。
「女神のためではないよ、残念ながら」
アフロディーテは鼻先で上品に笑ってみせた。
「そしてたぶん、サガのためでもない。
後悔はないと言っただろ? 私は私のために今ここにいるのさ。私は……」
己にとっての、ただ一つの正義を守るために生きて死んだ戦士は言い放ち、
「とても身勝手なんだよ」
不敵に笑った。
「それに、このくだらん復活劇は……君は早く眠りにつきたいかもしれないが、私は楽しかったよ。
君と組むのも久し振りだしな。
シオン様に言われてね、蟹は一人にすると何をするか分からないからって」
「……俺の選択権は?」
「ないよ、そんなもの」
「初めっから、おまえ陽動ねって言われたんだけど」
「好きだろ? 醜態」
「人を変態みたいに言うな。ええ、まあ、大好きですけどね」
「君でなければだめなのさ。でも良かっただろ? 私が一緒で」
「えー」
アフロディーテは、微妙に不機嫌になった友人の肩を掴んだ。
砕けかけた冥衣が鈍い音を立てた。
お返しにデスマスクは腰の辺りを肘で狙う。
「まあ、シュラとかカミュだったら? 俺のほうが妙ーにドキドキしてたと思うけど。おまえは……、
天と地の狭間に輝きほこる美の戦士サマが、進んで汚れ役を買うとは思ってなかった」
「実は私も好きなんだ、そういうのが」
「……変態。知ってたけど」
「君に言われたくないな」
麗人は優雅に笑った。




「これからどうする。このまま戦況を眺めながら塵になってみるか?」
「美の戦士サマと心中できるなんて感激ですぅ」
「いい加減君も引っ張るな。誰が言ったんだ、その天と地のなんとかって」
「さあ?」
目を細め楽しげに彼は言う。
アフロディーテの身体は、冥府の土をこね紛い物の生命を吹き込んだものだ。
時が来れば跡形もなく消え去る。
しかし、彼は。
「君は大丈夫なんだろ。私たちの中で君だけは自分の身体のまま冥府に落ち、
そして地上に戻った。君は」
「いや」
端的に否定される。
「冥界も長いからな。俺の身体はもうほとんど冥界のものになっている。
あそこのは一度地上に出てしまえば長くはもたん。おまえらと条件は同じさ」
「そうか……」
アフロディーテは小さく頷く。
「次に会うときはコキュートスだな」
肉体は塵となり。
魂は元の牢獄へ。
地獄の深淵、光差さぬ氷の大地に封じられ、輪廻の輪からも外された永遠の眠りにつく。
デスマスクは立ち上がり、静かに意識を集中させ始める。
「何をするんだ?」
「地獄に帰る」
「もう行くのか」
言葉を続けようとするアフロディーテに、デスマスクは
「仕事残ってんだよ」
にやりと笑ってみせた。
「俺がシオン様に言われたのは、冥闘士の数を一人でも多く減らすことだ。
地獄には地上侵攻に加わらなかった奴等がまだいるだろ。それに……」
わざとらしい溜息をつく。
「コキュートスに行けばシオン様と顔合わせことになる。
さぼってたのがバレるとまたアレだ、アレ食らわされる。
俺は地獄で初めてあの人に会った瞬間、アレだったんだ。正直もう勘弁。ホント怖いね。
で、決めた。俺あの人に逆らわない。まったく力こそ正義だな」
吊り上がった口角。
デスマスクは有りとあらゆるものを、己自身すら、嘲笑う。
そうやって、他人が易々と真意に触れることを是としない。
しかし、その嘲笑が不意に消えた。
「おまえはどうする」
真っ直ぐにアフロディーテを見据えて問いかける。
アフロディーテは黙って友人を見返し、それから鼻で笑った。
「決まっている」
何が、とは言わないし聞かれもしない。
友は目を細め、喉の奥で笑う。
「まあ、一応こっちはとっくにコキュートスに落ちたことになってるから、地味ーに、こっそーり、殺るんだけどな」
「偶には悪くない」
「おまえは何やっても地味にはならんけどねえ」
からかうように言うデスマスクの小宇宙が高まっていく。
どこから行こうかな、と暢気に思案する彼に、アフロディーテは一つだけ聞く気になった。
「君は私に何故この計画に乗ったのか聞いたな。逆に君に聞こう」
とっくに切り捨てたはずの生界へ、何故戻る気になった。
「本当は、何故なんだ」
デスマスクは器用に片眉を引き上げ、いつものように笑うと、
「あなたに会うためよ? ダーリン」
「嘘でも嬉しいよ、ハニー」
「あ、ひどっ」
なんとも泣かせる台詞にアフロディーテは艶然と微笑む。
転瞬揃って馬鹿笑い。
げらげらと笑って二人、積尸気から奇麗に消えた。
































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好き勝手に書きましたが。
原作だと、正規の冥闘士が出撃したタイミングは
蟹と魚が穴に落とされた後と見て問題なさそうなんで、こんな妄想もしたくなりますよ。

ホント言えば、他の黄金よりちょっとお兄さんな魚が書きたかっただけですが。

ちなみに私は、ハーデス編の愉快な蟹が大好きです。

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