耳鳴りがした。
そう思うほど、世界は静まり返っていた。
水の中にいるように、青い光が揺れている。

そこに死骸が一つある。
胸を貫かれ、血溜まりの中に膝をついた男を、
ラダマンティスは見下ろしている。
奇妙な光景を眺めている。

「……痛いんだよなぁ」

死骸が溜息をつく。
自分の胸から背まで貫いている腕を掴むと、力を入れる。
中で潰れた肉が、ぐじゃりと音を立てていく。
「あ、あっ、あ」
引き抜こうとする度、殺しきれない声が漏れた。
見る間に血溜りが大きくなっていく。
最後に手首から先を一気に引き抜くと、デスマスクはそれを置いた。

「……返しとく。
そう簡単に死ねないってのは、お互い始末が悪いな」

置かれた腕は、冥衣だけだった。
見ればそこには壊れた人形のように、ばらばらの冥衣が転がっている。
しかし、そのどれもが、空ろだった。
岩の上には、デスマスクが独りでいる。
他には誰もいない。
見渡す限りの世界、デスマスクと鬼火の他は、何も無い。
それならば、今この光景を眺めているのは、誰なのか。

「大丈夫、だと思う。 いつもと勝手は違うが綺麗にやれた。
ちゃんと元に戻れるはずだよ」

いつのまにか、白い星が。
ぐったりとその場に両手をついたデスマスクの前に、浮かんでいた。
煌々と眩く、恒星のようなそれは、鬼火とは異質のものだ。
その光を見た瞬間、ラダマンティスは何が起きたのか理解した。
理解は驚愕に変わる。

「ラダマンティス」

名を呼ぶ声は、白い光に向けて。
依代である冥衣から切り離した、魔星を見上げ、小さな声で謝った。

「だって、おまえはきっと、怒るからさ」

存在の核となるもの、本質の全体性等を一言で、魂と称するのなら、
ラダマンティスのそれは今、彼の手を離れ、
鬼火の渦の中、"死" と向かい合っている。

戦慄が心を噛み千切った。
しかし、ラダマンティスは戦く自分の心が、それを感じ取っている自分が、この思考が、
本当に今、存在しているのかどうか分からなくなった。
意識の一瞬一瞬がもつれ、その実存を信じられなくなる。
崩れていく。
消える。



「ラダマンティス」

優しい声が呼んだ。
赤黒い血で塞がった、デスマスクの目。
しかし、盲いた目が真っ直ぐ見据える先には、確かに自分が在るのだとラダマンティスは知った。

「言っただろ? 簡単には死ねないって。 ハーデスの力がおまえを守ってる。
下手なことしない限り大丈夫だ」

その声が、どうしてこうも優しく聞こえるのか
知っているような気が、何故かした。
思考が麻痺している。

 " 貴様に慰められることの方が死よりも悲惨だ "

血の絡んだ舌が笑い、「ほら、大丈夫だ」と答えた。



陶然とした、不可思議な無感動。
酩酊する夢には青い光が揺れている。
亡者の魂がデスマスクのもとに集う。
闇夜、灯火に群がり死んでいく虫達のように。


「……此の世と彼の世を結ぶ、魂の行き来する門を、
積尸気という名で教えた人がいたから、俺もそう言うことにしてるんだ。
こいつらは皆、積尸気を通ってここに堕ちた。
だから、こいつらは同じ道をもう一度辿って地上に戻りたいから、俺を呼んでいるのかと思った。
けど、違った。 まるで逆なんだよ」

「俺が中途半端だったから、文句言ってたんだ」

血溜りの中から立ち上がろうとした足が崩れた。
小さく罵った口からは大量の血が溢れる。

「……俺が死ぬのとどっちが早いか、賭けるか? ラダマンティス。
さっきの話の続きをすると、この冥界は時を滞らせるが、完全に閉じきった世界じゃない。
冥界に入る魂を通す必要があるからな。 アケローン河はそのためにある。
この河だけは閉じてない。 ここが、冥界と外界の境だ。
それなら、この水の底はどうなのか……おまえ知ってるよな。
この河は何を沈めた」

時を凍てつかせた鈍色の鏡面世界。
その水底、計り知れない暗黒の深淵には

「……そういうわけだから、大人しくしていてください。 たぶん危ないんで。
ほら、そろそろだ」

世界は静かに揺れ始める。
微風に吹かれる枝のように。

「積尸気の真中にな……坂があるんだ。
戻ってこれなくなるから、越えちゃいけないってずっと言われた。
黄泉比良坂って言ってな、極東の御伽噺だよ。
ま、越えちゃったから俺も今こんなとこにいるんだけど……あの向こうは、
元々は違ったんだろうな」

揺れる。
揺れる。
真夜の海を漂う浮き葉のような心細さ、寂しさ。

「愛我那勢命、為如此者、汝国之人草、一日絞殺千頭……
子供が帰るのはいつだって母親のところだ。 どこにいても日暮れには名前を呼んでくれる声がする」

戦慄く、青い光の漣。
怯える子供をなだめるように、声は言う。
それは子守唄の優しさ。

「さあ、もう眠る時間だ……おやすみ」

鏡面世界が、割れる。
亀裂が走り、脆くも砕け落ちていく。
その下は、闇だ。
一片の光も存在しない奈落。
砕けた鏡は奈落に呑み込まれ、溶けるように消えていった。

その下には、何も無い。
何も存在し得ない。
人も、
罪も、
神も、無い。
秩序は失せ、意志は手放され、祈りは形を忘れる。
ただ闇だけが、在る。

鬼火が、落ちていく。
無限の暗黒夜に青白い尾を引き、消えていく。
星降る魂の恐怖と、歓喜。


闇の底は、全てを葬り去る終極。
そして、魂となる以前、静かな夢を微睡んでいた、始まりの夜。





デスマスクは小さな呟きを落とした。

「もう、いいだろ……」

よろめきながら立ち上がり、闇に還る魂達のもとに歩こうとする。
その身体を不可視の力が打ち据えた。 血溜りの中に崩れ落ちる。
赤が飛び散った。
唇を抉じ開けて溢れた血は、死体同然の肉体とは思えないほど大量だった。
胸に開けた穴から、手の傷から、盲いた目から、のたうつように流れ出る。
血溜りがどす黒くなっていく。

その中から、影が這い上がる。

最早逃げる力など残されていない身体を捕らえ、まとわりつきながら、
影は明確な形を成していく。
底光りする黒。 聖衣を擬した禍々しい輪郭。
血溜りの中から現れた"冥衣"が再びその身体を覆っていく。

「……散々、人の臓腑で暴れてたくせに、まだ邪魔をしたいらしいな……」

その言葉は、唇を微かに動かすだけで音にはならなかった。
だが次の瞬間には、身体の芯を引き裂かれていくような凄惨な絶叫が唇を震わせていた。
冥衣に宿る冥王の力に囚われ、拘束される激痛。
もがく魂に楔を打ち込まれ縛される。


しかし、既に世界は終わろうとしていた。
全ては奈落に引かれて落ちていき、ただ一人残された者を迎え入れるために闇が迫る。
絶叫する唇は、ゆっくりと笑みを浮かべた。































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『愛我那勢命、為如此者、汝国之人草、一日絞殺千頭』
は、古事記にあるイザナミがイザナギに向かって言ったものですね。
旦那の世界(地上)の人間を一日に千人殺すって言ってます。
イザナミ、イザナギは夫婦神で日本とか造ったり色んなもんを産みますが、
死んだイザナミは黄泉津大神とも言われるようになります。



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