ぱしゃりと、
何かが川面で跳ねた。
水音は柔らかく響き渡り、やがて薄れて消え、
後には無音の冷気が漂う。


浮かんで 消えた その音に
ラダマンティスは胸を突くような違和感を覚えた。
この場で聞こえるはずの音が、全く聞こえなかった。
視線を大河に転ずると、そこには異様な光景が広がっていた。


アケローン河は、
相反する小宇宙の対峙によって荒れ狂っていたはずの川面は、
完璧に、凪いでいた。
波一つすらない。
遥か水平線の彼方まで、磨かれた鏡のように平滑な光の面が広がっている。
それは、水の流れ自体が止まっているのだ。
怒号する波音は消えていた。
恐ろしい静寂が鈍色の鏡面世界を支配している。
唯一屹立する影は、二人のいる弧岩。
声も、言葉もなく、
闇空の風も止み、雲も動かず、全てが静止した世界。
しかし、何かが、在る。
虚空を震わせる何者か。

微かな音が、した。

地の奥底から少しずつ、少しずつ這い上がり、
なにか物悲しく闇空に立ち昇る、低い唸り。
心に響き怖気立たせるような哀切の調べ。

鈍く輝く鏡面に、じわりと曇りが差した。
夥しい黒影が下から滲み出てくる。
苦しみ悶える悲痛の声が湧き上がる。


細く長いものが、水面を突き破り、また沈んだ。
それは焼け木のような腕。
沈み、それでも水から逃れ出ようともがき、虚空を掻く指。
首が浮かんだ。
真っ黒に爛れ、目も鼻も分からなくなった顔。
そこにぽっかりと暗い穴が空いている。
低い唸りは、その奥から絞り出される。

静止した世界を蠢くのは、アケローン河を当てどなく彷徨う亡者の群。
溺れる者達の無数の影が鏡を濁らせていく。




脈絡もなく豹変していた世界に、ラダマンティスは目を見開いた。

アケローン河は、冥界の創世から尽きることなく流れていた。
その流れが不尽であることは、冥王の意に従い不変である。
冥界は冥王の創り出す世界。
全ては冥王の意による秩序。
だが、このアケローン河の異変は、決して冥王の意志ではない。
亡者が蠢きながら波紋一つ生まない水面。
この空間を支配する "時" が狂い始めている。
不変でなければならない世界秩序に、何らかの乱れを生じさせたものがある。
それは、何なのか。

「……おかしな話になっちゃったなぁ」

乾いた声で、デスマスクが言った。
変貌した世界を見渡す目は、既に熱も光も失せていた。
止めどなく溢れる自らの小宇宙に、全て貪り食わせたように。
ただ闇より暗い黄金の陽炎が、ゆらりと揺れる。
その時、ラダマンティスの眼前が歪んだ。
否、そう錯覚させたのは亡者の嘆きだ。
重苦しい呻き声は絶叫となって千切れるように悶える。
ぞわりと、亡者の群が動いた。
時を凍りつかせた水の中、鈍重にもがきながら二人の下へ押し寄せてくる。
ラダマンティスは、デスマスクに向き直った。
情動の遠い声が答える。
「……おまえが分からないのなら、俺も分からないよ」
だが、ラダマンティスがアケローン河に着いた時も、群がる亡者達の先にはデスマスクがいたのだ。
この男のせい、なのか。
この男が、亡者の狂態を引き起こし、冥府の秩序を掻き乱す "異物" なのか。
しかし、
「俺はもう 何もしない」
その青白い視線は、水面を漂うだけだった。


水面を覆い尽くす顔、顔、顔、顔。
亡者の群は二人の立つ弧岩の下へひたすら押し寄せ、引き攣った腕を伸ばし、
なんとかして岩壁を這い上がろうとする。
だが水からは抜け出せず、後から後から集まってくる者達に押し潰され、沈んでいく。
それでも、その顔は天を仰いでいた。
その腕は上へ差し伸べられていた。
身を裂かれるような絶叫は、今や天を揺さぶる巨大な渦となっている。
闇空が融解点を超えた物体のように捻じれていく。
世界が、変わっていく。
冥界の秩序から遊離し、全く異質の空間になっていく。
その真中に在るのは、黄金の陽炎。
全てを飲み込む奈落の業火。

「デスマスク」

呼ぶ声に、目を上げ、
死人のように青白い顔で彼を眺め、
だが、崖の先端に向かってふらりと歩む。
その身体を内側から食い破るように尋常でない小宇宙が溢れ出した。
世界を震わす巨大な嘆きの渦に抱かれ、共に狂い、脈打つ。
まるで胎動するように。
「止めろッ」
ラダマンティスはその肩を掴んだ。
直に触れた手を冷たい衝撃が打つ。 "死" が這い寄る。
構わず力尽くでデスマスクを振り向かせた。
大きく見開いた、ガラス玉のような眼球が一瞬ラダマンティスを映し、
次の瞬間ぐらりと身体が崩れた。
寸前、腕を掴まれなければ亡者の河に落ちていただろう。
「小宇宙を治めろ」
デスマスクの身体は全く力が入っていなかった。
やはり小宇宙の発現そのものが生気を消耗させるのだろうか。

「今、この空間がどうなろうとしているのか、貴様は分からないのか。
このまま変異が進めば、冥界の恒常性を保とうする冥王の"意志"によって、この空間は消去される。
或いはその前に、次元の歪みから生じる反発によって押し潰されるか。
いずれにせよ、この空間内に在る者は全て、消滅する」

ラダマンティスは、一句一句言い聞かせるように説明した。
この異変が、本当にデスマスク一人によるものなのか、確信はなかった。
だが、引き金となったことは確かだろう。
そして今、半ば異界と化した世界の核にあるのは、間違いなくこの小宇宙だ。
「小宇宙を、治めるんだ」
答えは、なかった。
顔を上げさせると、溜息のように笑った。
「……どうも調子が悪いのは、やっぱり風邪でもひいたせいかな」
こんな状況でも軽口は叩く。
掠れた声は別人のようだというのに。
「貴様という奴は、ふざけなければ口が利けないのか」
「流石、分かっていらっしゃる」
からかうように言って離れようとする。
その身体をラダマンティスは引き戻した。
デスマスクは、自分の腕を捕らえている手を改めて見下ろし、
「……良く触っていられるな」
少し驚いたように呟いた。
繋がった箇所を通じて、ラダマンティスの中には "死" が直接流れ込んでいる。
魂を冷たく満たし、身体から引き摺り出す、暗い静寂。
その力を小宇宙で相殺していた。
「この程度など造作もない。 貴様のふざけた口を黙らせることもな」

それでも、不条理だとラダマンティスは思った。
デスマスクという存在は、不条理だ。
ただ生命を終わらせるためにある力。
何故、こんな力を持った者が人間として生き、存在せねばならないのか。


ラダマンティスを見上げる目は、色のない光が浮かんでいた。
まるで水鏡のように。
「……俺は、何もしてない。 何が起きているかも分からない。
けれど呼ばれたから、少し答えた」
その視線は、また水面へ
亡者の群へと落ちた。

「俺の手を掴むのは、こいつら死人だけだ」




水面は黒く埋め尽くされ、ぞわぞわと蠢く。
天を仰ぎ、腕を差し伸べる無数の死者の顔。
それが、呼んでいる。
懐かしいようなその声に、デスマスクは耳を傾ける。
死人の怨嗟と悲嘆は何よりも馴染み深い。
身体の奥、魂の底で降り積もった、有象無象の死者の顔。
忘れることなど、ない。

「……俺を殺したいのか。
それとも、また俺に殺されたいのか、おまえらは」

永遠の彷徨こそが、アケローンの亡者に科せられた罰。
帰りたいと、此岸を求めても辿りつけず、諦めて彼岸を望んでも見つからず、
己の妄執に足を掴まれ深みに引きずり込まれる。
それでも泡沫の嘆きは、断崖で見下ろす人に手を伸ばす。

「どっちにしろ地獄で言う台詞じゃないな? もう死んでるんだ」

戯言を吐いた、その声は
優しいもののように ラダマンティスには聞こえた。


「ここまで堕ちたら、もうどこにも行けないだろ。
……だから、おまえらもそろそろ眠れ。 もう終わりにしよう」


優しい声は最後に おやすみ と言い、
亡者は彼に従った。
そして、天に差し伸べ、求めるその手を、
青い炎で捧げた。

弧岩の真下。
岩壁に縋りついていた亡者が、鮮やかな青の炎柱に包まれた。
炎は内側から噴き上がり、たちまち身体を焼き尽くしていく。
その腕も、哀しい呼び声も、全て烈火の藍色に飲み込まれていく。

炎が静まった時、そこに亡者の姿はなかった。
残されのは、小さな鬼火。
透明な青を揺らめかせ、ふわりと舞う。
水面を離れ、断崖に立つ人のもとへ。

デスマスクは、茫然とその様子を眺めていた。







「莫迦な……ッ」

眼下の光景にラダマンティスは呻いた。
一つ、また一つ、炎が噴き上がる。
暗く濁った色彩の世界に、亡者の燃える紺青の灯が生まれていく。

冥界は、冥王の力が創る世界。
亡者もまた同様。
その身体は罰を受け入れるための器として、冥王より与えられたもの。
罪を負う魂の囚われる檻。
それが崩れていく。

青い鬼火が、水面から昇る。
河から逃れられない亡者の身体を滅し、ふわり ふわりと 立ち昇る。
そして、デスマスクのもとへ。

ラダマンティスは、冷たい予感が心を突き刺すのを感じた。
何か、根源的な思い違いを、している。


「……勘違いをしているのかもしれない」


デスマスクが、そう言った。
その手が、ゆっくりと持ち上がり、
常にそうあったように、鬼火を呼ぶ。
爪のない指先は、まるで慰撫するように優しく、鬼火を包み込む。
水鏡のような目に浮かぶ、青い燐火は
今まさに冥府の理を外れた、死者の魂。


ぶるりと、手の中で鬼火がふるえ
歓喜か、恐怖か、両方か、ぶるり震え、

握り潰された。

光となって砕け散り、
その小宇宙の中に溶け入るように、消えた。


「ここは、ハーデスの地獄か」


世界が、大きく揺れた。










息が震える。
痛みを堪えるようにきつく閉じた目から、赤いものがどろりと頬を伝い落ちる。
デスマスクは身体を強張らせ、震えていた。
ラダマンティスに掴まれたまま腕は引き攣り傷から血が飛び散る。
自力で立っていることも覚束ない。
だが、その小宇宙は、衰えるどころかさらに大きく燃え立ち、様相を変えていた。
狂い続けていた黄金の凶渦が、澄み透っていく。
超高温に達した物体が自らの色彩を変えるように。
ラダマンティスは、その小宇宙に初めて意志のようなものを感じた。
そして、これこそが本来の姿であると知った。

静かに揺らめくそれは
亡者の炎、魂と同じ色

「……そういえば、この場所と似たようなのを、見たことがあるんだ……」

肩で荒く息をしながら、絞り出す声は
不思議と静かなものだった。

「テュポンの繭、だ。
時を滞らせ、内と外を完全に断絶することで、神を封じた、繭。
……少し、似ているだろ?
現世を離れた魂を抱え込み、滞らせるこの冥界は、たしかにハーデスの揺籃だ」
「何が言いたい」
「……これはおまえの言ったことだよ、ラダマンティス。
そうやって時を滞らせても、魂は巡るものだ」

世界が、震えている。
アケローン河は青い炎の海と化している。
鬼火は舞い踊り、まるで灯火に惹かれる蛾のように、群れ集う。

「さっき、こいつらに言っちゃったからさ、最後まで付き合ってやるんだ。
一応、俺の仕事の範疇みたいだから」
「……貴様が "仕事" という言葉を口にしても不気味でしかないな」
「たまには真面目なとこも見せてやろうと思ってさ」

目を赤で閉ざし、そう言ったデスマスクは、
どうしてか 少し困ったように笑っていた。


その表情が何なのか、何をしようとしているのか、
ラダマンティスはもう問わなかった。
眼前にいるのは、冥王の意志に背き冥界を脅かす、敵だった。

「デスマスク」
「うん?」
「これが最後だ」

ラダマンティスの拳に小宇宙が集束する。
零に等しい距離。 腕は取ったままだ。
逃げることなど出来ない。


デスマスクは小さく首を傾げ、また笑った。
その胸を拳が貫き、背中に抜けた。


























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