「貴様の問いは、冥闘士にとって何ら意味を成さない」


ラダマンティスの声を、
デスマスクは目を閉じて聞いている。
時折気紛れに相槌も打ちながら、聞いている。


「ハーデス様が絶対の存在であることは、真理であり真実だ。
比喩ではなく今この瞬間の現実として、それはある」

「たとえ幾千の輪廻を重ねようと、冥闘士は常にハーデス様と共に在る。
悠久の神代、ハーデス様に見出され永遠に仕えることを望んだ、
その記憶こそが冥闘士だ。
冥闘士は、移ろうことなく永久に、冥闘士として在り続ける」

「……つまり、記憶を保持し続ける?」

「冥界の、創世の記憶だ」


傍らの声がだいぶ小さくなっていたので、ラダマンティスは一瞥した。
デスマスクは目を閉じたまま動かない。
殆ど眠っているように思えた。
ラダマンティスは視線を戻した。
そして語る。
自分自身に向かってその存在を確かめるように、魂に刻んだ最も大切な記憶を手繰る。


「地上の生は脆い。
時の流れに肉は朽ち、心は尚更移ろい易い。
一生の誓いを立てたとしても、いつか必ず変節する時が訪れる。
望もうと望むまいと人は変わる。 そしてそこには既に罪が存在する。
あの地上に生きる限りは、どんなに正しくあろうとしたところで、咎人となる運命から逃れられない。
人という種は脆く、未熟だ。 人の世の矛盾に容易く押し流される。

ハーデス様は、真に人を憂えていらっしゃった。
だからこそ我等を伴って地上を去り、この冥界を創った。
地上での辛苦の中で生を終える魂が、その罪を悔い、贖うことが出来るように。
地獄が死者に与えるものは、罪に相応しい、望みの罰だ。
責苦と慟哭の果てにようやく死者は罪に塗れた自己を許し、安堵することが出来る。
冥界は謂わば、地上での罪に穢れた魂が安らぐために眠る、揺籃だ。

この冥界が生まれ、そして冥闘士も生まれた。
ハーデス様によって惑いの元凶である地上の生から解放され、
輪廻すら超越し、移ろうことなく永遠にハーデス様の冥界を守る、冥闘士となった」



奇妙だと、ラダマンティスは思う。
こんな死に損ないを相手に、こんな場所でこんな話をしている自分を、とても奇妙に思う。
死に損ないは、かつて女神の聖闘士の最高位にあった。
女神は冥王の大敵であり、聖闘士と冥闘士は神代から争い続けてきた。
本来、地上で何事も起こらなければ、聖戦の渦中でこそ対峙したはずの人間が、
今、傍らで死んだように眠っている。
たしかに、おかしな話だ。


地上の聖域は何故、狂ったのか。
いつからその意義を変容させていたのか。
冥闘士と聖闘士の、この差は何なのか。


悠久の、永久の、あまりに遥かな時間を、思う。
冥闘士にとって、冥王に永遠の忠誠を誓った日の記憶は過去ではなく、
時の流れに移ろうこともない。
冥界が時を超えた不変の秩序であると同様、
冥闘士もまた、己のままで輪廻を超えることを許されている。
だが、聖闘士は。


「貴様等は、脆い」


心の隅に追いやった焦燥は、
なにか漠とした、淡いものになっていた。





















「 ゆりかごが 」


ぽつりと、デスマスクが言った。


「 どうして聖戦をおこす 」


眠っているように見えて、話を聞いていたらしい。
目蓋を閉じたまま、微かな声でラダマンティスに問う。
「繰り返される聖戦がなければ、聖域はもっと早く自壊していたかもしれない。
あの女神も、聖戦のためにという名目で地上に転生している」
「無益に聖戦を続けさせているのは、貴様等の女神の方だ」
ラダマンティスは鋭く断じた。
「地上の魂が冥界で己の罪を贖えたとしても、いつかは再び転生し、また罪に穢れる。
地上に人の世がある限り、悲嘆と苦悩は永遠に終わることがない。
ただ生きようとしても、惑い、狂っていくのが人の宿命だというのなら、
ハーデス様は、その一切を断ち切り、全ての魂に平穏をもたらそうとしている」
「それが、聖戦か」
「地上を一度浄化する。 生きとし生けるものは皆、冥界で眠りにつき、
その間に地上にはハーデス様の揺らぎなき秩序による新しい世界が創られる。
死者の魂が眠りから覚め、地上に再び転生する頃、それまでの愚かな歴史は抹消されている」
「……だが、女神は地上の浄化を是としなかった」
風を撫でるように呟いた。
ラダマンティスの双眸に険しい光が走る。
「地上を守ると言いながら、その実、女神が行っていることは何だ。
考えもなくハーデス様の妨げとなり、徒らに苦痛の時を長引かせているだけだ。
真に地上を守るというのなら、まず人の世を変えてみせるべきだろう。
それが出来ず、その理由すら忘れて聖戦を繰り返すというのなら、
女神など、"神"とは名ばかりの災厄に過ぎん。
ならば幽冥の暗黒に去り、二度と地上に現れるな」



ふと、ラダマンティスは何かを感じた。
感じたように思った。
陽炎のように溶け消えた、極微かな、何かを。

辺りに視線を巡らす。
アケローン河の景色に変化はない。
濁った波は尽きることなく押し寄せ、闇空を暗い雲が渡っていく。
デスマスクも先程と同じように、目を伏せている。
何も、変わらない。
はずだったが、
「デスマスク」
「んー……」

「貴様は、笑っているのか?」

その顔に、なにか柔らかな、
微かな表情が浮かんでいるような気がした。
しかし声に出した瞬間、薄い色の目が はっと開かれる。
遠い夢の影を漂うような淡さは掻き消え、虚をつかれたようにラダマンティスを凝視する。
唇が戦慄くように開いた。
だが、声にはならなかった。
その目にある感情全てが氷と化す。

「……俺、やっぱりおまえとは合わないわ。
おまえのそういう、融通のきかないとこ、ホントつらい」

喉の奥から絞り出し、言い放つ。

「俺は、笑ってない」

冷たく強張った声。
これほど厳しい拒絶をラダマンティスは予期していなかった。
だがデスマスクは、起こしかけた身体をまた岩に投げ出し、凍えた両目を手で塞いだ。
そして深く息をついた。
「……気にしろ、八つ当たりだ」
「何なんだ、貴様は」
「何なんだろうなぁ、俺も自分で分からなくなるよ。
……どうしよう か」
揺れる声は、途方に暮れて、
僅かな、しかし言いようのない不安を、ラダマンティスに伝えた。
張り詰めた静寂の裏側を、得体の知れない暗い影が這い始める。
デスマスクは、手の間から口元を引き攣らせ、
呻くように笑った。

「ラダマンティス、おまえ、何のためにならハーデスを裏切れる」

唐突に投げ掛けた、冥闘士には無意義でしかない問い。
「どうしても手に入れたいものがあって、そうするしか方法が無いとしたら、
おまえなら、どうする?」
嘲笑する声がひび割れていく。
「……悪い、愚問だった。 おまえ等には無理だったな。
おまえに神は殺せない」
デスマスクにとって、女神は意味を成さなかった。
ラダマンティスにとって、冥王は全存在の核だ。
神を真実、裏切ったのは。
「誰の話をしている」
「……随分昔に、さっきのおまえと似たようなことを俺に言った人がいてね。
そうやって、女神をいらないと言ってた。
けど全然違う、正反対だ。 あの人のほうが、もっと」
酷い、と唇を吊り上げる。
笑みと言えないほど歪んだそれは、まるで逆のものに見えた。

「あの人が女神を否定したのは、地上のためだ」

掠れた声が喉をこじ開けていく。
胸の奥を塞がれて苦しむような、声が。

「あの人が欲しがったのは、二度の聖戦の起こらない、起こりようのない世界だった。
女神がそれを成し得ると信じていなかった。
ラダマンティス、おまえにはハーデスがあるが、
あの人には何もなかった。
あの人の望みを叶えるのは、あの人しかいなかった。
だから選んだ、それを」

女神に仕える身でありながら、それを捨てる道を選んだ聖闘士。
災禍を生み、死を招いた始まりの男。

「本当は、怯えていたのに」

欺瞞と狂乱の13年間。 その結末は、

「あの人はただ地上のことだけを考えていた。
そのためなら全てを捨てることも、犠牲にすることも出来る人だった。
どんなに怯えて、苦しんで、のたうち回っても、
それでもあの人は世界を変えることを望んだ。
実際、あの人は神様みたいな人だった。
全部を理解して、全部を悲しんで、残酷なほど容赦ない、全部にだ。
代わりにあの人の全部も、世界に捧げられていた。
ああ、本当に、神様みたいだった」

少しずつ、少しずつ、その声が内側から崩れていく。
取り繕っていたものが剥落していく。


「けれど、俺はあの人が良く分からなかった」


瞬間、気配が様変わりした。
ぞくりとするものを感じ、反射的にラダマンティスは立ち上がった。
周囲の空間から目に見えない何かが確かに消失していく。
黄金の陽炎が、揺れた。

「俺は殺すことしか出来なかった。 それで俺は良かった。
だから殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して、殺したのに、
あの人のことは、分かってなかった。
ずっと傍で見ていたのに、あの人の創ろうとしている世界が理解出来なかった。
……いや、違う。
違う、そうじゃ ない。
分からなかったわけじゃない。
俺はきっと、信じていなかったんだ」

揺らぎ、燃え立つ "死" の業火。
その小宇宙、無限の虚無が幾重の螺旋となって悶え狂う。
だがデスマスクは、まるで気づいてない様子だった。
歯を噛み締め、何かを堪えるようにきつく目を瞑る。
頭を抱えた指が引き攣り、過剰な力でまた傷口が裂けた。
赤い血が髪を汚した。

「あの人が創ろうとした世界を理解するのに、本当は何もいらない。
優しい人だったんだ。
優しい世界を創ろうとしていたんだ。
どんな人間も、ただ静かに生きて、死んでいける普通の世界が欲しかっただけだ。
そういう優しい人だったんだ、あの人は。
俺は、知っていた。
それが成し遂げられるとしたら、女神ではなく、あの人しかいないことも、
俺は知っていたのに。
どこかで、あの人を信じてやれなかった。
あの人も、あの人の創る未来も、俺からは遠い気がした。
あの人がいてくれても、俺はただの人殺しだった。
もうあの人には、何も無かったのに、
俺はあの人のことも信じていなかったんだ。

……救いようがねえな、俺は」


小宇宙が膨れ上がる兆候を察し、ラダマンティスは身構えた。
多頭の蛇のような小宇宙をまとわりつかせ、デスマスクがふらりと立ち上がる。
同時にラダマンティスの小宇宙が咆哮した。
反発しあう力が正面から対峙し、衝撃が闇空をも烈しく揺さぶった。
二人を源に同心円状の津波が起こり、天高く迫り上がった大波が獰猛な牙を剥く。
ゆっくりと、デスマスクの手が剥がれ落ちる。
現れた目は、熱病のような狂おしい光を放っていた。

「あの人がいれば、良いと思った。
どうなろうと、何が起ころうと、あの人が生きていれば、
それで良いんだと思っていた。
けれど結局俺は、苦しんでいたあの人に俺まで背負わせていただけだ。
あの人が、本当はどちらを選びたかったのかも分からなかったくせに、
俺はただ殺して、殺して、最後はあの人も死なせた。
あの人だけは、どんなことをしてでも、守らなければならなかったのに」

その目は、
まるで憎悪のように純粋な、激情。
射殺すように煌き、小宇宙は衝動のままに狂う。
ラダマンティスは、人の形をした "死" と向き合いながら、
その目の、身を引き千切るような熱情から、視線を逸らせずにいた。
カイーナで垣間見たそれは堰を切って溢れ出す。
大気は鳴動し、荒れ狂う波が巨大なうねりとなって轟き渡る。
だが、デスマスクは何も聞こえていないように、言った。


「俺が裏切ったのは、女神じゃない。
俺が最後まで裏切ったのは、あの人だ」


怒号する世界を裂いた言葉は、むしろ静かに、とても静かに、
塞がれた喉を解放した。
そして、薄い刃でラダマンティスの胸をも貫いた。


















おそらく

地上で最も愚かだったこの男が、
最後に殺した人間は、自分だったのだろう。
冥府に堕ちた後、目覚めるまでカイーナで晒していた、茫然とした有様。
肉体は生きているのだとしても、そこに意味はなく、
唯一の理由にしていたものを、守ることが出来なくなったその時から、
自我を葬り去っていたのかもしれない。

だが、冥王はそれを許さず、朽ちたはずの精神は再び目覚めた。
死者が覚めぬ夢を見続けるこの世界で、独り。
そして、生きるでなく、死ぬでもなく、こんな場所に立ち尽くしている。
それが誰のためなのか。
今は、知っていた。
ラダマンティスは僅かに躊躇い、しかし、告げる。

「ジェミニの聖闘士は、何も語らなかった。
ただ己の罪だけを告白し、コキュートスに堕ちた」

何のために叛逆し、何のために死んだのか。
一切を黙して堕ちた。
だがもしも、その言葉が一言でも伝わっていたなら
デスマスクはどうしたのだろう。


無意味な仮定だ。
ここは冥界。
望みの存在し得ない世界。


「……あの人を死なせたのは俺だ。
だから、俺を殺していいのは、あの人だけだ」



その罪は鮮やかであり
罪人はここに在り
自ら首を差し出し、断罪の時をどれほど待ちわびたとしても、
望みが叶えられることなど決してない。
永遠に、永遠に訪れないその時を、待ち続けていくだけの



「あの人しか いないんだ」














ただ、心ばかりが切り落とされて
(ちぐはぐな心が無形の刃に食らい付いて)

沈みゆく 暗愁の大河



その深淵で、静かに顔を上げたものがある。

























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