形容しがたい寒気がラダマンティスを襲った。
眼前に渦巻いた黄金の業火は、陰鬱な大河と闇空を抑えて目を射るほど眩い。
だが、慄然と直感する。
その光は魂を凍てつかせる。
業火がゆらりと身を起こし、内に孕んでいたものをラダマンティスに晒す。
暗黒の深淵が、口を開けていた。
光の中にありながら、光を飲み込み全てを貪り尽くそうとする、奈落。
そこに、銀の両眼を見た。


 分かるか


囁きはラダマンティスの小宇宙に直接響き、
気づかせる。
その業火は、冥府の闇よりなお暗く冷たい、小宇宙。
だがラダマンティスはそれを否定しようとした。
何故ならその異様な気配は小宇宙と全く対極にあった。
小宇宙とは、生命の根幹たる極小の願望が生み出す極大の力。
存在の始原、"命" に起因するもの。
だが、今目の前にあるのは、それら一切を無限に貪り喰らうものだ。
生命の因果を突き崩し、全ての事象を葬り去る、最後の、そして絶対の帰結。
まるで "死" そのものだ。


























どこか遠く、ぱしゃりと水音がした。

気づくと、あの小宇宙は消え去っていた。
気怠い波の遠鳴りを従え、鉛色の大河が流れてゆく。
デスマスクは、ただそこにいた。


ラダマンティスは猛り立っていた自分の小宇宙を静めた。
冷たい感触がまだ喉の奥にあった。
全てを飲み込もうとするあの力に抗うだけの小宇宙を持たない者は、
肉体よりも先に魂が堪えきれず、引き摺り出されるだろう。
ただそこに在るだけで、死を無限に重ねる小宇宙。
生命の理に終わりをもたらす力。
それは、生きた人間のものとは思えなかった。

「おまえは、俺が "何" なのか、分かるか」

抑揚のない声が言った。

「俺が本当に女の胎から産まれたのか、
それを知ってた人はとっくに死んでしまったし、俺も聞いてみたことはなかったけれど、
生まれた時から俺はこうだった。
俺を化け物と言ってくれた人がいた。
俺もそう思う」

その声は、やはり熱がなく
自分ではない誰かを遠くなぞるようだった。

「何でもいいんだ。 何を殺してもいい。
俺は何もいらないから。
それが神でも、冥闘士でも、聖闘士でも、ただの人間でも、女でも子供でも、構わない。
敵も味方もない。 善悪を秤にかける気もない。
俺にとっては皆、ただの骸だ。
だから逆に分からないんだ、何を殺せばいいのか。
……その点、聖域は俺を上手く扱っていた。
あの場所は人でなしを良く飼い馴らす。 俺には居心地のいいところだった。
だから、俺はきっと、どちらでもよかったんだよ。
聖域に女神がいてもいなくても、あの場所を支配していたのが本当は誰だったとしても、
聖域があるのなら、誰でも構わなかったんだ」

俺はただ、殺していれば良かったんだ。


まるで真理を語るような 人でなしの
その目は淡く彩られ、冥府の裁き手を沈黙させる。



「分かったら、もう終りにしよう。 話し疲れた」














分かるかと問われれば、
ラダマンティスは肯定するだろう。
言葉にすればとても単純な事実だ。
死は必然として存在する。
それをもたらすものもまた、在る。
だがもしも、ただそれだけの為に存在するのだとしたら、
それは、人間の枠を外れている。
だが、

「俺には、理解出来ん」

ただの兇器ならば、何故意志を持っている。
何故語ろうとする。 何をそんなに望んでいる。
ただの兇器ならば、何故コキュートスに行った。
その哀しみは、何だ。


愚かだ。
この男だけでなく、聖域の全てが、ひたすら愚昧だ。
神を見失う虚ろな精神、異常な力だけを抱えた聖闘士、
それを容認した聖域、何も出来ずに放逐された非力な女神。
何もかもが、出来損ないだ。
冥闘士ならば。
こんな浅ましい、愚かなことなど起こり得ない。
冥闘士ならば、たとえどんな小宇宙を持っていようと、それがどれほど厭うべきものであっても、
全存在は神のために在ると初めから定められ、神によって祝福されている。
冥王こそ冥界の全て。 絶対無二の "神"
疑う必要などない、まして裏切るなど在り得ない。
自己の存在意義を見失うなど、冥闘士には無縁の虚無だ。


「貴様がどうしようもない阿呆だということしか、理解出来ん」
「……頑固だねえ、おまえは」

とぼけた声。
莫迦が、と胸の内で吐き捨てる。
臓腑が引き攣れるほど苛立ってくる。
遣る瀬無く神経を掻き乱す焦燥。 あまりに愚かすぎるからだ。
こんな結論で、全てを終わらせたつもりでいる男の、身勝手な望みを、
聞き入れてやる義理はない。





















「貴様は莫迦だ。 同情の余地もない」

声に出した苛立ちに軽口が返される。
「んなの知ってるよ」
その隣に、ラダマンティスは不機嫌な顔で腰を下ろした。
デスマスクは大袈裟に嫌そうな顔をする。
「ええー? 何ソレ 何なのソレ! もう充分話しただろ !? 家帰れよ!」
「決めるのは俺だ」
ラダマンティスは冥衣のマスクを外し、浅い砂色の髪を掻き上げる。
隣で溜息がした。
「おまえ意外とめんどくさいな……」
「貴様にだけは言われたくない」
横目で睨むと素知らぬ顔で波間を眺めている。
片膝に頬杖をついたその手には、生乾きの血。
地上での時間が本当に何もかも空虚で、意味がなかったのなら、
どうしてその拳は赤く染まるのか。
ラダマンティスが口を開きかけた、その時、

「……疲れた」

不意に、デスマスクはくたりと後ろに崩れると、そのまま寝転んで目を閉じた。
「あなたの存在には心底疲れ果てました」
ほざいた直後、むせたような咳をする。
「風邪かなぁ」
「冥界にそんなものがあるか」
「結構泳いだからさ」
「まずそれが間違いだ。 この河には亡者共の妄執が溶け込んでいる。
その妄執が亡者を水の下に引き摺り込む」
「ふぅん……」
心なしか青ざめたその顔には、確かに憔悴の影があった。
アケローン河に精気を奪われたせいもあるだろう。
だが、それだけなのだろうか。
あの 小宇宙。
生命の成すものとは全く逆の力。
もしもあの力が自身をも少なからず蝕むのだとしたら。
眠るように目蓋を伏せ動こうとしない男の、首を確かめてみると、
死人のようにひやりとした。
「……なんか こう、いまいちはっきりしないんですけど、
俺って生きてんの? 死んでんの? 心臓動いてる自信がない」
「死んでは、いない。 が、貴様の言う "生きている" とも少し違う。
冥界はハーデス様の支配する世界。 地上の生とは時の流れが違う。
亡者も、亡者でない者も、等しく時は滞る」
「良く分かりません」

自分から聞いておきながら、さして興味もなさそうに答え、
デスマスクはぼんやりと目を開けた。
その視線は、自分から離れていく冥衣の腕を掠め、さらに上へ。
遥か頭上に広がった、地獄の闇空。
流れゆく雲は暗く濁っている。
その切れ間から覗く空は、ただ暗黒。
月も星もない、朝日を知らぬ永遠の夜が、世界の外殻だった。

「妙な空」

ラダマンティスは空を仰いだ。
見慣れた冥府の天だった。
「あれさー、あの雲の上って行けんの?」
「この世界は閉じている。 無理に抜けようとすれば次元断層に飲まれるぞ」
「まあ、こわい」
そんなことを言いながら、もう話から心が逸れたのか、
デスマスクは傍らに羽を休める冥衣の翼に手を伸ばした。
闇色の貴石のように煌く尖端を、指の先で静かになぞる。
「貴様の冥衣はどこにやった」
「あるよ、あっちー」
人差し指のさした先は、茫漠たる水平線の彼方。
ラダマンティスにじろりと睨まれ、すぐに指は引っ込む。
しかし移り気なはずの眼差しは、じっと彼の冥衣に注がれていた。
「……ちがう、よなぁ。 俺にくれた冥衣と性質が違う。 根っこから別物だ」
「違って当然だ」
「そうなの?」
「この冥衣は "俺" だからな」
「うん?」
「神代から未来永劫、ハーデス様に忠誠を誓う不変の証だ」
「ふぅん」
分かったのか分からないのか、適当な相槌。
腕を枕にしてラダマンティスの方を向く。
「……おまえの言い方は抽象的すぎるな。
時間の概念に意味がないのなら、少しはゆっくり話をしたらどうだ。
話を続けるならね」
にっと笑って、ラダマンティスの難しい顔を見上げる。
「じゃあ、今度はおまえが話をしなさい。 俺はちょっと休憩するから」
そのまま目蓋を閉じ、寝入るように静かになった。
ラダマンティスはその青ざめた顔を睨んだ。
「何故俺が」
答えはない。
憂鬱な波の声だけが流れてゆく。

どこかでまた、ぱしゃんと水音がした。
アケローン河に魚はない。
いるのは亡者だけだ。

「……だから、疲れたって言ったろ」
デスマスクが僅かに目を開ける。
「俺はね、おまえらの方が不思議なんだよ。
どうしてそんなにハーデスに付き従うことが出来る。 何故 "神" を絶対の基準として疑わない」
低い波音は、その声を掠れさせる。
「……連中が死んだのは、おまえの言ったとおり 愚鈍だったからだ。
女神に恭順することも出来たはずなのに、しなかった。
あいつらが本当は何を考えて死んだのか、俺は知らない。
だからコキュートスに行ったんだよ。
何でそんなに馬鹿だったのか聞いてみたくてさ」
掠れた声は波に没し、途切れた。
大河は亡者の憂愁に染まり、果てを知らずに流れてゆく。


「どうして、おまえ達は "神" を信じていられるんだ」


神を知りながら、受け入れられず、堕ちた、
愚かな聖闘士の問いを、冥闘士は黙って見下ろす。


やがて、仄かな静けさの終わり
ラダマンティスは顔を上げた。
大河の彼方、遥かな天際を睨む。

「その問いを発すること自体が暗愚であると思え」
「ん、検討してみる」

愚者は笑って、目を伏せた。






ただ、愚かしかった。
冥闘士にとって、何より明らかなその答えを
この男は、地上で決して手に入れられなかったということが
哀れなほど、愚かだった。

























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