「聖闘士は女神を守る者」

冥王には冥闘士が、女神には聖闘士が
神代を今と結ぶ神聖な誓いの下に、存在する。
だからこそ、問う。

「自己の存在意義である女神に何故叛いた」


問う その傍らで、
叛逆者は頭を抱えて呻いていた。
「……おまえはまず、人にものを聞く態度ってのを勉強しろ!」
「貴様がまともな人間ならば考えてやらなくもなかった」
「それもそうだな」
けろりとして答える顔をラダマンティスは睨むが、
デスマスクは ぼやけた笑みで返す。
そして

「女神が、女神じゃなかったからさ」

その答えは、意味を成していなかった。
「どういう意味だ」
「そういう意味だよ」
からかうような声。 しかし、
「……叛くってのは、誰が何を裏切ることだ? ラダマンティス。
死んだ連中の大半は、女神の御座す聖域の命に従っていただけだ。
女神を信じこそすれ裏切るなんて、そんな考えは思いつきもしないし必要もない。
あいつらは女神に忠実だったよ」
語る目の、薄いガラス膜の奥。
ぼやけた笑みで覆われた底から、笑わない言葉が浮かび上がる。
ラダマンティスは硬い声で返した。
「だが、聖域に女神などいなかった」
「もう大筋は知ってるんだろ?」


冥府は死者の罪を裁く。
罪とは即ち地上の生である。
聖域が抱え続けてきたその欺瞞を、ラダマンティスは既に知っている。
聖域の主たる女神は、赤子のうちに放逐され、
神権を簒奪した偽りの教皇が13年の時を支配していた。
そして、成長した女神が聖域に戻ろうとした時、
その事実を知らぬ多くの聖闘士が互いに争い、死んだ。
かつてない内乱を引き起こした黄金聖闘士は、冥府の罪人となった後、
ルネが記憶を読み解くまでもなく、自ら全ての罪を告白し、進んでコキュートスに堕ちた。



「……真実を知らずに犯す罪が、許されるわけではない」
「ん、ごもっとも」
「愚かであることは既に罪悪だ。 だが、貴様は」
「ああ、知ってた。 初めから」
「知りながら、自分の仲間を犬死させたのか」
「そうだよ」
当然のように認めた、その目は
「けれど、おまえはまた間違えてる。
あいつらは仲間なんかじゃない。 俺にそんなものは無い。
それに犬死でも何でも、駒は使われてこそ、だろ。
自分はまともな死に方が出来ると思ってるのか? おまえは」
侮辱というには、あまりに情動を欠き、
水鏡のような両目は何も映さず、ただ薄く光る。
「……己の神に討たれるような愚かな貴様等と一緒にするな」
否を告げる眼差しに真っ直ぐ突き返されると、
薄い光は崩れ、笑った。
「そうだな。 ごめんねぇ?」
ラダマンティスは答えなかった。
赤い手は、いつのまにか血が止まっていた。


「まぁいいや、それは。 おまえが聞きたいのは理由の方だろ?」

片膝に頬杖をつき、デスマスクは詰まらなそうに言う。
己の言葉にまるで興味がないのか、足下に広がる暗愁の大河をぼんやりと眺める。

「たしかに、真実が隠されていたのも一つある。
死んだ連中の中には、聖域に女神がいないと薄々気づいていた奴もいたが、
13年前に何があったのか、知ってる人間は殆どいない。
まして、あの小娘が13年前に消えた本物の女神だってことは、最初は誰も分からなかった。
けれど、真実とかいうものを皆が知ったとして……
それで全て終わると思うか?
真実を知るには、真実だと理解するためには、証明が必要だろ。
さて、おまえにも考えてもらおうかな、ラダマンティス。
女神が聖域に戻ろうとした時、何を、どうやって証明する必要があると思う?
……いや、俺の聞き方が悪いな。
この場合どうしても証明しなければいけないのは、一つだけなんだよ。
それが分かるか?」

ラダマンティスを一瞥した視線は、
答えを問う、というよりも、ただ表面を眺めるだけだった。
何も欲してはいない。

「聖域の主に相応しい "神" であることを、だ。
たとえ女神が本物でも、それを証明出来なければ "神" にはなれない。
小娘一人がいくら自分が女神だと口で叫んだところで、誰が聞く。 誰が信じる。
上手くやって13年前の事実を証明出来たとしても、はっきり言えば、
意味がない。
過去は過去だ。 今の証明にはならない。
13年も外の世界にいたあの小娘が、再び聖域の主になるためには、
自分の力で聖域の頂点に君臨しなければならない。
それが、唯一の証明だよ。
たとえあの小娘が真実の女神でも、それが出来なければ、
決して"神"とは認められない。
頭のおかしい小娘の妄想で終わるか、人に仇なす怪物として討たれるか。

つまり、女神だから神なんじゃない。
神として信じられているものこそが、神だ。
人がその力を信じ、受け入れるのは、聖域に御座す "神" だけだ。
だから、女神は 女神じゃなかったのさ」




「そんな下らん理由で、女神に拳を向けたと言いたいのか」

低い声が波音を断ち割った。
叛逆者は顔を上げずに答える。

「"女神であること"は、お前が思うよりも脆弱な真理だったらしい。
けどまあ、安心しろ。 栄えある犬死のおかげで、今や彼女も立派な "神" になっただろうから」
「ふざけるなッ」
笑いもせずに吐いた言葉をラダマンティスは切り捨てた。
「貴様の言ったことは全て、神を分からない、その小宇宙を知らない人間の話だ。
話をすり替えるな。 神のためにある闘士が、どうして神を見誤るッ
貴様は、"知っていた"はずだ」
「ああ」
闇空から、冷たい風が吹き降りた。
「あの小宇宙は、覚えていた。
俺は最初から全部知っていた。 あの小娘が女神だってことも分かっていた」
「ならば何故女神を裏切った。 それとも、必然の犠牲を捧げたつもりか」
「……皮肉なんて言えたんだ……」
デスマスクは顔を上げた。
彷徨う眼差しはラダマンティスを通り過ぎ、闇空を行く雲を眺める。
「話をすり替えたつもりは ない。 ただ脆かっただけだ」
「それは、」
「だから俺はここにいる」

「女神のために在るのが聖闘士なら、俺は最初から違っていた。
あれを "神" とは思えなかった。 いや、理解はできたが、それだけだった。
13年前のことが有っても無くても同じだ。
初めから俺に、 "神" はいなかったんだよ」

無意の、虚無の叛逆。
その末に討たれた愚物の徒は言う。


「それでも、別に構わなかった」


熱のない、柔らかな声。
見知らぬ人間の話をするように。
ラダマンティスは、自分が苛立っていくのを感じた。

「ならば、貴様は何のために在ったつもりだ。
何故女神に討たれた」

答えはなかった。
沈黙は薄く張り詰める。
触れれば砕ける氷のように。
ラダマンティスは、何故か焦燥のようなものを覚え、また苛立った。
しかし、デスマスクは

「……思い出せないな」

静かに笑い、唇を吊り上げた。
「おまえがポカポカ殴るから忘れちゃった!」
笑い声は唐突に明るく弾けた。
なにかとても楽しいことであるように、哄笑はますます酷くなっていく。
「貴様という奴はどこまで……!」
ラダマンティスが襟首を掴み上げても、まったく構わない。
けらけらと笑いこけて身体を震わせる。
突然の事態に、ラダマンティスは拍子抜けした。
「……貴様は一体何なんだ……」
馬鹿笑いは暫く続いた後、彼の腕にすがってようやく息を飲み込み、止まる。
「ハ、ァ、あー……悪ぃ悪ぃ、ついなー。
だって、地獄で三巨頭相手にこんな話真面目にやってんだろ? なんかもう耐えきれなくなった!
あーもう、何やってんだろうなぁ、俺達」
思いきり顔を顰めているラダマンティスを慰めるつもりなのか、
その腕をぽんぽんと軽く叩く。
口元はまだ笑みを浮かべていた。
「おまえはちっとも笑わない奴だな。 笑いたいときってないの?
ちょっとは笑ってみせなさい、な?」
ラダマンティスは腕を振り払った。
「話を逸らすな。 聞いているのは俺だ」
「分かってるよ。 だから笑ったんだ」
微笑が滲んで、全てを溶かす。

「おまえは 勘違いしてるよ、ラダマンティス」

「誰のためでもない。 何もない。
俺が聖域にいたのは、あそこ以外に俺を飼っていられる場所がなかっただけだ」
「どういう意味だ」
「俺は初めから終りまでただの人殺しだってこと」
はぐらかす、神経を逆撫でする戯言の一つを、また口にした。
「まだふざけるつもりか」
「……ああ、そうだよ。 だから、」
デスマスクはゆっくりと襟に指をかけ、直す。
緩慢なその動作を見下ろしながら、ラダマンティスは、自分が一歩退いたことに気づいた。
感情よりも先に身体が何かを覚っていた。

「嗤え、ラダマンティス」


その瞬間、黄金の業火が燃え立った。


























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