デスマスクが消えたと報告があった時、ラダマンティスはすぐに捜索を命じた。
しかし同時に、なにか奇妙な思いがあった。
カイーナを抜け出して、あの男はどこに行くのか。
行くべき場所などあるのか。
消えた男の行方は、まるでその不透明な精神のように、掴み取れなかった。
だが、もしも
あの男に、ただ一つでも明確なものがあるとしたら。


そして、ラダマンティスが向かったのは、地獄に堕ちた黄金聖闘士達の元。
冥界の最奥 第八獄 コキュートスの永久監獄。




永遠の夜に閉ざされた氷原。
神に叛いた者達は、凍てついた墓場に首まで沈み、暗く冷たい風に吹き曝される。
だが、亡者達は氷と化した自分の眼窩を知らない。
自分がどこに在るのかも分からない。
自分が何者だったのかすら忘れている。
コキュートスでは、自分という全てが奪い去られる。
何も見えず、何も聞こえず、何も語れず、誰にも触れられず、
理解できるのは一つ。
自分には、何も存在しないこと。

最後の地獄に救済は無い。
ただ、無間の孤独だけが在る。



そのコキュートスに、ラダマンティスは一人で降り立った。
既に部下達が調べ、逃亡者の姿はなかったと報告されていたが、
それでも自分の目で確かめたいことがあった。

そして、凍てついた大地に、見た。
氷の柩を砕き割ろうとした跡を。


地獄とは、神意による罰である。
冥王の創造した氷の大地が融ける日など、未来永劫、無い。
神の怒りは時を滞らせ、輪廻の輪すら凍りつかせた。
その氷を砕こうとすれば逆に拳が砕ける。
何度拳を振り上げたとしても、どれほど爪を立てたとしても、
表層を少しばかり削り落とすだけ。
徒に自らを傷つける、虚しい、無益な行い。
神の意思を覆すことなど何者にもできない。


白い氷原が、赤く染まっていた。
血塗れの拳と指で砕き掻き毟り狂ったように引き裂いた、
引き裂かれた赤い痕。
あの男の熱病のような目を、思った。



永遠の夜が、深々と凍えてゆく。
氷の墓場に葬られた反逆者達は、時を忘れて眠り続けていた。























ぎちり、と肉の裂ける音がした。
赤い血が滴り落ちる。
デスマスクは、砕けた拳を真っ直ぐラダマンティスに突きつけた。
「これが、何だって?」
堅く握る過剰な力が鮮血を溢れさせる。
だが、笑っていた。
「俺がコキュートスにいたから、どうしたって言うんだ……」
柔らかな足取りが二人の距離を音もなく無にする。
「なあ?」
すぐ傍らから、鼓膜をとろけさせる悪意が。
首のない猫のような笑みが、ラダマンティスを見上げた。
「それがおまえに何の意味がある、ワイバーン」
凍てついた、凄絶な眼差し。
それはこの男が初めて表に出す動揺なのかもしれない。
だから、ラダマンティスは言った。

「助けようとしたのか」

一瞬、茫然としたその目が、ゆっくりと見開かれ
「……んなわけねぇだろ、クソ野郎」
笑みが褪せていく。
こびりつかせた悪意が剥がれ、剥がれて
最後に残されたのは、絶望に良く似た何か。
「もう、全部 終わってるだろうが」
それすら、掠れて去り
後はただ、その目の、暗黒。
凪いだ水面のような、底知れず澄み透る虚無を、
伏せた目蓋が隠す。

 残ってるのは 俺だけだ




赤く壊れた手がラダマンティスを突き放すように触れ、止まった。
爪のない指は静かに震えていた。
ラダマンティスは冥府を預かる者として、
その無残な傷を、神意に叛いた当然の報いだと理解していた。
だが、今は沈黙した。








やがて
ひび割れた手が、力を込めて冥衣を突き放した。
ラダマンティスは微動だにしなかったが、デスマスクはするりと離れていく。
不可思議な微笑が、その顔を滲ませた。
「……ラダマンティス。おまえ、何やってんだよ」
裸足の足が軽やかに立ったのは、岩の断崖。
吹き上げる風に煽られ、不安定に揺れる身体が、
くるりと爪先で回った。
「何やってんだよ、なんで今こんなとこにいるのが、おまえなんだよ。
三巨頭なんだろ? それなりにエライんだろ? 部下なんかいっぱいじゃねぇか。
なのに、何だそれ。 おまえ相当暇だろ」
毒づいて、けらけら笑ったその目には、もう何もない。
「……貴様の処分をハーデス様に任されている」
「あ、そう。 分かったからもう消えろ」
「出来ん」
「うるせぇバカ、帰れ」
罵る、熱のない吐息。
濡れてくすんだ髪の間から、その眼差しはぼんやりと闇空を彷徨う。
頭上を覆う暗い雲、茫漠とした大河の波音に足元をさらわれながら、
色のない男は立っていた。
「貴様は、どうする」
滲む微笑。
鈍色をした憂愁の世界に溶けていくままの、それが、
形だけのものだったと今なら分かる。
「死ぬつもりだったのか」
彷徨っていた視線が、ラダマンティスを射貫いた。

「死んでいいなんて、言われてない」

声は波音を薄く切り裂いた。
憤るでなく、嘆くでなく、淡々と響かせ、
そのままラダマンティスに背を向けた。
断崖に腰を下ろし、遥かに遠い水平線の、もやに霞む彼方を眺める。
その向こうから、何かがやって来るのを待つように。
いつとも分からぬその日を、待っているように。


「だから俺は、ここにいるしかない」




それが、誰と交わした約定なのか。
ラダマンティスは知らない。
だが、それが果たされることは、もうないのだろう。
ここは冥界だ。
「帰れよ、ラダマンティス。 俺は何もしない。
信じないのならハーデスに誓ってもいい。 冥王でも女神でも、何にでも誓ってやる。
俺は、もう何もしない」
「……そんな節操のない誓いが信じられるか」
「もっとも過ぎてめんどくせぇ、おまえ」
「貴様は誰の言葉なら聞くつもりだ」
「尋問ごっこはもう終わりましたー。 お話するだけなら 帰って、お願い」
さらりと投げ出した、言外の要求。
猫背を丸める後姿を、ラダマンティスは無言で見据えた。
帰れという言葉の裏、繰り返されたもう一つの望みなら、正しく解していた。
しかし、拳に再び小宇宙を込める代わりに、
「貴様のような得体の知れない物を、訳も分からぬまま野放しに出来るか」
ただ、そう答えた。
その顔をデスマスクは睨む。
殺意すら宿した目がラダマンティスを射貫く。
交差する視線は互いを否定し、譲らない。
低く、波の声が呻りを上げた。
崖下で巨岩が波を噛み砕き、濁った泡が飛び散っていた。



眼窩を貫いて、魂の底を見透かすまで。
デスマスクは、黙したまま自分を見下ろす冥闘士の顔を、じっと眺めていた。
やがて、唇を吊り上げた。
「……きっとおまえは、後悔するよ」
その目の鋭さは瞬く間に溶け去る。
熱のない笑みが ゆるりと浮かんだ。
「わざわざ自分から厄介事を背負いたがるってのは、いったいどういうお考えで?
分からないねぇ、おまえみたいな奴は。 あ? クソ野郎」
ラダマンティスは苦々しく答えた。
「おかしいのは貴様の方だ」
「えー? なにソレ」
やたら明るく言うと足を崖に投げ出した。
裸足の爪先はぷらぷらと気ままに揺れる。
「デスマスク」
「うーん?」
「貴様等は何故、女神を裏切った」
薄い色の眼差しが、改めてラダマンティスに向けられる。
凪いだ水面の目は彼を浮かべ、そして小さく、溜息をついた。
デスマスクは視線を伏せる。
その後、
「ん、」
右の人差し指で自分の傍らを指す。
「何だ」
「座れ」
「は?」
「取り敢えずおまえはそこに座れ。 俺が座ってて何でおまえ立ったままなんだよ。
上からもの言われんの気分悪ぃ」
ラダマンティスは、その指がまともな状態だったら、と思った。
が、爪のないその指はまだ傷からじくじくと血を滴らせ、叩き落す気にならなかった。
その代わり、立ったまま上から言う。
「貴様はまずその手をどうにかしろ。 見苦しい」
「舐めときゃ治るかな?」
「莫迦かッ」
「あ 痛い」
「舐めるな! それぐらいさっさと治癒出来ないのか」
「おまえいちいち細かいよ。 何その構いたがり。 おまえ俺のかーちゃん?
……あ、ウソ、すんません、調子に乗りました。 だからその握り拳はそっと下ろして。
こあい! それ絶対痛いから止めてっ」
ラダマンティスは、この男のこういう面が、どうしても不可解でならない。
心が一点に留まらず、猫の目よりも移ろい易い。
傍で見ているほうが惑わされる。
怒る気力すらじりじりと削がれ、堪えるのに余計な苦労する。
デスマスクは言った。

「気にすんな」

その頭にラダマンティスは拳を落とした。























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