現世と冥界を隔てる境、アケローン河。
その岸辺は黄昏に暗く、しめやかな紺色である。
濃い霧が立ちこめていた。
ゆらゆらとした黒い紗幕が空も地も覆い、足元に打ち寄せる波すら定かではない。
ただ聞こえる、もつれて絡まる波の音。
ふと、小さな光が
暗い霧幕の向こうに現れた。
浅黄色の陰気な炎が、調子外れの歌を連れて岸辺に近づいてくる。
水面を滑るように進む、一艘の舟。
舳先でカンテラの火が揺れている。
ぼうっと照らし出された舟の上、黒衣の男がしゃがれ声で機嫌良く歌っていた。
その後ろ、舟の片隅では、ぼやけた影のような、真っ黒い何かが身を寄せ合っている。
男は手にした櫂で水面を砕いた。
「さあ、おまえ等。 カロン様の美声を聞けるのもここで終わりだ。 ここから先は、……?」
岸に目をやったカロンは、そこに立つ姿に驚いた。
「これは、ラダマンティス様」
無言で頷いたのは、冥界三巨頭が一人。
普段ならばカイーナにあるはずのその姿は、悠然と佇みながら、
しかし常とは違い、爆発寸前の小宇宙が放電のように周囲を取り巻いている。
どうやら、あまり機嫌が良くないらしい。
カロンは冥衣のマスクの下で冷汗をかいた。
ラダマンティスは言う。
「先刻伝えてきたことだが、奴がいたというのは間違いないな」
「はあ、あちらで」
カロンは後ろを振り返り、霧のヴェールの向こうを指す。
冥府の大河 アケローン。
「奴は何をしていた」
「さぁ、何と言えるようなことは、何もしていなかったような……あんな所ですから。
河にいる亡者のまねごとでもしていたんでしょうかね。
この舟に乗るかと聞いたら、笑ってましたよ」
カロンの舟は死者の魂を運びアケローン河を渡る。
「今もまだいますよ。 ……やっぱり、連れてきた方が良かったんですかね?」
「いや、自分の務めを続けろ。 俺が行く」
「行けばすぐに分かりますよ、亡者共が騒いでいる」
「そうか」
刹那、その姿は黒い颶風となって去った。
それを見送ったカロンは、まだ舟に乗せていた死者の影達に向き直り、
渡し守としての最後の言葉を伝えた。

「さあ、ここから先は一人で歩け。 望みの地獄が待っている」


























途方もなく大きな河だ。
漫々と水は流れ、霞のかかった水平線は途切れなく弧を描く。
渡ろうにも彼岸は見えず、後ろを振り返ったとしても、此岸はなく。
底など果たして有るのかどうか。
まるで世界をその下に沈めてしまったような、無辺際の河。
重たげな波の音だけが、縺れ、もつれて。
あとは闇空が在るばかり。
永劫に暁を知らぬ冥界、アケローン河。

その虚空を、漆黒の翼が飛翔する。
ラダマンティスは、眼下の水面が時折泡立ち、波の下で何か黒いものが蠢いているのを見た。
カロンの舟に乗ることの出来なかった亡者である。
アケローンは全てを水に沈める大河。
溺れる亡者達はどちらの岸にも辿りつけず、永遠に苦しみ続ける。
だが、その中にラダマンティスの探す姿はなかった。


デスマスクは、誰にも覚られずにカイーナの塔から消えた。
塔を封じていた結界にも拒まれず、闇に溶け去った囚人の影は、
その後どこに紛れたのか、地獄の各所を監視する冥闘士の目からも逃れ、
冥界を支配する法と秩序の僅かな隙間に潜んだまま姿を現さなかった。
それが今、ここにいるという。


ふと、水の色が濃くなっているのに気づいた。
濁った泡が灰色の網のように広がる水面。 その波。
否、変わったのは水の色ではない。
波の下に、何かがいる。
河の色を染め変えるほど群がり集まった、無数の亡者。
沈むまいともがく手足は引き攣れ、互いにもつれて絡み合い、
巨大な黒い影はぞわぞわと蠕動する。
(何だ、これは)
亡者は群れを成すことを知らない。
アケローン河の亡者達も、ただひたすら己の悲嘆に暮れ、水の下を彷徨うだけのはずだ。
しかし今、黒い流れは回遊する魚群のように確かにどこかを目指している。
ラダマンティスはその先へ疾駆し、
異様な光景を見た。
遥か彼方まで続くように思えた亡者の大群は、同じく八方から迫り来る黒い巨群と衝突し、
まるで、無辺際の大河を覆い隠す一匹の蜘蛛である。
(……『亡者が騒いでいる』では済まんぞ)
ラダマンティスは蜘蛛の腹の真上まで来た。
下は、どちらを見渡しても、うぞうぞと蠢く亡者ばかり。
後から後から塊となって湧いてくる黒蟻の群。
我勝ちに他者を押しのけ、沈め合いながら、アケローン中の亡者共がひしめき押し寄せてくる。
亡者の求める先は。
(下か……?)
ラダマンティスの右腕で小宇宙が吼え猛る。 集束する不可視の圧力に空間がねじ曲がっていく。
突き出す掌。
巨大な蜘蛛の腹が膨れ上がり、轟音とともに破裂した。
亡者の悲鳴は突如荒れ狂ったうねりに飲み込まれ、消えていった。








一瞬の内に全てを水に沈めた嵐が静まるころ、
アケローン河は元の様子を取り戻していた。
陰鬱な沈黙の水。
有りとあらゆる色彩を混ぜ、濁らせた、その下、
ゆらゆらと 何か が。

漂い、流される
溶けて色をなくした水母の死骸


ゆらゆらと ゆらゆら と うかんで


水音がした。
ちゃぷん と水面に顔を上げた、白い首。
ラダマンティスを見上げ、とろけるように笑う。

「よぉ、怖い顔して 何かあったのか」

まとわりつく水の中
首は にこやかに波間を漂う。
天上の冥闘士は思いきり顔を顰め、その首を鷲掴みにした。
黒翼が虚空を裂いて舞い上がった。









「最初に警告しておく。 余計な口をきけばその瞬間に貴様の頭を砕き割る」

有無を言わせず疾駆したラダマンティスは、河から屹立する大岩を見つけ、降り立った。
片腕に捕らえた囚人を放し、厳然と言い放つ。
ようやく解放されたデスマスクは、背中を丸めて屈み込み、
けぷりと水を吐いた。
「……優しくしてって、前に言わなかったかしら」
濡れそぼった髪からぽたぽたと水が滴り落ちる。
その有様を改めて見下ろしたラダマンティスは、思わず呻いた。
「貴様は……」
不覚にも言葉が続かない。
多々ある問い質すべき事柄が空回りする。
何故、目の前にいる男は、冥王から賜った冥衣ではなく、
ごく一般的な白いシャツをぐしょぐしょに濡らして背中に貼り付けているのか。
くしゃんっ、と 小さなくしゃみ。
ラダマンティスは、眼前の不可解な光景に、負けた。
「……貴様、冥衣はどうした」
「趣味じゃなかった」
あっさり言いのけたデスマスクは、投げ出した自分の足を見て、
「あ、裸足。 サンダルどこ行った?」
きょろきょろと辺りを見回すと、切り立った崖から身を乗り出して下の流れを眺める。
「流されちゃったかなあ……」
ラダマンティスはその片足を掴んで吊り上げた。
濡れたジーンズが黒に近くなっていた。
「ちょ、止めて! こわいッ ホント怖いから!」
足首を吊られてぶらんと逆さになったまま喚き立てる。
「ごめん! ゴメンナサイ! 俺が悪かったッ だからもう勘弁してください !!」
しかし、未だ無言で睨んでくるラダマンティスを見上げると、
無駄だと悟ってぐったりする。
「冥衣はなんだか、かさばるし、水に沈みそうなんで、どこかに置いてきました」
ラダマンティスの声が僅かに低くなる。
「……貴様は」
「んー?」
「地上に戻るために、この河を渡ろうとしたのか」
アケローン河は冥界と現世の境界。
生身のまま地獄に堕ちたデスマスクなら、あるいは戻れるかもしれない。 が、
「そんなことがこの冥界で許されるとでも思っているのか」
逆さまの顔。
表情が読めない。
「……素潜りは得意なんだ、地元海だったし」
みしりと嫌な音が鳴った。
足首を掴んだ手の中で骨が軋んでいく。
「痛ぇって。 そういうのはヨシテ!」
だが抵抗の代わりに、奇妙に明るい哄笑が弾けた。
「飽きたんだよ、あそこにずっといるの。 誰も俺と遊んでくれないしー。
カイーナにいる奴は皆だめだな、固過ぎる!」
「……貴様のような奴に構う人間は冥闘士にいない」
「待ってるって言ったのに、おまえも来ないし」
「貴様の下らなさに付き合うほど暇ではないと、俺も前回言ったはずだ」
「寂しいだろー」
「知るかッ」
らちが明かない。
逆さの舌が差し出す戯言は、色彩をくるくると変え、何の真実もない。
「黙れ」
哄笑がぴたりと止む。
「貴様が何を考えていようと、何をしようと、関係無い。
一度冥府に堕ちた魂は全てハーデス様のものだ。
その御手から逃れることなど許されない。
それが冥界の秩序だ」
揺らぎない不変の真理であり、そのためにラダマンティスは厳然と存在する。
そして今眼前にいるのは、秩序から逃れようとする囚人である、はずだが。
「……ラダマンティス」
吊られた男は優しげに喉を奏でる。
「じゃあ、おまえは どうするんだ」


「俺を殺すつもりで来たんだろ?」


手中にしたその骨など、
人形の足よりも容易くへし折ることが出来る。
それを知りながら、この男は笑っている。
言葉どおり首を捻じ切ったところで、やはり、とろけるように笑うのだろう。
そんな人間が、どこに "逃げる" というのか。

ならば何故、この男はこんな場所に在る。
この得体の知れない、空虚な男は


「……貴様は、何のつもりだ。何故ここにいる」
「だから素潜りだって。 他にすることないし」
ラダマンティスは手を放した。
唐突に支えを失いデスマスクが落ちる。
普通の人間なら、反射的に手をついて身体をかばおうとするものだが、
受身もとらずに頭から岩の上に落ちたデスマスクは、
しかし、ぎゃんと短く叫んで跳ね起きた。
「……イッ、てぇな……」
「貴様本当に聖闘士か」
「痛いときには素直に痛いって言うのが俺だ。
……あっ、気持ちワル。 耳に入ってた水が抜けた」
子供じみたことをぼやくと、裸足でふらふらと岩の先端まで歩いた。
その先に広がるのは、鉛色の大河。
重苦しい波音が吹き上げる。
闇空の下、憂鬱な色彩が果てしなく続く世界は、沈黙していた。
あの狂奔する黒い群はどこにもない。
「亡者が騒いでいたのは貴様のせいか」
「あ?」
「河にいる亡者が全て貴様の元に集まってきていた」
「……さあ、知らなかった な」
振り返った顔が、へらりと笑い
一瞬で表情を陰惨なものに塗り替える。
「怨まれてるからなー。 こんなとこで俺に会えて嬉しいんだろ、きっと」
「地上でどれだけ殺した」
「大したもんじゃない。 指で数えるには少し苦労するぐらいだ」
滑らかな舌に乗せる、不快な悪意で彩った虚飾。
熱のない瞳が薄く微笑んだ。
「人殺しの地獄はいったいどこなんですかね」
「知りたいか」
「別にー」
ふにゃりと相好を崩したデスマスクは、またアケローン河に視線を戻す。
その背中を、無防備に晒して。
「さて どうしようか? ラダマンティス。 尋問ごっこも終わっちゃったし」
「……貴様は何も答えてないだろ」
「こんなにお喋りしてんのに!」
げらげらと笑いだす背中。
濡れたシャツが風になぶられる。
冥衣はない。
心臓を撃ち貫くのに、何の造作もない。
ラダマンティスは、闇空が暗さを増していくように感じた。
精神が研ぎ澄まされていく。
さして小宇宙を高める必要はない。
眼前の男はぼんやりと立ち尽くしている。
まるで何かを待っているように。

その時、ラダマンティスは全てを終わらせる一瞬を手中にしていた。
だが、

「最後だ」
「んー?」
「おまえもあの時言っただろ、最後に一つと」
「あぁ、言ったな、そういえば」

小さく笑う気配。
ラダマンティスは、言った。

「貴様の爪はどうした」
「……あ?」
「その手だ」

デスマスクの両手は、爪が一枚も残っていなかった。
代わりに露出した、薄桃色の肉。
指全体に走る亀裂。
肉を裂き骨まで覗かせる傷が、血を水に洗い流され、抉れたままを晒す。

「気がつかなかったのか? あの塔の床石を調べてみなー。
外すと俺が掘った穴があるんだぜ」

からかうように笑った両腕が、気づかぬほど静かに、静かに指を折り曲げていく。
背を向けて告げた言葉。
それが嘘だと、ラダマンティスは知っている。

「コキュートスにいたのは貴様だな」


肩越しに振り返ったデスマスクは、笑っていなかった。



























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