「っは……」


笑い損ねたような声だった。
呻いた喉にラダマンティスの指が深く食い込んでいる。 骨を軋ませていく。
片腕で吊り上げられたデスマスクは、爪先が床を離れ覚束なく揺れていた。
だが、逆らおうとはしない。
その意志もなく、だらりと垂らした両腕。
まるで人形の縊死である。
その有様がラダマンティスの神経をますます逆撫でした。
首を鷲掴みにする腕に恐ろしい勢いで小宇宙が集束していく。
凄まじい圧力を感じ取ったデスマスクの身体が反射的にびくりと震えた。
しかし、それだけだった。
「貴様はッ」
ラダマンティスは吼えた。
押し殺すのを止めた怒りが一気に燃え立つ。
「貴様のような奴は決して認めん!」
荒い語気と共に敵意の塊となった小宇宙が解放を叫び狂う。
「ハーデス様は御優しい方だ。 貴様のような蛆虫にも慈悲を御掛けになる。
戯れに冥衣を授け、この冥府での自由を御与えになった。
ハーデス様こそ冥界の全て。 我等冥闘士はその忠実な手足だ。
だが、いくらハーデス様が御許しになっても、俺は決して貴様の存在を許さん !!」

デスマスクは、違う。
神代から闘争を繰り返してきた、あの聖闘士達とは懸け離れている。
この男には何もない。
地獄に堕ちたことへの後悔も、同じく堕とされた同胞を思う心も、
否、そもそも仲間というものを持ち合わせていない。
地上での生を惜しむ心もない。 己の罪と罰を受け入れて流す涙を知らない。
辛うじて生きている今この瞬間ですら、言葉どおり惜しんでいるのか怪しい。
有りとあらゆる欠落だけが唯一の真実。
この男は、ただ空虚で、愚かだ。

たとえ女神に叛き、地獄に堕とされたのだとしても。
否、だからこそ。
我欲のままに戦い、挙句自らの主を裏切った、こんな愚かしい男など、
神代からの大敵である女神に対する反逆とはいえ、戦場に立つ全ての者への冒涜である。

「答えろッ 貴様は何を考えている!」
嚇怒は闇を怯えさせ、空間全体が軋んでいく。
小宇宙が更に荒々しく昂ぶっていく。
危うい音が鳴った。
首の骨が砕けようとしていた。
デスマスクは、唇を歪めた。
「……蛆虫は初めて言われたな」
笑う。
笑う。
「俺はただ、飽きたんだ」
逆賊の成れの果てが、相応しい声で。
「女神にも、聖域にも、聖闘士にも、白けた。 もういい」


ラダマンティスは吐き捨てた。
「下衆がッ」
甲高い音が響き渡る。
怒りのままに握り潰した小宇宙の余波が周囲を揺さぶった。
「貴様のような奴を殺せば俺の拳が穢れる。
その命がまだ残されていることこそ、ハーデス様の慈悲と思え」
投げ捨てられたデスマスクは喉を喘がせた。
「ァ、ハ……改めて念、押さなくても、分かってますよォ……」
その有様がラダマンティスは堪らなく不愉快だった。
その愚かしさ、浅はかさに、燃え立つような憎悪が込み上げる。
だがそれでも、冥王はこんな男にも祝福を与えた。
その意に背くことはラダマンティス自身が許さない。
固く握った拳を、ゆっくりと解いていく。
乱れた心が静まるように。
「貴様のような下衆など……」
このまま闇の中で朽ち果ててしまえば良い、こんなものは。
どうせ何も出来はしない。
罵られても、あからさまに敵意を突き付けられても、命を掻き消されそうになっても、
抵抗一つ出来ない。 否、抗う気すら起こさない、畜生に劣る愚昧な精神。
その愚かさを贖わせることが、許されないのならば、
こんな男など捨てておけば良い。


「行くなよ、まだ」


その時、呟いた。
俯いて息を整えた喉が、ラダマンティスを止める。
深く息を吸い込むように伸び上がり、顔を上げたその目は、
燻っていたラダマンティスの胸を、すっと冷やした。
凪いだ水面のような目は、やはり何も浮かべていなかった。
何も、無い。
だが、それは、まるで。
情動など、ただの粗雑な揺らぎであると語るように、色もなく、熱もなく。
まるで、澄み透る、無限の暗黒。
果てしなく飲み込む終極の
































「もう終わるのか?」

不思議そうな、声。
小首を傾げてラダマンティスを見上げる目。
彼が黙ったままなので、その目は大きく二度瞬きする。
ちょうど、遊びを中断された子供のように。

「え、なに? ホントにこれで終わっちゃうのか?
何だよー、これからが楽しくなるんだろ、尋問ごっこは」

我に返ったラダマンティスは、不満げに唇を尖らせる顔を睨み付けた。
しかしデスマスクは、きょとんとするだけだった。
あの目は何だったのか。
一瞬冷たい違和感を与えた光は、もうどこにも見当たらず、
凝視するラダマンティスに全く構わず好きなように騒ぎ立てる。
「何だ? 怒っちゃったのか? だったら、うん、謝るから!
ごめんなさい、すいませんでした! 正直ちょっとふざけてました。
おまえが行っちゃうと俺はここに一人だろ? 暇なんだよ、他にすることないんだよ!」
唖然は苛立ちに変わり、最後には吼えた。
「煩い! 阿呆がッ」
「じゃあ今度は真面目に答えるから。 な?」
「貴様ッ 本当に遊んでいたつもりか !?」
「よし、何でも聞いてくれ」
悪びれる様子もなく朗らかに笑う。
それは妙に人好きのする笑顔で、ラダマンティスは今度こそ、呆れ果てた。
同時に怒りがまた沸々と湧き上がってくる。
「……貴様の言うことなど最早何一つ信用ならん!」
「おまえ、いい奴だな」
「は?」
「俺の言うことをまともに聞く気でいたのか」
ラダマンティスは奥歯をぎりぎり噛み締めた。
しかし、
「俺は、嘘は言ってない」
立ち上がったデスマスクは、さらりと告げる。
「もし俺が何か企んでいるとしたら、
それに気づかないハーデスは、随分間抜けってことになるが、おまえはそう思ってるのか?」
「それは……」
「神の前で偽りを口に出来る人間はいない。 そうだろ」
ラダマンティスは顔を顰め、口を引き結んだ。
うん? と、デスマスクは、黙り込んだ冥闘士を見上げる。
その視線を手の先で払い除け、ラダマンティスは頭痛を堪えるように眉間を押さえた。


冥王は、絶対の支配者、神である。
神が在れと許すからこそ冥界は在り、その意を失えば夢のように消え去る。
しかし、たとえ冥王が許したのだとしても、
ラダマンティスは、目の前のふざけた人間を、諾々と承知するわけにはいかない。
だが、この不可解な生き物は、いったい何なのか。
神の裁き手として無数の死者と相対してきた悠久の時間の中でも、
この死に損ないは、特異だ。
他愛無いほど浅薄な言動。
その精神も、情緒も、連続性を全く欠いている。
愚鈍なのか、狡猾なのか。
否、それを判断しようとすること自体が既に無意味であるように思えてくる。
どちらにしろ、阿呆は阿呆だが。


しかし、あの違和感は。
一瞬で心を刺し、消えた。だが忘れるものではない。
あれは一体何だったのか。
敵意や冥界に対する害意とは違う。
そもそも、そういった感情の尖端がこの男に存在するのかが疑わしい。
良く回る舌、揶揄する眼差しは、滴るような悪意を浮かべるが、
それもまた水のように易々と流れ、捉え所がない。
この男は、欠落しているものが多すぎる。


冥王は、何を見たのか。
この、まるで虫食いのような精神の、何を哀れみ、許したのか。
神と人の間には、比較することすら憚れる隔たりがある。
欺くことなど出来ない、存在としての根源的で圧倒的な差。
冥王は、この破綻した男を生かすと決めた。




ラダマンティスは塔の中を一瞥した。
密かに空間を閉ざしている結界に、異常は見られなかった。
「……俺はもう行く。 これ以上貴様の戯言に付き合う気はない」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
言葉の割にデスマスクは薄く笑っている。
しかし、ふっとその表情が消えた。
「じゃあ、最後に俺から一つだけ」
「何だ」
胡乱なものを見る目でラダマンティスが促すと、
「俺の後に死んだのは誰だ」
「気になるのか」
「興味がある」
唇にこびりついた血を親指でこそぎ落しながら、答える。
「……カプリコーン、アクエリアス、ピスケス」
名を挙げても、デスマスクの様子は変わらなかった。
その目にはただ薄い光があり、何の色も浮かばない。
「貴様の同胞ではないのか」
「ガキの頃から知ってるが、それを同胞と言うのか?」
ラダマンティスは不快なものが再び込み上げてくるのを感じた。
この男には何を言っても無駄なのだろう。
腹立たしさに任せて背を向け、部屋を出ようとすると、
「ラダマンティス」
声が止めた。
微かに掠れていた。
「それで 終わりか」
「……いや、最後にジェミニが堕ちた」
答えはなかった。
口を開く様子もない。
呼吸の気配もない。
心臓の鼓動すら凍りついたような沈黙。
振り返ると、デスマスクは先程と同じように立っていた。
こころもち俯けた顔。
青く落ちる闇。
だが、見開いたその両目は、熱病のような狂おしい光を放っていた。
渦巻くそれは、何なのか。
悲嘆か、激昂か、憎悪か、歓喜なのか。
ラダマンティスは分からない。
真実かどうかすら分からない。
デスマスクという男の全てが、分からないまま
ただ、立ち尽くしていた。
青く凍えた静寂の底、その両目だけに光があった。





やがて、細い溜息が。
静かに顔を上げた、それは
目蓋を伏せ、どうしてか 不可思議な笑みを浮かべた。
「……首が痛い……」
ふらりと踵を返し、その背は深い闇に消える。
ラダマンティスは口を開きかけた。
しかしそれよりも早く、笑い声が耳に届く。
「寂しいから、きっとまたいらしてね」
「……二度と来るつもりはない」
吐き捨てるように言いながら、ラダマンティスは、
明り取りから差す仄かな光では、決して見通せない濃密な闇の向こうに、
じっと目を向けていた。
声は柔らかに笑う。

「お待ちしてるわ」



そして、ラダマンティスは扉を閉じた。
最後に交わした言葉どおり、二度と会うつもりはなかった。
しかし、暫くしてデスマスクは塔から姿を消し、そのまま戻らなかった。
























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