凍えた闇夜の底
静寂は深々と 深々と 積もり
最早 誰も朝を待とうとはしない 永遠の夜


 冥界第八獄 カイーナ 



それは、塔の中だった。
明り取りの窓が一つある他に灯りはなく、
差し込む仄かな光も、濃密な闇の底まで手を伸ばすことはない。
高窓の外、鉄格子の向こう側は、
雪の夜更けのような、青い沈黙。
凍てついた薄明かりを仰ぎ、闇もまた、密やかに息を殺していた。

その静寂を揺るがしたのは、扉。
厳重に施された封印を一つ一つ解かれ、重く軋んだ音が石の壁に反響する。
そして、扉は押し開けられた。
温かみのない光が溢れ、淀んだ暗闇は僅かに退く。
開け放たれた扉から数体の影が素早く塔の中に滑り込む。
しかし、
「お前達は下がっていろ」
人の上に立つことに慣れた声だった。
光を背にし、最後に中へ足を踏み入れたのは、
まるで闇色の貴石のように暗く輝く冥衣。
全てを威圧する漆黒の翼。
ラダマンティスは暗がりを射貫くように睥睨し、闇の中へ真っ直ぐに進む。
影達は彼の声に従って退いた。
石床を踏む硬い音は、塔の中央へ。
明り取りから薄青い光が微かに差すだけの、
深海のように冷えきった闇の底。
その向こうからラダマンティスを眺める両目がある。
「……今度は随分偉そうなのが来たな……」
声は小さく嘲笑う。
暗闇深く沈んだ、おぼろな影。
「そうか、おまえがラダマンティス "様 "か?」
暗黒の向こうから音もなく白い首が滲み出る。
鈍く光を受ける、色のないような髪。
その顔には、ぼやけた笑みが貼り付いていた。
「……さっきの奴等には悪いことしたな、謝っといてくれ。
俺は寝起きが良い方じゃないんだ」
ずるり、と。
何か質量のあるものを引き摺る音がした。
男の歩みと共に、重い音がラダマンティスの方に近づいてくる。
明り取りの薄光の下に茫と浮かんだ男は、
その目は
凍えた闇が冷たく凝結させたようだった。
「ほら、忘れ物だ」
笑みを貼りつかせたまま差し出した両腕。
引き摺られていたのは、冥王軍の兵卒。
ぴくりとも動かないそれらが、手から放されたその瞬間、
男は流れる影となって前に出ている。
だが、ラダマンティスはそれよりも速かった。

くぐもった呻きが漏れた。
「今 何かするつもりだったのか、聖闘士」
突き上げる拳が男の腹にめりこみ、その身体をくの字に折り曲げる。
爪先を浮かせる衝撃を全て一点に叩き込まれた男は、
「 挨拶、だ よ」
言葉の終いに黒い血の塊を吐いた。
がくりと俯いた髪をラダマンティスは鷲掴みにし、顔を上げさせる。
「まともに動くのはその舌だけか。 聖闘士など高が知れているな」
「……一緒にすんな、胸糞悪ぃ」
血で汚れた唇が、にっと笑った。
赤く濡れた舌で唇を舐め、デスマスクは滑らかに言い捨てる。
「俺はただの人殺しだ」









生きることは罪を重ねることと同義である。
望もうと望むまいと、他者を害し自分をも損ないながら生きる日々。
その報いは、地上での時間を終えた後、余すことなく下される。
死者の魂が、神の定めた法により裁かれ、相応しい罰を与えられる、冥界。

冥界へと下った魂は、アケローン河を渡り、真の地獄へと赴く。
ある時、その入り江に一つの影が立ち尽くしていた。
いつからそうしていたのか。
虚ろな目に正気は無く、幽鬼のように茫然としていた。
だが、その男がいったい何者であるのか、
第一獄 裁きの館を司るルネでも記憶を読み解けなかった。
男は、生身で冥界に存在していた。

名前も分からない男の審理は急遽、第八獄 ジュデッカの御前法廷で行われた。
終審判官である冥界三巨頭を前にしても、男の様子は変わらなかった。
他の亡者のように、地上での生を惜しみ、罪を悔やむ言葉もなく、
ただ静かに顔を伏せていた。
生者か。
死者なのか。
どちらとも言い切れぬ それ の名を言い当てたのは、
御簾の向こうから眺めていた、冥王。
親しげな、まるで懐かしい隣人と再会したような声に、
男は、初めて顔を上げた。

その後の審問は冥王が直々に行った。
両者の間で実際はどのような遣り取りがあったのか、
ラダマンティスは知らない。 否、誰も知らない。
だが冥王によって、男は、地上の女神を裏切り冥界へ堕ちた、聖闘士だと告げられた。
法廷は、冥王が男を祝福し、終結した。


男の処遇はラダマンティスに預けられた。
冥界の厳格な執政官である彼は、招かれざる客人を 第八獄 カイーナの居城に幽閉した。
男の自我は失われたままだった。
自分すら忘れたその精神が、闇に飲まれてこのまま朽ちるのなら、
それで良いとラダマンティスは考えた。
しかし、男は唐突に覚醒した。








闇の中、薄氷色の
芯のない光を放つ両目。
御前法廷で見たその目は、一対の曇ったガラス玉に過ぎなかった。
しかし今、そこに宿る光は
「で? 俺に何の用かな、ラダマンティス "様 "
こっちとしては穏やかに話がしたいと思っているんだ」
嘲る声に、後ろに控えていた影達が殺気立つ。
ラダマンティスは軽くそれを制すると、その手を打ち下ろした。
まともに横面を張られ、デスマスクの膝が完全に落ちる。
「状況が分かっていないようだな」
髪を掴む手に力を入れ、崩れようとする身体を起こした。
小さな声が漏れた。
臓腑がうずくのか、唇が引き攣り血を滴り落とす。
だが、
「……分かってるよ。 だから、こうやってお願いしてるんだ。
それとも、じっくり殴るのがお好きで?」
囁いて、笑った。
柔らかく溶ける蜜のように。
ラダマンティスはその頭を一気に床に叩きつけた。
衝撃が闇を激しく揺さぶり、鷲掴みにした手の下で細い息が一つ漏れる。
そして沈黙した。
手応えのなさに舌打ちし、ラダマンティスは手を放す。
「おまえ達はもう良い。 自分の仕事に戻れ」






静寂を取り戻した闇夜の底
薄ら青い仄明かりの下 それは屍と良く似ていた
目を覚ます前と同じように


その影を見下ろすラダマンティスの顔は険しかった。
薄氷の目は、見ていたのだ。
自分の頭が石床に打ち付けられる瞬間、ラダマンティスを
否、最初から彼の動きをその目に映しながら、
逃げようとはしなかった。
その腕は咄嗟に身をかばうこともせず、今は割れた床に横たわる。
虚勢、ではない。
そんなものですらない。
後味の悪さに、もう一度舌打ちした。



冥王の命令とはいえ、ラダマンティスは納得しなかった。
聖闘士を生かしたまま冥界で野放しにするなど、聖戦が間近に迫る折、危険要素でしかない。
女神を捨てたというが、もしそれが偽りならば、
否、たとえ本当に女神を裏切ったのだとしても、冥界に対して何の思惑も無いとは言い切れない。
ラダマンティスは冥府の統治を任される者として、冥王に仕える冥闘士として、
冥界を脅かす可能性は、どんなに小さくとも排除せねばならない。

だが、この男の歪さは、何なのか。







目蓋の開く気配がした。
横様に倒れ伏している男の表情は青い闇に沈んでいる。
ラダマンティスは、顎に爪先をかけて顔を上げさせた。
「起きろ」
色のないような髪が青白く動く。
半ば夢の中を彷徨うような眼球が、ゆっくりと
自分を見下ろす冥闘士を視界に入れる。
そして溜息をついた。
「……痛いなぁ」
のろのろと半身を起こし、自分の後ろ頭に手をやる。
その耳の辺りから首にかけて、ぬらりと黒く濡れていた。
デスマスクは、掌を汚した血に目を落とすと、
「うわ」
声の端が笑っていた。
「もう一度同じ目に遭いたいらしいな」
「冗談。 そこまでイカレてない」
薄明かりに染まる髪が小さく揺れ続ける。
その笑いが、ふと止まった。
「……なんだっけ、これ。 見覚えはあるんだけど」
落とした視線が眺めるのは、自分の首から下、底光りする暗黒の影。
闇の中おぼろに浮かぶその姿は、聖衣に似ているが、禍々しい陰影がある。
「その "冥衣" はハーデス様の祝福だ。 貴様は地獄での自由を与えられている」
「祝福……?」
デスマスクは顔を上げ、ラダマンティスを見た。
薄い光を放つ目は、ぼんやりと彼を見上げ、
自分を射竦める冷徹な双眸を眺め、
へらりと笑った。
「わざわざ、悪いねぇ」
舌先から滑り落ちた声は不快なほど優しげに響いた。
生きながら冥府に在るということを、理解しているのか、いないのか。
覚醒したばかりのせいか、それとも元来か。
この精神の、歪さは。

「俺は、貴様がそれに足る人間とは思わん」
「そうか? 残念だな」

断ずる冥府の裁き手に、
死に損なって地獄に堕ちた男の目は、虚ろに光る。
「貴様は聖闘士同士の実に下らん内紛の結果、この冥界に堕ちた」
血がその後ろ髪をべたつかせていた。
それに気づき、顔を顰める。
「以前から聖闘士が相次いで地獄に堕ちているが、皆、潔く冥府の裁きを受けた」
固まった髪の先をいじる指。
小首を傾げ、上を仰ぎ見る。
「貴様と同じ黄金聖闘士も、コキュートスの氷の中で眠っている」
明り取りを見上げた目は、凪いだ水面のようだ。
情動など何も無い。
「貴様一人がハーデス様に許された」
塔の外、永遠に朝の訪れない雪夜に耳を澄まして、答える。

「兵隊が死ぬのは当たり前だろ」

それは、まるで定理のように淀みなく。
「腕の振られた先に突っ込んで、殺して殺される奴等だ。 おまえ達と同じだろ?」
「……貴様は、違うようだな」
ラダマンティスは喉の奥から低く声を絞り出した。
その様子を眺め、どこか嬉しげに目を細める。
「意外だな。 冥闘士ってのはもっと話せる連中と思ってた。
あんまり可愛いこと言ってんなよ、ラダマンティス様 ?
おまえの舌 食い千切りたくなるだろ」


「俺は、ただの人殺しだよ。 あんな風に死んでやる気はないな」


青褪める闇の淵で、笑う
空虚な、愚かな男。
ラダマンティスは一つの結論を導き出す。


「それ以上戯言を吐けば、その舌ごと頭を消滅させる」


裁きの声は鉄槌となり闇を打ち割った。



















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