―2―



バス停は、緩い坂の途中にある。
学校の門へは、この坂をもう少し歩かねばならない。
よく晴れた日だ。
道は青空へと伸びていく。
バスを降りた二人は歩きだした。
煙草を銜える時貞の隣で、緋咲は眠そうに小さく欠伸をする。
その横を涼しい風が吹き降りて、街路樹の若葉を揺らす。
青天は柔らかく、深く、
白い雲を一つ浮かべただけ。
五月の光の明るさに、何もかも澄み渡っていきそうだった、けれど。
ふと、緋咲は小首を傾げる。
そして顔を上げ、すぐ先にある交差点に目を向けた。
何かがあるわけではない。
けれど、何かがあるはずだということは、分かった。
認識の及ばぬ確信に皮膚がぞくりと粟立つ。
身体の奥で鼓動が早まる。
「……緋咲?」
時貞の声に、緋咲は答えない。
空気が、微かに震える。
鳴動するそれが単車の排気音だと気付いた瞬間、
白い影は現れている。
交差点を曲がるタンクの白い反射を知覚したのは一瞬。
次の刹那には既に走り去っている。
後はただ、雷鳴のような排気音が空を打ち払っていくだけ。
やがて、怯え震えていた空気も静まっていく。
何事もなかったように。
緋咲は自分の足が止まっているのに気付いた。
ゆっくりと瞬きをする。
目蓋の裏の暗闇にはあの白い影が浮かんでいる。
顔は分からなかった。
ただ、学ランを着ていたのは確かだ。
「知ってる奴?」
時貞は不思議そうに聞く。
緋咲はただ首を横に降った。
冷たい色をした瞳はやがて真っ直ぐに前を向き、歩きだす。
「二限って何の授業」
緋咲がそう言ったので、時貞もあの単車のことは忘れた。
「理科」
「理科?……んー、俺は今日どっち」
「生物だよ。今日のは俺と一緒じゃないから」
「ふぅん」
気怠るそうに言いながら、
緋咲の中では、小さな、けれど鮮烈な刃が生じていた。





第一生物講義室の席はもうあらかた埋まっていた。
授業の開始時間は過ぎている。
教師が入ってくるまでの僅かな時間を、気ままに騒ぐ生徒たちは
後ろ側のドアが開く音を聞き、何気なく振り返った。
そこに立っている緋咲に、ざわめきが起こる。
ある生徒たちは歓声をあげ、ふざけたように頭を下げた。
また別の生徒たちは、忌避と怯えを顔に浮かべ、目を逸らす。
一番後ろに座っていた平蔵は、笑っていた。
「薫ちゃーん、久し振りすぎでしょ」
緋咲はざわついた空気を一瞥し、平蔵の隣の席に腰掛けた。
「何してたの? 学校やめたって噂だったけど」
「悪いな、やめてねぇよ」
「相変わらずだねぇ、薫ちゃんは」
生物教師が入ってきたのは、その時だった。
いつもより浮ついた教室を不思議に思い、視線を巡らせ、緋咲を見つけた。
厄介な生徒が来ている。
思わずそう考えた瞬間に、慌てて表情を繕おうとするが、緋咲と目が合った。
切れ長の双眸は、凍てついた光を湛える冬の湖のようだ。
見透かされる。
そう思った彼の視線は、自然と下を向く。
結局、彼はそのまま重い足取りで教卓まで行き、黙って出席簿をつけた。
それを横目に平蔵は話を続ける。
「じゃあさ、もしかして今日が二年になってから初めてなの? 転校生知らない?」
「知らねー。今日まだ教室も行ってねぇし」
「薫ちゃんのクラスだよ」
「ふぅん」
どこか気のない声だ。
頬杖をついた横顔は、何か別のことに思い入っているのかもしれない。
「……それで? どこ、そいつ」
緋咲は適当に背中をいくつか指差した。
「あー、こっちの理科じゃない」
平蔵は時貞と同じクラスで、緋咲とはクラスは違うが、この時間には同じ理科を取っていた。
今日のこの時限に授業のある理科は、あと一つしかない。
「じゃあ時貞と同じか」
それまであまり興味がなさそうだった緋咲の声に、微かなものが混じる。
平蔵はけらけら笑って首を横に振る。
「別に天羽と揉めたって話は無いみてーよ? ま、俺も絶対やだけどねー。
俺はそいつと話したことねーけど、とりあえず学校だと大人しくしてるみたいよ。まあ、けどねー」
「なんだよ」
「いー男なんだな、これが」
緋咲は生返事で済ませ、自分の前髪を摘んで指先に絡めた。
「つーか、ゴム持ってない?」
「あるよ。いる?」
「なんかやっぱりこの髪落ち着かねえ、特に前髪うぜえ」
緋咲の、普段なら綺麗に整えられている髪は、今日は時間がなかったのでおろされている。
それを白い指が無造作に掻き上げた。
「あー、そういうのね、無いよ。でもピンならある」
「ピン?」
「今ならサンリオが!」
「絶対いらねえ」
平蔵の手が髪に触ろうとするのを、緋咲は無下に叩き落した。
「大丈夫、きっと似合うよ」
「てめえの頭でやってろッ」
二人の笑い声は、教卓に立つ生物教師の神経をちくちく苛んだ。
彼は意を決し、そちらを向いた。
あの眼差しにまた射貫かれるのは、まったく気が重いことなのだが。
「陣野くん……ひ、緋咲くん」
二人が顔を上げる。
「……授業はもう始まってるんだから、もう少し静かにね」
平蔵は何か意味ありげに、ちらりと緋咲のほうを見た。
緋咲は、ただおかしそうに笑いを堪えただけだった。





平蔵に肩を揺すられて、緋咲は授業が終わったことを知った。
寝ていた身体を起こして伸びをしたら、生物教師と目が合った。
どことなく情けないような顔つきだった。
廊下に出ると喧騒が溢れていた。
教室へ戻ろうとする生徒たちの中、時貞の顔でも見に行こうかと思っていると、
「薫ちゃんは天羽待ってんの? じゃあ俺は行くわー」
一緒に教室を出た平蔵はさっさと帰っていく。
緋咲はそのまま廊下で待っていた。
自分の顔を見て、驚いて声をかけてくる連中を適当にあしらいながら
煙草を吸いたいと思っていた。
眠気は柔らかく脳髄を包んで、思考を取り留めのないものにしていく。
その時、なにか視線を感じたような気がした。
今度は誰かと、そちらに軽く目をやって、緋咲は止まった。
見たことのない顔だった。
いくら学校にあまり行かないといっても、同じ学年の人間なら顔ぐらい覚えている。
だから、それはきっと平蔵の言う転校生なのだろう。
壁に凭れてぼんやりしていた緋咲は、知らずうち、そちらに向き直っていた。
硬い黒が、緋咲を見据えた。
意志の塊のような目だ。
緋咲の視線を真っ向から受けとめ、揺らぐどころか強い光を増す。
その眼差しに引かれるように、緋咲は足を踏み出す。
二人は廊下の真ん中、互いにあと一歩の距離で対峙した。
皮膚が粟立っていく。
緋咲は目の前の存在に、そう感じた。
怖気ではない。
そんなものは知らない。
けれど、身体の奥底では、確かに何かが震えていた。
身体が知っているはずの何かに、認識が追いつかない。
緋咲はこの奇妙な感覚の理由を、対峙する双眸に探した。
不躾な眼差しに、相手は精悍な顔をおもしろくなさそうにし、同じような視線を返す。
やがて、緋咲は緩く瞬きする。
長い睫毛の影が揺れる下で、凍てついた光が生まれる。
胸のうちにあった微かなものは、今では研ぎ澄まされた刃のようになっていた。
「名前は」
冷淡に、緋咲は問う。
応えは射るような視線。
緋咲はきゅうと瞳を細め、唇を吊り上げた。
「言えねぇのか」
悪意に満ちた言葉が、それまで黙っていた相手の口を開かせる。
「鳴神秀人」
「ふぅん、秀人クンか……」
緋咲はその音を確かめるように呟いた。
胸のうちに生まれた刃が物欲しそうに震えた。
理由は、それで充分なように思えた。
「よろしく、秀人クン」
そう言い終わらぬうちに緋咲の腕は風を切り、裏拳が綺麗に秀人の横面に決まる。
振り抜いた腕の勢いを殺さずに身体を旋回させ、後ろざまに放った蹴りは
ちょっとしたおまけのつもりだ。
下から弧を描き横面を再び狙うそれは、鼓膜を破ってもおかしくはなかったが。
しかし、緋咲は目を見開いた。
吹っ飛ばしたはずの相手は、体勢を崩しながらも、しっかり踏みとどまっていた。
次の瞬間、緋咲は衝撃で爪先が床から浮いていた。
そしてそのまま背中から廊下に叩きつけられている。
肺の空気が無理矢理絞り出され、小さな呻きが唇から洩れた。
その傷みよりも、一瞬の隙をつかれて肩からの体当たりをまともに食らい、
しかも自分の上に馬乗りされたことに、愕然とし、
目の眩むような怒りを覚えた。
「で、おまえ名前何なんだよ」
低く、鼓膜を震わせる声に緋咲は顔を上げ、秀人を睨んだ。
堅く握った拳が目の前にある。
緋咲は奥歯を噛み締めた。
内側から込み上げてくる熱で喉が焼き切れそうだ。
眼窩の奥で凍えた焔を見下ろし、秀人は唇だけで笑う。
「言えねぇのか?」
その顔目掛けて左拳を突き上げた。
秀人は上体を引いて軽く躱す。
その時、細い銀の軌跡が閃いた。
「調子乗りすぎ」
一瞬前まで秀人の首があった空間に、ナイフの冷たい刃が出現している。
時貞が薄く笑っていた。
廊下に時貞が出たのは、緋咲が裏拳で秀人を薙いだ瞬間だ。
だからそれより前に何があったのかは知らない。
しかし、どんな経緯があったとしても関係ない。
緋咲はそいつを潰したがっている。
それだけ分かればいい。
秀人は掻き切られかけた首を軽く撫で、時貞を見据えた。
「抉るなら一撃で止め刺せ。それが出来ねぇなら、一秒後はてめえの番だ」
虚勢ではない声。
時貞の微笑から何かが消え去る。
代わりに、緋い瞳の底から狂おしいものが浮かび上がった。
三人の視線が絡み合う。
不可視の刃が引き裂き合う、膨張した一瞬。
それを崩したのは、戸惑いを隠せない声だ。
「君たち……? どうしたんだ?」
あの生物教師が廊下に立ち、訝しげな顔をしていた。
時貞が動く。
凶刃は秀人の右目に吸いこまれる。
しかし、
「時貞」
止めたのは、緋咲だった。
「いいから、退いてろ」
時貞は、その冷たい色をした双眸をじっと見下ろした。
それからようやく、秀人の目に突っ込む直前だったナイフを引き、詰まらなそうな顔をして離れた。
緋咲は興醒めしたように言った。
「別に、ちっとふざけてただけだよな? 秀人クン」
しかしその声には、殺しきれない怒気がある。
秀人の襟首を掴んで引き寄せ、
「……また、遊んでくれるんだろ、秀人クン」
間近に囁いた唇を、小さく舌が舐める。
その、青白い鬼気を孕んだ微笑を見据え、秀人は言い捨てた。
「上等」
緋咲の腕を離して立ち上がり、時貞を一瞥して去っていく。
生物教師は妙な顔をしたまま教室に引っ込む。
弛緩した静寂が、あたりを満たしていった。
緋咲は身体を起こし、制服についた汚れを払い落とす。
先程までの燐火のような光は、その瞳から影を潜め、
何か考え込むように視線を伏せる。
訳わかんねぇ。
それはほんの小さな呟きだった。
時貞は緋咲の顔を覗きこんだ。
「珍しい」
「ん?」
時貞は詰まらなそうな顔のまま、続ける。
「緋咲が誰かの下になってるの、初めて見たかもしれない。なんか、変な気分だ」
舌打ちが時貞の耳に届く。
「普通なら逆のはずだ。誰かの上で踏ん反り返ってげらげら笑ってるような奴だろ、緋咲は」
そう断言され、緋咲は顔を顰める。
「……それは、どっちかっつったら、おまえだろ。俺はそんなことしねーよ」
「またそんなことを言う」
「だから違うって。……ああもう、いいや。寝てねぇから頭ぼーっとしてきた」
「そうだな。先に手ぇ出したくせに上取られてるし」
「おまえな」
「気分が悪いんだ、とにかく」
時貞は緋咲を見据え、もう一度、気分が悪いと繰り返した。
「どうにかしたい」
緋い瞳に浮かんでいるものを眺め、緋咲は柳眉を顰める。
「時貞、まだ俺が遊んでる途中だろ。勝手に何かすんなよ。おまえは大人しく授業でも出てろ」
「緋咲は」
「ちょっと寝てくる」
「ふぅん?」
何か言いたそうな時貞に、緋咲は剣呑な笑みを見せた。
「あいつは、逃げるようなタマじゃねぇからな」










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