―3―



メールは一行、『保健室』。
それがどうしたのかは一切情報なし。
何が言いたいのかも分からない。
けれど、その味気ない単語を、今は何よりも優先して考えねばならない。
土屋は、やる気の欠片もない適当な理由をつけて授業を抜け出した。
それから目的の場所に急いで、ドアを開ける。
保健室はしんとしていた。
保健医の使う机にも人影はない。
土屋は部屋の中を見回し、ソファーの背凭れに掛けられた学ランに気付いた。
ベッドのほうに近づく。
特徴ある色の髪が見える。
理由も告げずに土屋を呼んだ本人は、眠っている。
その顔を覗き込もうとした土屋は、
「早かったな」
いきなり唇が動いたので、驚いた。
「……あんたが呼んだんでしょ」
「ん」
答えながらも、緋咲は目を開けない。
寝乱れた髪を掻き上げ、青白い指は窓の外をさした。
「そこに」
窓の向こう側では青空の下、午後の光がぬるく対流している。
「何かあるんですか」
土屋は窓に近づき、外を見た。
そこはちょうど駐輪場になっている。
「そこに、白の単車あるだろ」
「ああ、あのFX。確か二年ですよね、転校生の」
「……ふぅん、やっぱりそうか」
外を見ていた土屋は気付かなかった。
目を開けた緋咲は、自分がずっと抱いていたある種の感覚が、確信へと変わるのを感じ、
恍惚と微笑んだ。
冬の湖のような瞳には悪意が凍る。
「そういえば岩崎さんが」
思い出したように土屋は言う。
部屋の中を振り返る頃には、緋咲は寝返りを打ってまた目を閉じている。
「緋咲さんのFX塗り終わったから、さっさと取りに来いって言ってましたよ」
「……ん、今日行く。おまえも、もう行っていい」
「そんなこと言われても……面倒だからさぼりますよ、先輩?」
土屋は緋咲の隣のベッドに腰を下ろし、煙草を出した。
「じゃあ、この時間終わったら起こしてくれ」
「いいですけど、次の授業出るんですか?」
「大事な用事があんだよ」
「はあ」
緋咲はもう何も言わない。
ただ静かに眠る。
土屋は緋咲の傍にある灰皿を、なるべく音を出さないように、手許に置き直した。










太陽は逆側にあり、
窓にある空は薄く冷たい色。
机や椅子の影は深く、青黒く、揺れていき、
まるで水に沈んだ景色。
その暗い水底で、鏡合わせのように対峙したなら、
きっと他の光は見る必要がないのだから、深海の魚のように盲いていくだろう。
それでも、皮膚を粟立たせる悪意に、歓喜は身体を貫く。
だから唇を吊り上げて、誘って。

「遊ぼうか、 秀人クン」










ぬるく対流する午後の光を、破砕音が引き裂く。
弧を描いて落下する椅子。
ガラス窓は打ち壊され、煌く破片は美しい雨のように降る。
風に乗ればきっと雲母になるだろう。
その様を、時貞は廊下を歩きながら横目にし、保健室のドアを開けた。
誰もいない。
ベッドの傍にあった灰皿は綺麗だったが、ゴミ箱にはちゃんと緋咲の吸殻がある。
そのうちまた来るだろうか。
先程降ってきた椅子を思う。
あれは誰だろう。
窓では薄い色のカーテンが揺れる。
青空が不定形に歪む。
自然と時貞の足はそちらに向かっていた。
在るか無しの風が吹き抜ける。
何か、聞いたような気がした。
半ばまで引かれていたカーテンを開ききれば、
幻の喧騒は鼓膜を震わせずに響き渡る。
けれど目の前にあるのは、あの遠い街の情景ではなくて。
安堵しようとして、息が詰まった。
意識の上に裂傷が生じる。
視神経に割り込む懐かしい白昼夢。
そして全てを、寂しい地平線が飲みこんでいく。
その真ん中で、歩き方を忘れたように立ち尽くす。
あの街も、何もかも消えてしまったというのに、恐ろしくて自分の姿を見ることはできない。
時貞は、ゆっくりと息を吐いた。
早く緋咲が来ればいい。
そうすれば、きっと。
そのとき、幻ではない物音がして、時貞は目を見開いた。
外の駐輪場に、あの転校生が来ていた。
なかなか名前を思い出せず、時貞は暫くじっと彼を眺めた。
その顔には殴られた痕がはっきりと残っている。
「ああ、そうだ……秀人クンだろ」
ようやく名前が浮かび、時貞は唇を吊り上げた。
「俺のツレがどこにいるのか知らないかい」
途端に物凄い目で睨まれ、時貞は首を傾げる。
勝手なことはするなと言われていたが、そんな目をされると抉りたくなる。
窓枠に足を掛けようとして、止めた。
緋咲はたぶん、怒る。
「なんで緋咲は、秀人クンが嫌いなんだろうね」
「……知るかよ」
吐き捨てるように呟く秀人の目は、黒い炎が凝固したようだ。
硬く、滑らかな漆黒。
その眼差しは時貞を離れ、自分のFXに注がれる。
エンジン音が低く這い始める。
午後の光を震わせるそれに、時貞は目を細める。
少しだけ、分かったような気がした。
「なんだ……秀人クンもそうか」
そしてFXは悠然と走り去る。
青空を揺るがす排気音が聞こえなくなる頃、保健室のドアが開いた。
時貞は にっと笑う。
「おかえり」
すこぶる機嫌の悪そうな緋咲は、無言で洗面台に近づき、思いきり蛇口を開けた。
勢い良く流れ出る水で拳についた血を丁寧に洗い流し、水を掬って顔を洗う。
口を漱げば赤いものが混じっていた。
備え付けのタオルで顔を拭いた後、緋咲はようやく小さな息をついた。
「ムカツク」
憤激はまだ治まらないらしい。
濡れた前髪を煩そうに掻き上げれば、双眸が冷たい光を放っている。
空を睨む眼差しの先は、勝負をつけられなかった相手がいるのだろう。
時貞は、あのとき素直に抉りに行けばよかったかなと思った。
「緋咲」
ソファーに腰掛け、隣に呼ぶ。
緋咲は柳眉を顰めたままだった。
「前に会ったことがあるのか」
「……何が」
「秀人クン」
「知らねー。今日初めて見た」
「ふぅん? でもけっこう拘ってるよ」
「……ムカツク」
舌打ちして緋咲はソファーに座った。
そして自分の首の後ろをそっと撫でる。
「なんかアイツがいると、ここら辺がぞくぞくする」
時貞はその手許を覗きこんだ。
「特に何もないけど」
「あったら困る」
「じゃあ何がぞくぞくするんだろう」
緋咲は唇を閉ざし、物思いにふける。
その瞳の底で何かが揺れる。
肩を軽く押された緋咲は、そのままソファーに横になった。
時貞はその上に乗った。
「あ、意外と簡単」
「バカ、まだそれ言うのか。だいたいおまえとあいつじゃ違うだろ」
緋咲はほんの少しだけ笑う。
けれど、時貞がその顔を覗きこんでも、
冬の湖面のような瞳の底に何が沈んでいるのかは、分からなかった。
時貞は少し考えて、学ランのボタンに指を掛けた。
「何してんだ」
ボタンを外されても、緋咲はぼんやりと白い天井を眺めているだけだった。
「ちょっと」
時貞の指は動き続け、学ランの下に着ていた白シャツのボタンも外す。
肌に薄青い静脈が透けていた。
それは開いてみるわけにいかなくて、唇を寄せた。
緋咲がくすぐったそうに小さく身震いする。
そのまま首まで辿り、頚動脈を舌でなぞる。
熱と鼓動が伝わる。
唇を開かせて舌を差し入れると、傷に触れた。
ただ血の味がした。
緋咲が柳眉を僅かに顰めたので、時貞は顔を上げた。
「気がすんだか」
緋咲は呆れたように聞く。
「あんまり」
「……いまいち何キレてんだか分かんねぇ」
「秀人クンと遊ばせてくれないからだよ」
緋咲は難しい顔のまま身体を起こし、ボタンを留め直していく。
「……あいつは」
自分の指先を見下ろしながら、ふと呟いた。
「俺の敵なんだよ」
伏せた睫毛がゆっくりと揺れる。
「敵だから、むかつくし、ぶっ殺したくなる。そこにそいつがいるのなら、他の理由なんかいらねぇ」
指が、止まる。
そして独り言のように小さく言った。
「だから、あれはきっと、俺のなんだろうな……」
艶かしい冷笑を浮かべる瞳は、確信と剣呑な光で輝く。
時貞は暫くじっとその微笑を見据えていた。
やがて、口を開く。
「じゃあ、緋咲は」
「あん?」
「誰のなんだろう」
「そんなの決まってんだろ」
緋咲は、分かりきったことを聞くなというように断言する。
「俺」
思ったとおりの言葉が時貞を笑わせた。




玄関を出れば、全天を青が覆い尽くす。
先に歩く緋咲の背中を眺めながら、時貞は立ち止まった。
煙草に火をつけ、細く吐いた紫煙は空の青へと吸いこまれていく。
「俺、これから単車取り行くけど、おまえ来んの?」
振り返った緋咲に、時貞は頷いた。
「そのままどこかに行こう」
「んー、まあ明日から休みだしな」
緋咲も煙草を銜える。
「どこでもいいや。時貞、おまえ行きたいとこがあんなら、言えよ」
行きたいところと言われ、時貞は考えようとした。
しかしそれより早く、あの白昼夢に全てが塗り替えられる。
「なに? 迷ってんの?」
「……ん」
どこまでも砂礫だけが続いていく世界。
他には何もない世界。
砂が足を引き留める。
緋咲は青空と砂の境界を見据える。
その横顔を時貞は見詰める。
「じゃあ歩きながら考えろ」
何もかも消えた大地に二人立つ、寂しさ、恐ろしさ。
けれど震えるこの足が、まだ地面を踏んで立っているのは、きっとそれだけではないからなのだろう。
時貞はゆるく瞬きした。
白昼夢は溶けていった。
不思議そうに緋咲が顔を覗きこんでくる。
時貞は、言った。
「俺は、おまえのでいい」
緋咲は一度柳眉を顰め、
「今更何言ってんだ?」
それから面白そうに笑った。





























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キリ番22222を踏んでいただいた染井さんのリクエストで、
お題は 『緋咲さんと天羽くんが学ランで二人一緒』 でした。
リクエストありがとうございました!

ところで、学ランが大好きなわけですが。
実は同じくらいジャージも好きでして、ホントはジャージな場面もあったんですが
諸事情により止めました。
しかし! ありがたくも染井さんから素晴らしいお宝を頂戴しましたよ!!
はいはーい、こちらでございます→

で。
……なんか勢いで書いた小ネタもあるんですが。
アホな話を読んでぐだぐだな気分になりたい方はどうぞ→『犬と学ラン』
んなもん見てられるか、という方↓
お疲れ様でした。