ブラッドは両手で顔を覆い、酷く疲れた人のように言った。

「……君の頼みなら大抵のことは聞くつもりでいたが、それは、やめてくれ」
「仮定の話として、答えてくれれば良い」

淡々と告げられた男は喉奥で低く唸り、まだたったの三十余年しか生きてない子供を、じろりと睨む。
その眼光は“悪魔”のそれに匹敵するが、鏡のように見返すのは、銃口を眺める鹿の瞳の静けさ。

「君は何も知らないから、そんな途方もないことを言う」
「君なら聞いてくれると信じているからさ」

無言で対峙する視線は、やがて、ブラッドが深い溜め息をついた。
グラスを掴み、先程満たしたワインを一気に飲み干す。
そして、眉間を険しくさせたまま、瞑目して黙りこむ。
ブルースは、なみなみと注がれたワインをほんの一口。
そのグラスをテーブルに戻すまでの所作は、流れる水のよう。

「“怒りの聖霊”“懲罰の御使い”、呼び方は様々あるが、全能神の代行として地上の悪を浄化する。
 と、されている。 私はそれが恐ろしいよ、ジェイソン」

グラスの紅を眺め、その瞳は思いに沈む。

「そのどれも、私の手に余る」
「……そう思うのなら、手を出さなければ良い」
「仮定の話だ。 その必要が生じた場合、君はどうする」

ブラッドは酷く頭が痛むように、眉間を指で押さえた。

「その仮定を変えてくれ。 議論にならない」
「適さない?」
「私がどれだけ不可能だと説いても、君は決して納得しないし、逆に決意を固くするだろう」
「随分と私は屈折しているように聞こえる」
「正にそのとおりじゃないか」

僅かな微笑は二人に。
ブラッドのそれは苦笑の色が濃かったが。
グラスに注ぐワインはこれで三杯目。
客を構うのは、止めた。

「君がスペクターについて知りたいのは分かった。 しかし、私は助けにならないと思う」
「何故」
「その真実を知っている人間など、地上にいないよ。 “悪魔”にでも聞いてみるかい?」
「遠慮させてもらう」

エトリガンも知らないだろうと、ブラッドは考える。
地獄の支配者達ならば話は別かもしれないが。

「“神の代行”、君は先程そう言ったな」
「そのように聞いているというだけで、事実かは知らない」
「ブルース、君は悪魔が存在することを知っている。
 神々とも遭遇してきた。 その祝福により誕生した王女は君の友人だ。
 それでも、君は“神”を信じてはいない」
「……信じてない、というより、私には分からない」
「私も分かるとは言わない。 しかし、君や私の逡巡や理解など、意味はない。
 私が君に言ってやれることは、人間の世界などバクテリアのそれとしか思えないような、
 遥かに高次元の世界は存在するということだ。
 “世界”も“存在”も、正しい表現ではないだろうがね。
 私達の言葉は、それを叙述するために生まれたわけでないから」
「スペクターはそういったものに属する、と言いたいのか」
「私はたかが千年と少ししか生きてないんだ。 真実など何も知らないよ。
 しかし、少なくともスペクターは、私などよりずっと昔からこの地上を流離っている。
 おそらくは、人間の起源よりもさらに遡って。 創世神話に大破壊はつきものだ」
「それもスペクターだと?」

グラスに指をかけ、ブルースは小首を傾げる。
ブラッドほどではないが、静かに酒杯を進めている。

「譬えのつもりだよ。 人の抗い得ぬ、大いなる怒り。 洪水、雷、太陽の死……
 ああいったシンボルが表そうとするものは、スペクターのそれに近かったのだろう」
「“近かった”。 今は違うと君は考えている」
「かもしれない。 それらと君の知るスペクターの違いは何だ」
「依代」
「そう、人間を器としなければならない。 ジム・コリガンは君も知っているな」
「何度か行動を共にした」
「スペクターは、ほぼ全能に等しいと言えるかもしれない。 しかし、その力を自由に揮えるわけではない。
 死者の中から選ばれる依代は、生者同様に自我を持ち、それはスペクターと対立することもある。
 そのような仕組みになったのは、後になってからでないかと私は考える。
 スペクターは高次元の存在だ。 脆弱な器など必要ない。
 その魂と拮抗関係に陥るなど、本来有り得ない」
「つまり、依代は歯止めとして“科せられた”ものであると?」
「彼等の関係を見ていると、そう考えるのが適当に思える。
 だが、依代の存在が我々にとって如何に重要かは、先日の一件で君も承知したはずだ。
 オリンポスの神々なら人間の世界に関心など持たないだろう。 しかし、スペクターは違う。
 その第一義は地上の、いや、“神”の秩序に反する者達への裁きだ。
 依代という制約がなければ、我々は皆、この瞬間にも地上から消し去られてしまうかもしれない」
「……罪を犯さない人間はいない」
「依代は、その人間から選ばれる」
「君は、」

ブルースは一旦言葉を切った。
思いの淵に沈む何かを眺め、独り言のように。

「あれの為すことを、肯定するか」

ブラッドは鼻先で笑った。

「肯定も否定もしない。 私にどうにか出来る問題じゃない。 それに、私は既に“悪魔”を一匹抱えているんだ。
 この上もっと厄介な“神の御使い”となど関わり合いたくないよ。
 まあ、ああいった存在が我々と同じ地上を流離っているというのは、たしかに気分の良い話ではない。
 スペクターによって滅ぼされた街は、一つではないからね」

物問いたげなブルースの眼差しに、ブラッドは続ける。

「……ただ、」
「ただ?」
「私の知る限り、スペクターは秩序形成のために作用する。
 先程の講釈に戻れば、創世神話の破壊は後に“再生”を伴うものだ」
「しかし、神話は既に抽象化されている」
「無論」
「私には、あれが混沌を作り出しているように見える」
「君の“見える”とは別の次元の“見える”がある」
「そういえば私はバクテリアだった」
「気分を害したかい?」
「いや、卑小の身と言われるのも、傲慢と呼ばれるのも、慣れている」

にこりともせずにそんなことを言うので、ブラッドは笑った。
声を上げて笑う機会というのは、なかなか巡り合えるものでない。
一しきり楽しんだところで、ジェイソン、と静かな声。
いつのまにかブルースのグラスは空になっている。

「スペクターの依代は今までも移り変わってきた」
「つい先頃で何百回目の交換か」
「二者は分離可能ということだ」

ブラッドは片眉を吊り上げ、素知らぬ顔で二人のグラスにワインを注ぐ相手を、まじまじと眺める。

「過去、スペクターの力を奪おうと策謀して消滅した魔術師も、一人でないことは教えておく」
「心に留めよう」
「ブルース」
「人類を滅ぼしかねない力を持つような存在を、その鎖を壊して解き放つ気はないし、出来ない。
 それに、頼りにしていた魔術師も口車に乗ってくれそうにない」

唇の端で弧を描き、酔ったわけでもなかろうに。

「だいたい、君はいつも無茶な話ばかり持ってくる」
「無茶を聞いてくれる友人を持って私は幸運だ」

ブラッドは答えず、グラスを軽く掲げた。
千五百年余、彼は地上を旅してきた。
無限に巡る季節の中、人は生まれ、子は育ち、やがて死に、また生まれ。
その一生と、地に落ちた植物の種が芽吹いて枯れ果てるまでと、彼はもはや区別がつかず、
世界は蒼穹から降りしきる落葉。
黄の紅の、陽を浴びて輝きながら、降り積もり、土に還る。
手にとらえたとして、風に舞い踊り、どこかへ。
独り歩むその路の、すれ違う一瞬でも、“友”を得られたのなら、それは僥倖なのだ。

「……私はゴッサムに帰るよ」

なにか不思議な微笑を浮かべ、ブルースは言う。

「まさか君の料理を食べられるなんて考えてもいなかった。 ありがとう」
「こちらこそ、君がアルコールを飲む姿を目にするとは思わなかった。
 で? 大して美味くもない昼餐の他、君は何を得たんだ」

その唇を綻ばせたものは、あるいは諦念だったのかもしれない。
ブルースは無言で首を振った。





暫くして、ブルースは来た時と同様、ふらりとドアを出ていき、そのまま戻らなかった。
独りになったブラッドは、地下室に降りてみたが、そもそも物を乱雑に置いていた場所だ、
ダークナイトが何をどう動かしたのか分からない。
果たして本当に“スペクター”について調べていたのか。
ブルースの恐ろしさは、その決意の力だ。
たとえ相手が神でも悪魔でも、人類に害を為すと判断すれば、あらゆる手段を用いて地球から排除しようとする。
もしもブラッドの力が必要なら躊躇わず、そしてブラッドがどう抗おうと最終的に、巻き込んだだろう。
そのような事態にならなかったのは、安堵すべきだろうが。

何故かブルースは、今の“依代”が誰かについて、最後まで触れなかった。

ブラッドは手近な書を一冊手に取ると、階上に戻る。
椅子に落ち着き、革張りのその本を開いて、しかし読むでもなく。
詰まるところ、無聊の慰み。
何一つ決め兼ねるあの友人に、幸運の訪れることを、ぼんやり願った。















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ブラッドが言ってる“先日の一件”は、おハルさんがスペクターになった『DAY OF JUDGMENT』のこと。
読み返す気力がないのでエトリガンがいたかは覚えてない
が、スペクターというかおハルに対する蝙蝠のコメントがいちいち面白かった

スペクターについては、今日もこいつテキトーなことほざいてるわー、と思ってくだされば。
たしか元は天使だったとかそんなん?




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