時間の無駄であると思い知るために四日間を費やしたという精神的衝撃は、
計五日間ほど一睡もしていないこと以上にブルースを疲弊させた。
事件に没頭して寝食を忘れるのならまだ良い。
(と、思っているのは彼ぐらいなもので、周囲は決して同意しないが。)
しかし、ブルースは、没頭すら出来なかったのだ。
考えを巡らすことなしにブラッドの元を訪れ、(その事実自体、彼を驚かせ、少し怯えさせもする。)
何を見つけて良いのか分からぬまま、思考の迷宮を、ただぐずぐずと、
あちらに彷徨い、こちらを引っくり返し。
ひたすら、何かを。
(何かは、何かとしか言いようがない。)
(彼は現状におけるスペクターの存在意義を理解している。)
(そして、依代の役割を。)
(彼の心のありとあらゆる階層を調べたなら、片隅にひっそり隠れる“信頼”が見つかるかもしれない。)
(しかし、彼は怒号する“否”。)
(理性もなく吼え猛り、いったい何に対してなのかも分からない。)
正体のない強迫観念に疲れ果て、彼がゴッサムに帰還したのは、真夜中だった。
主の顔を見た瞬間、その不摂生を察する忠実な執事を、食事は済ませたと言って躱し、(全くの嘘ではない。)
ケイブへと降りた彼は、“外出”する気でいた。
が。
ちょうどそこにやってきたロビンとナイトウィングによって、上階に追い返された。
二人はアルフレッドと瞬時に合意形成したのだろう、
今夜はもう休まなければ、ベッドに放り込んで眠るまでディックが添い寝するとティムに脅され、
彼は悄然と自室に向かった。
部屋に辿り着くまでの道々、ディックによってキスまみれにされたが、気にも留めない。
養父への少々過剰なスキンシップ、ぐらいにしか思ってない。
そのうちに、小さく欠伸。
眉根を顰めたまま、だんだんと目蓋が重くなる。
ディックのからかう声が意識の水平から滑り落ち、しかし、両脚は他人のそれにように歩みを進め、
虚ろな彼は、何故だかマザー・グースのアナグラムを解こうとしている。

"When good King Arthur ruled this land,..."

きっと疲れているのだ。




ぱちん と、ブルースの目蓋が開いた時、彼は浴槽の中、ぬるい湯に浸かっていた。
うたたねの途絶えた窓の向こう、森閑とした夜は深く。
彼は首を巡らせる。
浴槽を中心にゆったり広がる空間の、装飾はあくまで優美に、繊細に。
白と深草のアラベスク。
温室の花々の咲き誇る磁器。
ウェイン邸の主は、それらを無機質に眺め、窓際の古雅な円卓に目をとめる。
アルフレッドが用意したのだろう、水差しが置かれ、
傍に、ガラスの器。
赤い花弁が盛られているようで、彼は目を細めた。
浴槽から出、上等のタオルで至極なおざりに身体を拭い、バスローブを纏う。
窓際の円卓に近づいてみると、花に思えたものは、深紅のルビーのような、柘榴だった。
銀の匙がそえられ、せめてこれぐらいは口にしろ、という意味なのだろうが、
彼は軽く、目眩。
なにか、白日夢の中にいるようで、
柘榴から何の暗喩も求める必要はないのに。

彼は全く、ブラッドの地下室で四日も魔導書に囲まれて過ごすべきではなかったし、
何より今すぐ眠るべきだろう。


バスローブのままベッドに入ってはいけない。
という執事の言葉は、彼の頭のどこかに残っていたようだ。
夜着になることはまるで思いつかなかった彼も、バスローブを脱ぐことには成功した。
つまずくようにベッドに倒れ、どうにかシーツにもぐりこむ。
長身の彼は、大きなベッドの中、小さく小さく手足を丸め、
そのまま。
目蓋を閉じる。
暗闇の底、彼の意識は小石のよう。
やがて流れの中、どこか彼方へ押し流されていくだろう。
だが、眠りの淵に落ちようという時、彼は、唇を噛んだ。
胸を鮮やかに刺し貫いた、それは、彼が今、思い出したくはないものだ。
考えまいとすればするほど囚われ、忘れようとしても、彼はふと、振り返ってしまう。
酷く疲れた心は、いつか。
その思慮を、許しもなく脱ぎ捨て、
夜闇にしどけなく、思い浮かべて遊ぶ、面影は

「ブルース」

誰かがベッドの端に腰を下ろした時、彼はそちらを振り向かなかった。
その手が、彼の頭を撫でる。

「また濡れたまま寝ようとしてんだろ」

ブルースは答えない。
目も明けない。

「おまえ何、無視? それ寝たフリ?
 ウォーリーに聞いたけど、俺に何か文句あんだって? だから直接聞きに来てやった」

死霊の分際で、何故こうも晴れやかに笑う。
見なくてもそれが分かるブルースは、眉根を険しくし、苦々しく唸る。

「文句など、無い」
「そんな不機嫌なツラしてんのにー?」
「元々だ」
「そういえばそうだった」

笑いながら覆いかぶさってくる、その影が氷のように冷たければ良かった。
けれども、包み込むように抱かれるジャケットの感触や、耳もとで感じる呼吸の気配は、肌が覚えたそれで。
ブルースは心中、呪詛を吐く。
その頬に、軽いキスが。
彼はきつく目を瞑り、それを嫌がると、枕を抱えてうつぶせになった。
しかし、キスは今度は彼の頭に、そしてうなじに、優しい雨の降るように。
そのうちに、強張った首筋を舌がなぞり、口付けが赤い痕を残していく。
ブルースは小さく身震いし、枕をますます抱き締める。

「……何の真似だ」

顔を上げないまま彼は低い声で恫喝した。

「んー、おやすみのキス? なんか疲れてるみたいだし、良く眠れるように」
「それにしては、しつこいッ」
「だって何でおまえ裸で寝てんの」

笑いを含んだ唇が、背中をたどりはじめる。
その唇に触れられた肌や、彼の身体を撫でおりていく両の掌が熱く、
額を枕にこすりつけ、彼は微かに喘いだ。
自然と腰が浮き上がる。
その下半身に、後ろから密着するジーンズの脚。

「ブルース」

耳もとで囁く声に、背筋がぞくりと痺れた。
自分の身体が熱くなっていくのを気付かずにいられず、彼は強いて冷淡に言う。

「キスが済んだのなら消えろ」
「たった今おやすみのファックに移行しました」

内腿を撫で回していた手が、その手の中に彼を包んでゆるく動き出す。
さらにもう片方の手が胸の下にもぐりこもうとするので、ブルースは、しがみ付いていた枕から片腕を外し、
その手首は捕まえたが、指先で軽く乳首を摘ままれ、息を飲んだ。

「舐めたい」

何を、とは言わない言葉に、彼は身を固くする。
あるいは、興奮しただけかもしれない。

「ブルースの感じるとこ、全部舐めて、無茶苦茶になってるの見たい」
「止めろ……」

唾棄すべきは、彼の声が、懇願のそれであることだ。
性器を捕まえている手は、まるで彼の願いを見透かすように的確に彼を追い立て、
底から込み上げてくる熱い渦が、声になってしまうのを堪える彼は、自分の口を手でおさえようとした。
途端、胸を這う手指が自由を得、好き勝手なぶりはじめる。

「ッんぁ」

上擦った声を恥じる彼の後ろ、熱のこもった吐息。

「……本当は、ホントに顔だけ見たら帰ろうと思ったんだけど、」
「だったら、帰れッ」
「悪ぃ、ちょっと無理、今まじでチ××ぎんぎんでつらい。
 あ。 つか俺ってこの身体になってから一度も何もやってない、ってことは俺、バージンかよ!
 ……ブルース、おまえ今、笑った?」

笑ったというより、呆れた、が正しく。
けれど、唇に微笑の欠片。
だから彼は、ハルが嫌いだ。

「ハル」

身をよじるように振り向けば、そこにいるのは、彼の知る姿のままの、ハル。
ようやく顔を上げたブルースを見て、にっこり嬉しそうに笑う。
まるで、何一つ、変わったものなどないように。
(が、真実は?)
(今日まで変わらなかったものといえば、その笑顔だけ。)
(あとは何もかもが、木端微塵。)
(ブルースのそれは埋火の憤怒。)
(たとえ、ハルの犯した罪がいつか贖われ、世界が、“神”が、ハルを許したとしても、)
(ブルースには、決して許せないことが、一つある。)
彼は、片手をそっと、ハルの頭の後ろへ伸ばす。
そして、そのまま引き寄せて、
頭突き。
ゴッ、と鈍い音がし、呻いたハルが崩れ落ちたが、ブルースは充分、手加減したのだ。
(鼻骨を砕いてやったとして、そもそも相手は“スペクター”。)

「痛っェ……いきなり何すんだバカ」

突っ伏して唸るハルの頭を拳でもう一度殴る。
その身体をぞんざいにベッドに押し倒し、上に乗ったのは、今度はハルの顔を殴るつもりだったのだが、
気付けば、何故だか彼は、ジーンズの前を膨らませたハルのそれの上、腰を揺らめかせている。
ハルの喉が妙な音を立てた。
しかし、ブルースの瞳はどこか、迷子のように頼りなく、

「ハル」
「ん」
「今すぐ死ね」

にっとハルは笑った。

「もう死んでる」

握った拳を、上天から振り下ろし、その頭蓋骨を叩き壊したなら。
彼はどれほど、解放されるだろう。
ハルは、ただハルであるということだけで、彼の内側に漣を立てる。
彼の心の、思考の宮殿を踏み躙り、感じたくもない柔な奥底を暴いてみせる。
ハルほど彼を苛立たせる人間は、この宇宙に無い。
だから彼は、途方に暮れる。
己の感情が、手に負えなくて。
(さて、死者を殺すことは、殺人を厭う彼の法に抵触するのだろうか。)
(しかし、この死者はどうにも生命力が強い。)
振り上げた拳を、どこに下ろしてみようもなく、ブルースはただ、足掻くことに疲れた。
今日までにもう充分消耗した。
彼の身体は、つっと横に傾ぐと、重力に従ってそのまま倒れる。
ベッドはふんわりと主を受け止めたが、ブルースの眉間は険しいままだった。

「ハル」
「うん?」
「眠い、さっさと脱げ」

思わず噴き出したハルが「可愛くねぇ言い方」と呟いたが、実際ブルースは、至極機嫌の悪い顔で。
ベッドから身を起こしたハルが手早く服を脱いでいくのを、むすっとして眺めていた。
死霊のくせに、何故服を脱がなければ裸になれないのだろう。
そもそも、この男は今、いったい何で形成されているのか?
などと考えてみるが、彼の傍に戻ってきたハルの顔や首筋や肩を撫でてみても、
その唇にキスしてみても、ハルはハルであるように思える。
あるいは、全ては実体のない幻影。

「私は、夢でも見ているのだろうか」
「え? おまえこんな夢見んの?」

目をぱちぱちさせるハルの、その鼻骨を砕いておけば良かったという鬱積と、
笑みを含む唇を、噛みついて黙らせたいという熱情は、秤にかけたように等分で、彼を再び悩ませる。
が、迷う間にハルがブルースの唇を塞いでいる。
酷く飢えた獣が、ようやくありついた獲物を夢中になって貪るような、
頭の奥が、じんと痺れ。
その口付けに応える彼は、本当に飢えていたのはどちらなのか、分からない。
そんな自分の有様を、ブルースは後で悔いるだろう。
そして、彼の妥協を。

「ハル」

潤んだ唇の合間、知らぬうちに名前を呼ぶ。
繰り返し呼ぶ。
阿呆のようだと彼は思う。
何故だかどうしても抱擁を解くことが出来ず、繋がった箇所から、自分が融解していく。

「……ハル、」
「ん」
「地獄に堕ちろ」
「そのうちな」

笑うハルのそれは、自嘲ですらない。
ブルースは、先程のようにハルの顔を引き寄せる。
しかし、強かに頭突きするかわりに、真っ直ぐ二人の視線を合わせ、ブルースの双眸は、嚇怒。
極天の焔のように罪人の魂を射貫き、

「嫌なら、早く生き返れ」


彼は全く、その一点が許せない。
















+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
(了)

前←


蝙蝠は、おハルさんのことが大好きだけどデレるまでは一苦労どころか大事件だよ、というのがSOUL WAR。
いや本当なんだって。
そして、今日デレたからといって明日もデレるとは限らない。 REBIRTHしたとしても早々にはデレない。
そんなめんどくさい蝙蝠が、私は好きです。
乳首弱いといいね。

歴代のスペクターの中でぶっちぎりにおハルさんは自由すぎたので、良くウォッチタワーでくつろいでるといいよ。
んでも怒られちゃうと思ってるから、蝙蝠の前には出てこない。
一応気を遣ってるつもりなんだけど、それがまたクソ腹立つとか蝙蝠は思ってるとよいのですめんどくせー。
おハルさん的には、そもそも蝙蝠はデレない生き物であるという認識なので、ちょっとでも口実があればにこにこして構いにやってくるよ。
ほんとは、蝙蝠がブラッドのとこ行ったの知ってて心配すると良いです。
あの子専門外なのに何してんだろって。
でも自分が姿見せると絶対怒るから、どうしようってお店の前を行ったり来たりして、やっぱり入っていけなくってしょんぼりして帰ると良いよ。
乙女かよ! って言いたくなる場面が多々あるスペクター期。

ペントハウスの方がお風呂おっきくって、複数人同時に遊べます的なあれなんだけど、
ウェイン邸の私室のバスルームは、お一人様悠々空間です。 浴室の概念がそもそも違うのだ。





もどる→