ベッドに横になり、彼は暫く目をつむる。
長く待つとは微塵も考えてない。
その手の中、セルフォンが軽く振動。
無論、トーマスだ。
『兄のことなんかすっかり忘れた薄情な弟が連絡を寄越した。 嬉しいな。
寂しくて寂しくて兄は体重が5kgも落ちた』
冗談か本当か分からない文章を、弟は無表情に眺めた。
返信せずにいると、すぐに次から次へ。
『お前には悪いことをしたと思っている。 猛省している』
『私はただ、お前を心配しているんだ』
『食事はきちんと摂っているのか? お前は放っておくと水しか飲まないから』
いつもの兄だ。
と、考える間にまた、
『デートの邪魔をしたのは、私でないよ』
その文字を、彼はじっと見据える。
そして短く問う。
『スタイン博士は?』
『そこにいる。 “やあ、坊ちゃん”以降は長いから省略。要は経過観察を尋ねている』
『“根”は宿主頸部に到達。 リングの使用時、宿主の人格が不安定になることがあった』
ブルースは客観を述べるにとどめた。
ちらりとハルの方を見ると、まだ眠っている。
『トーマス、正直に答えろ。 スタインは“パワーリング”を宿主から分離させることが出来るな』
『理論上、可能だろう』
『正確には』
『可能だから観察のために放置していた』
『すぐに宿主から取り除かせろ』
要求だけを簡潔に告げる。
その他の一切、覚られてはならない。
今日、ハルが引き起こしたことが、あの程度の殺戮で済んだのは、ただの幸運なのだ。
“次”もハルを止められるかは分からない。
寄生者は、宿主の肉だけでなく精神も蝕んでいる。
ハルの心はだんだんと削られていき、そして、何へと変わるのだろう。
そして、トーマスは弟の不安など簡単に見透かすのだ。
『お前も承知のとおり、スタインも私同様、忙しい身だ。 特に今は。
それに、寄生者と宿主の変容を間近に観察してくれる人間がいて、博士は喜んでいるよ。
お前は優しい。 “最期”まで見届けてやりなさい』
ブルースは兄のテキストを睨んだ。
と、カウチの方で動く気配がし、午睡から覚めたハルが起き上がった。
ブルースがベッドにいるのを見つけ、近づいてきて彼の上に乗る。
頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めた。
「何してるの?」
「兄にメールしてる」
「家族いるんだ」
「一人しかいない」
「会いたい?」
「……ハルは面白いことを言う」
まるで、兄とのそれが、彼等兄弟の意志や選択の問題であるかのようだ。
目を上げると、ハルは黙って彼の顔を見下ろしている。
常々6フィートの仔犬を連想させるハルは、しかし、よくよく瞳を覗いていると、
いつか絵の中で見た大空の生き物を思い起こさせる。
不思議なことだ。
ブルースは画面に視線を戻した。
『トミー、要求は伝えた。 履行するなら、弟にもう一度会えるだろう。
手筈はそちらに任せる。 後で時間と座標を伝えてくれれば良い』
兄が素直に応じる確証は無い。
しかし、トーマスでなければ、デスストームを動かすことは出来ない。
『明日、家に帰る』
意志や、希望ではないのだ。
羊の群に混じってその皮を被っていたとして、狼は互いのにおいを辿り、片割れを見つけるだろう。
真実として、彼等兄弟はこの地上に、互い以外の同族を持たない。
弟は兄に会わねばならない。
「……ブルース」
送信を終えると、ハルはどこか、思い詰めたような顔をしていた。
そして、おずおずと口を開く。
「ずっと俺といてくれる?」
ハルは元来、勘の良い生き物なのかもしれない。
黙ってその顔を眺めていると、まず眉がしょんぼりする。
俯いて下唇を噛み、打たれた動物のように悲しげに瞳を揺らす。
そのまま泣くと思った。
しかし、そうでなかった。
最初に会った頃、ハルの大部分は“怖い”と“苦しい”が占めていた。
それらから逃げ出すことしか考えてなかった。
臆病であるのは今も変わらない。
けれど、ブルースは知らぬ間に、微笑んでいた。
「お前は本当は、何も怖がらなくて良いんだ」
悲壮な面持ちで見つめるハルの、その眼差しに、胸を打たれたような気がした。
そんな自分に、少し驚いた。
慰めたつもりが、何故だかハルの目は潤んでしまいそうで、
それをこらえるようにブルースをぎゅっと抱きすくめる。
「ハル」
熱い唇が無言のまま首筋を辿り、震えるような手が彼のシャツのボタンを不器用に外そうとする。
苛立たしく息を吐いたかと思えば、一気に胸のあたりまでめくり上げられる。
ブルースは声を上げ、笑った。
切羽詰まったように下も脱がせようとするハルのため、少し腰を浮かせてやる。
たぶん、彼は本当に、ハルを甘やかすのが、好きなのかもしれない。
家に連れて帰りたい。
そんな気もする。
けれど、それは出来ない。
彼にはもう、トーマスがいる。
「ハル」
名前を呼ぶ唇を、もどかしげな唇が黙らせて、
噛みついて、絡め取って、離れることなど出来ないように貪り合って、
二人の声や吐息、縋り付いて押さえつけ、痛いくらいに愛撫する身体も、
何もかも真っ白く蒸発してしまうまで抱き合ったら、
眠っているうちに、さよなら。
*
月のあるうちに、彼は出発した。
瓦礫の街に灯りはなく、星の海の下、大地は暗黒。
夜闇の獣は顔を上げ、風を読む。
音も立てずに西を目指す。
**
目玉をくりぬかれたような暗闇の中でハルは唐突に覚醒した。
僅かな光も音も無い、自分の身体が存在するのかも分からない、あらゆるものの消失した暗黒。
あるいは、そこは冥府であるのかもしれない。
途端に恐怖が突き上げる。
喉が詰まる。
呼吸が出来ない。
気管の痙攣する苦しさに、夢中で腕を動かす。
何かを掴みたかった。
否、彼を探していた。
指の先に僅かでも触れてくれれば息が出来る。
けれど、ブルースはいない。
見えない目を必死に見開いてその人を求めた。
名前を呼びたかった。
声が出なかった。
冷たい暗闇の中へ腕を伸ばし、手探りで進む。
その足が何かにぶつかり、ガラスの割れる音が響いた。
そして、しんと静まる。
ここには誰もいない。
「う、」
悲鳴を飲み込もうとした。
喉が捩れた。
苦しくて苦しくて苦しくて咆えた。
頭がどうにかなりそうで、ブルースに抱き締めてほしかった。
声が聞きたかった。
大丈夫だよと言ってほしかった。
手を握り、その声を聞くだけで、沼の底に生きたまま沈められるような苦しみから自由になれた。
右腕が喰われていこうが構わなかった。
彼が傍にいてくれるなら。
なのに、ブルースがいない。
狂ったように探し回るうち、気がつくと、瓦礫に囲まれていた。
見上げる夜空は星が虫のように群れ動いて気味が悪かった。
自分の部屋を壊してしまったことは、ぼんやりわかった。
悪い夢から覚めない。
そんな気がした。
“莫迦が”
聞きたくない声だ。
腕が重い。
内側をずっと何かがぞわぞわ蠢いている。 気持ち悪い。
“どうしようもなく愚劣で鈍重で、救いようがない”
「うるさい」
“隅に隠れているしか能のない痩せ犬が、いつのまにか人間のような口を利く”
「黙れ」
暗い、幽霊のような光が右腕で揺れている。
リングはいつも嫌なことばかり言う。
したくないことをさせる。
“私はお前の願望を叶えてやっているだけだ”
“自分を憐れむことしか考えないお前の目には、人間など虫けらにしか見えない”
“だから四肢を引き千切っては投げ捨てる。 あんな野蛮な真似が良く出来る”
「黙れ」
知らないうちに死んでいるんだ。
どう殺しているかなんて覚えてない。
“愚劣であること獣にも劣る。 遂にお前は捨てられた”
「ブ、ブルース は、」
“あれはもう戻ってこない。 毛色の違う犬を一時可愛がっただけだ。 飽きれば捨てる”
「う、嘘、だ、」
“お前にはあれが何に見えた。 優しい恋人か?”
“まともな人間がお前のような異常者を愛してくれるはずがないだろ”
“あれは12の頃から兄と寝ている人でなしだ。 頭が弱いから誰にでも股を開く”
“気紛れに畜生の世話をしては、飽きると兄に始末させる。 あれの周りは屍ばかりだ”
“兄の元へ帰れば、お前のこともすぐに忘れる”
兄。
ブルースもそう言っていた。
メールなんて昨日まで一度もしてなかったのに。
「ぅ……ァ」
右腕が痛くて吐きそうだ。
鉄錆の苦さが口の中に溢れて気持ち悪い。
痛いのは嫌だ。
苦しくて涙が出そうになる。
ひとりきりでいることが悲しくて悲しくてたまらなくなる。
“まだ然程遠くには行ってない”
傍にいたい。
傍にいてほしい。
ブルースが、いてくれれば。
ブルースが一緒にいてくれなければ頭がおかしくなる。
“捕まえて、二度と逃げ出せないように、足を潰してしまえ”
++++++++++++++++++++++++++++++++++
←前にもどる 次にすすむ→
普通の地球でさえ、蝙蝠は蝙蝠でなきゃどう生きればいいのか分からないと思うんす。
そんなわけで、アース3の弟さんは、兄やんに甘やかされて育った、純粋培養無気力人間。
やりたいこと、やらねばならないことがなく、実際ハルのことはすごく冷静に観察してるといい。
で、現実的な診断を下す。
感情よりも理性。
12の頃から、の真相は、赤ちゃんの頃から弟は兄やんと一緒のベッドに寝てたのに、12の頃から弟は一人で寝るようになって兄号泣、です。
あとは概ね本当の話で、兄が全力で甘やかした結果、弟はいつのまにかクソビッチに育って、弟の女関係も男関係も全部兄が始末してきましたという子育て失敗談。
そして、その中でも最高に性質が悪いのがハルなんだぜ。
もどる→