砂浜には乾いた流木。
白い、鯨の胸骨のようなそれに、彼は腰掛けている。
そして、こくりこくり、うたた寝。
夜明け前、海と空は青色に溶け、星は泡沫。
波音に抱かれて彼は夢を見る。

火を噴く山々、黒煙の稲光
裾野に広がる巨大なシダ植物の森林
繁茂の中、哮り、歌う、恐竜達の奇妙な饗宴

6600万年前の楽園は、ユカタン半島に燃える星が現れて終わり、彼は自然と目を明けた。
海は凪いでいた。
形質の気化したような、茫漠とした青。
太古の夢の続きに、彼はひとつ、まばたきした。
沖から何か近づいてくる。




洋上、強襲揚陸艦一隻、駆逐艦二隻。
それらを背にし、三機の軍用ヘリコプターは白い海岸線を目指す。
北緯32度46分04秒
西経117度15分12秒
その座標に、彼等の捜索対象であるVIPがいる。
コーストシティが壊滅して以降、無人のままの地域だ。
そんな場所で保護を待つ人間は、いったいどういう人物か。
彼等は問う立場にない。
盤上の自分達がポーンなのかナイトなのかすら分からない。
世界は一面濡れたように仄青く、しかし訓練された彼等は、目標地点の人影を素早く捕捉した。
ペイブ・ホークの望遠画像には、黒髪の青年がはっきりと。
簡単な任務だ。
皆そう思った。
砂浜には他に何の影もなく、朝は穏やかに訪れようとしている。
と、副操縦士の一人、画面の中の青年がこちらを眺めているのに気づいた。
彼の顔には、不思議な微笑。
その唇が動く。

“引き返せ”

彼等はその意味を考える必要がなかった。
機体の腹部に直撃を受け、一瞬で炎に包まれた。







爆発音が立て続けに轟き渡る。
ばらばらになったヘリコプターの残骸が海へと降り注ぐ。
沖では、三隻の軍艦が所属不明の戦闘機に翻弄されていた。
艦載防空ミサイル、機関砲の一斉掃射を、悪夢のような機動力で回避し、
海面すれすれからF-16の放った対艦ミサイルは、船腹に突き刺さり鮮やかなエメラルド色の爆炎を噴いた。


その光景を砂浜から眺め、ハルは笑っていた。
流木に腰掛けたブルースの足元に座り、まるで、ゲームでハイスコアを叩き出した子供のように。
その頭を上向かせ、ブルースはハルの額に軽くキスした。

「航空機は嫌いだったんじゃないのか」
「嫌いだよ?」

と、ハルは嬉しげに笑い、下からブルースの唇を奪う。
海の上では業火が揺らめき、やがて静かに消えていく。
そして、波音。
ハルはブルースをきつく抱き竦める。
両腕と、それ以上の力を込めて。

「俺を、置いていかないで」

ブルースは、玻璃のような瞳を水平線に。
彼の誤算を考える。
ハルが嫌がるだろうから、眠っているうちに出て行こうとした。
一人ではあの部屋を出ることも怖がるので、追っては来ないだろうと。
さて、彼はハルを褒めてやるべきか?
捜索に来た部隊を“正気のまま”全滅させるとは、予想していなかったのだが。
なるほど、いつか兄に言われたとおり、彼は人の心というものが分からない。

「どこにも行かないで」

抱擁は、身体を軋ませていく。
ハルの背に両腕を回し、ブルースは小さな吐息一つ。

「逃げるなら、歩けなくさせるから。
 誰が来ても、俺がみんな殺すから。
 お願いだから、俺の傍にいて」

その声に涙が滲んでいた。
ブルースは、自分の肋骨にひびが入るのを感じた。
空を仰ぐ。
天頂の蒼は色褪せ、やがて地平から紅蓮の赤が燃える。
約束の時刻は過ぎた。
ブルースが兄の元に戻らねば、トーマスとの取引は成立しない。
彼の仔犬を悩ませ、悲しませる宿痾を、どうにかしてやりたいと思うのだが、その前に自分が死にそうだ。
なかなか皮肉が効いていて、愉快になる。
笑おうとして、音のない息が漏れた。
頭の奥がじんと痺れる。
意識が霞んでいく。
虚脱したブルースの四肢は、人形のように砂に投げ出され、
その頭上、大きな大きな四角刃の肉切り包丁が、振りかざされる。
彼は、陶然と微笑んだ。
けれど、ハルは動かない。
腕でも足でも、好きなように切り刻んでしまえばいいのに、何が嫌なのか、悲しいのか。
病んだ右腕を左手で押さえつけ、砂に突っ伏して咆える。
轟、と大気が鳴動。
空間が歪む。
こちら側と“あちら側”の境界が揺らぎ、しかし、あの時とは違い、“影”は狂おしくのたうちまわる。
まるで苦悶しているように。
不可視の嵐の中、右腕を呪って咆える獣。
ブルースは、砂から身体を起こした。
鼻腔からひとすじ赤い血が伝い、ハンカチで拭く。
そして、砂に蹲る背に近付いた。

「ハル」

差し伸べるその手を引き千切る勢いで捕らえ、ハルが顔を上げる。
見開いた目には、生きながら喰われていく苦痛と、憤激。
この寂しい生き物を救ってやるために、彼は何をすれば良いのだろう。

「一緒に死のうか、ハル」


手と、指と、
重ねて、繋ぎ、
結んで、笑って
嵐は去り、海は平静
砂上の楽園の、幸福な二人


バツン、とくぐもった音がした。


それが何なのか、ブルースはわからなかった。
ハルもわからなかった。
その首筋に亀裂が走り、真っ赤なものが噴き上がる。
糸を切られた人形のように地面に倒れ、不明瞭な呻きは、言葉か、血の泡か。
裂けた首から鮮血は止めどなく溢れ、砂に吸い込まれていく。
痙攣するハルの身体を、ブルースは呆然と見下ろした。
それから、ゆっくりと首を巡らせる。
死神がそこに立っている。

「トーマス」

ウェイン家の長兄は、一月振りに会う弟に向かって優美に微笑んだ。

「5kgは本当だっただろ?」
「そんなの聞いてない」
「なら、いったい何から説明してやろうか」

近付いてくる兄を眺め、弟は黙って首を横に振る。
その頬を両手で包み、兄は弟に口付けした。

「お前に言ってなかったが、パワーリングとクライムシンジケートは、競合を避けるため協定を結んである。
 それにより、デスストームがリング本体に干渉することはない。
 ただし、“宿主”に関してはその限りでない。
 この愚図が使い物にならなくなっても、“寄生者”は次を探すだけだ。
 リングを取り除きたければ、宿主を殺せば良い」

砂に横たわり動かなくなったハルは、まだブルースの手を掴んでいた。
トーマスは冷然と死人の肩を蹴り、弟から手を外させる。

「スタインの研究所では動物達に首輪をさせる。
 逃亡に備えた発信機でもあるが、遠隔操作で実験体を“処分”する機能がある。
 が、首輪を外せる可能性のある動物の場合、小型のものを頸部内に施術する。
 対象が半径500m以内にいれば、スイッチ一つで動脈を破裂させることが出来る。
 ……しかし、私は医者だ。
 患者の承諾しない治療はしない」

兄は弟を立ち上がらせると、其処彼処についている砂粒を叩いてやる。
そして、にっこり笑った。

「お前が同意させてくれて良かったよ。
 さあ、家に帰ろう」

弟の瞳に表情は無かった。
促されるまま兄に手を引かれ、道を知らない子供のように歩き出す。
海から来た部隊は陽動として使い捨てられたのだろうと、ブルースはぼんやり考えた。
その足が、ふと立ち止まる。

「トーマス」
「ん?」

兄は弟を振り返った。
と、眉を顰め、自分の掴む弟の左手に目を落とす。
切断されたはずの中指が、そこにある。
その指が、爆ぜた。

“指”を作ったのは、ハルだ。
その意志が消失したことで、指を形成していたものが制御を失い、爆発的なエネルギーを空間に解放した、
と考えることは出来るかもしれない。
ブルースは良く分からない。
網膜を焼く強烈な光に両目を瞑った後、目を明けると、兄は倒れていた。

「トミー?」

胸から腹まで、巨大な刃物を何度も振るわれたように、ずたずたに裂けている。
肉が千切れ、骨が砕け、傷は背中まで達し、大地に仰臥した身体は、急速に失血していく。
トーマスは、驚いたように天を見据えていた。
弟が顔を覗き込むと、冴えた藍色の瞳は、物問いたげに瞬きする。

「うん、致命傷だ」

ブルースは兄の傍に跪き、死にゆく人の頬を撫でた。
トーマスの手が震えながら持ち上がろうとする。
弟の唇に微笑が浮かぶ。

「大丈夫、僕は怪我してない」

声のない兄を、弟は正しく理解する。
彼等は同じ血肉から生まれた、地上で二人だけのウェイン。

「怒ってない」

トーマスの唇が微かに動き、光の消えていく瞳が嬉しげに目を細める。
兄の手を両手で包み、ブルースはその額に優しく唇を寄せた。

「愛してるよ、トミー」

やがて、兄は絶命した。
魂というものが何であるか、ブルースは知らない。
ただ、兄の心臓が鼓動を停止するまで、弟は兄の手を離さなかった。
それから、口許の血を綺麗に拭い、死に顔を清めてやる。
無残な裂傷を除けば、まるで眠っているようだ。
その両手を胸の上で重ね、最後にもう一度、キスをする。
そして、立ち上がった。

「……中指?」

くすりと笑った彼は、ハルの方へ歩く。

「些か品がないぞ、ハル」

砂の中、その死体は横倒しになっていた。
翆玉色の小さな光が浮かび上がり、ブルースの鼻先でふわりと静止する。

"Bruce Wayne of Earth-3"
"You're the worst"

光は弧を描き、暁の空へ消えた。
彼はただ、その軌跡を一瞥した。

「ハル」

きっと、酷い顔をしているだろうと、ブルースは思った。
彼の寂しい仔犬は、“死”というものを極端に恐れていたから。
けれど、その身体を砂の中から抱え起こした時、ハルは穏やかに、笑っていた。
なんだか良い夢でも見ているように。
褒めてやらねば、ならないだろう。
右総頸動脈破裂。
思考は即座に断ち切られ、自分に何が起きたのかも分からなかったはずだ。

「すごいぞ、ハル」

ブルースも、トーマスも、今日ここで、己の片割れを失うなど考えてもなかった。
だから、人間の生き死には科学できない。
あの時、彼は本気で、死んでもいいと思ったのに。

「ハル」

名前を呼び、揺り動かす。
大量失血、心停止、酸素供給を絶たれた脳は機能を順次失っていく。
あるいは聴覚はまだ生きており、繰り返し呼ぶ彼の声を聞こえていることが、あるのだろうか。
物質の世界において死と生の境は曖昧だ。
だが、ハルはもう、彼の声に答えない。

「ハル」

名前を、呼ぶ。
何度呼んでも、彼の仔犬は、もう動かない。
そんなことはわかっている。

「ハル」

自分が、泣くのではないかと思った。
涙は一滴も零れなかった。
ただ、胸の真ん中に、穴。
あの柳の下の、地の底まで続く、暗い穴。

何故、彼はいつも、取り残され、
逝く人達を、ただ見送っているのだろう。
どうして、一緒に連れていっては、もらえないのだろう。
あの夜、父母を殺した銃弾は、彼の心臓も撃ち抜くはずだった。
そう思えてならないのに。
何故かまた、独りだけ、取り残され。
滑稽で、涙など出るはずがない。

「……、」

声がつまるので、ハルを抱えた。
ハルの身体は、ハルのにおい。
頬を重ねれば、ぬくもり。
やがて、冷たく。

波音、寄せては返し、泡沫、生まれは消え、潮の遠鳴り。
海の果てから風は来る。
死体を抱えてうつむく人の、髪を、頬をなで、傍らを駆け去る。

いつか、どこか別の場所で。
こんな風に、誰かの血にまみれていたことが、あったような、気がした。
体温が、永遠に失われていくのを、感じながら。
蹲って泣いていた。
そんなことが。

遠い記憶を辿る、その既視感は、現実ではない。
父母が死んだ時、トーマスは弟を抱きかかえ、何も見せなかった。
けれども、輪廻の輪の何処か、あるいは、ここではない別の宇宙で、彼は。

そんな空想に、何があるわけもない。
ただの感傷だ。

地平線から太陽が昇る。
煉獄のような赤が空を焦がし、大地を染める。
その赤を嫌だと言ったハルは、もう目を明けなくていい。
ブルースは、静かに顔を上げる。

「……クラーク」

緋色の暁光を背に、真紅のケープが翻る。
地球を恐怖と暴力で支配する、絶対君主。
影になったその顔の、両眼は溶解炉のような光を放ち、
ブルースは、ぬいぐるみのように抱えているハルの片手を持ち上げて、Hello.

「何だこの様は」

低く吐き捨てる言葉は、むしろ抑制を感じさせた。
その姿を見上げ、ブルースは、唖のような瞳。

「何故、貴様が、生きている」

さて、クラークの満足する答えはなんだろう。
考えてみるが、そこに意味などない。
突然彼は薙ぎ倒された。
極々軽く、頬を張られただけなのだが、砂に崩れたブルースは動けなかった。
耳の奥がわんわんと鳴る。

「トーマスが何と言おうと、貴様はただの、死にたがりのクズだ。
 阿呆め、出来損ないの弟などさっさと殺せと再三忠告してやったのに、自分が死んだ。
 貴様の兄は、愚か者だ」

大きな手がブルースの首を鷲掴みにする。
身体を軽々持ち上げられ、足が大地を離れる。
たちまち顔に血の色が浮かぶ。

「貴様等ウェインは、心底虫唾が走る」

喉に食い込む強靭な指は、地球人の気管など容易く握り潰し、頸椎を砕くだろう。
頭の中、クラークの声が冷たい雷鳴のように轟き、何も聞こえない。 何も見えない。
暗闇に四肢をだらりと垂れたブルースは、ただ笑っていた。
無性に笑いたかった。
何故かは自分にもわからず、もしかしたら、ついに彼は、気が触れたのかもしれない。
とすれば、これほど嬉しいこともない。
だから、このまま、殺してほしかった。
けれども、万力のような指は緩められ、彼は砂の上に落ちる。

「貴様のような塵が楽に死ねると思うな。 この茶番の償いはしてもらう」

ブルースは、まだ嗤っていた。
苦しげな吐息に肩を大きく震わせながら、声もなく、涙すら滲ませ。
クラークは嫌悪に顔を歪める。
双眸の真紅がぎらりと閃くが、

「……トーマスの代わりに、あれが完成させるはずだった計画を仕上げろ。
 上々の成果を挙げれば、その時は殺してやる」

ウェインが兄弟揃って毒虫だろうと、クラークにはどうでも良い。
用済みになれば踏み潰すだけの、所詮虫けら。
トーマスの弟は、まるで聞こえてないようで、ぼんやり砂を眺めるだけ。
その襟元を子猫のように摘み上げ、クリプトニアンは天空へ。
死体の二つ転がった砂浜は瞬く間に視界から消え失せ、天藍海藍。

「臓物を引き裂いて、家畜の餌にしてやろう」

その腕の中、ブルースは、花のように微笑んで、
眠たそうに欠伸した。






















+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(了)

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。



最後、なんでウルトラマンかというと、一応トーマスしか友達いないんで、
友達が死んだかどうかぐらい分かるんじゃね?ってことで。

弟さんは死にたがり、というか、あの時死んでいるはずだった、という思いは、全ブルース様に共通のものだといいです。
トーマスが完成させる予定だったもの、ってのは別の宇宙に行く方法で、FEみたいにこの後、普通の地球に行くかもしれない。
んでも多分弟さんはアース3に残りたいと言う。
めんどいから。 やる気ないから。
そこをまた襟首引っ掴まれて持ち運びされるんだと思います。
書かないけど。

最後の弟さんは、別に発狂してません。
理性が自分を救わないって知ってるから、発狂できたら幸せだなとは思ってるけど、それが不可能な人。
兄のことは運命共同体だと思っていて、兄やんだけが理解者だということも分かってた。
その兄が死んだので、本当にひとりっきりになっちゃった、と思いつつ、ぽっくり死なないかぎりのらりくらりと弟は生きていきます。
ハルのことは、人というより犬を可愛がるがごとく。
というか、ウェイン兄弟は自分達以外の人間は犬猫に思えてるといいです。
で、犬猫に興味ないですが兄で、弟の方は犬も猫もどっちも可愛いよ!派。

ハルは、こういう好き好き大好きな人を書くのが久し振りで、面白かったです。
最初の方でミジメとか酷いこと書いてんのは、そもそも原書を読んだ感想が、この人クズい……だからですよ。
今でも、こう、可哀想とか、まるで思わない。
むしろ、人間性のダメなところを愛でるべき。
まあ、良い人なんていませんアース3クライムシンジケート。
んでも、リングがハルを選んだ時の、全てを求めているのに何も手に入らない男、ってのはいいなあと思った。
求めても手の中には何も残らないと考えてるのが、私の中での通常のおハルさんです。
でも悟ってるわけでもなく、たまにぐぬぬとなる。 人間だもん。


ペイブ・ホークに恨みは無いです。
趣味独走な話をここまで読んでくださってありがとうございました!



ところで。
もう一回改めて書きましたアース3ウェイン兄弟。 こっちに置いてあります
主な変更点は兄です。 ブラコンの自覚のないブラコンに。 ハルはあんまり変わらない、たぶん。
一部を除いてほぼ書き直しましたー。 興味ある方はどぞ。




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