右と左をきょろきょろ、誰かいないか確かめ、もう一度カウチを見る。
帰る家は間違ってない。
うっかり別の家に入り込むほど、倒壊を免れた建物が多いわけでないし、
そもそもこの街に人間は住んでない。
皆死んだ。
なら、これも死体?
おっかなびっくり近寄って、顔を覗き込んでみると、
やっぱり眠っている。
いつから、どうして、どうやって、こんな場所にいるのか、
そんな疑問などちっとも知らないように、悠々。
伏せた両目の睫毛が長い。
端整な顔立ちに、服装も良いものだ。
こんな廃墟の街でなく、恵まれた、ずっと華やかな世界の住人だろう。
それが、何の間違いで?
でも、もしかしたら、リングのせいで幻覚を見るようになったのかもしれない。
右手を、ゆっくり伸ばす。
“彼”の肩に、ちょっとさわってみる。
指先が触れた瞬間、慌てて腕を引っ込めた。
けれど、消えたりしない。
目を何度もぱちぱちさせても、やっぱりそこにいる。
今度はそぅっと、手の平で頬をさわってみる。
生きている。
そのまま頭の方へ撫でると、優しい黒髪が指に気持ちよかった。
だから、“彼”がいつから目を明けていたのか、わからなかった。
「うわっ!」
尻もちついて後退りする。
顔から火が出たかと思うほど恥ずかしかった。
「ご、ごめ、」
舌がもつれて何度も同じ音で吃ってしまう。
けれど、“彼”は怒鳴ることもなければ、蔑みもしなかった。
その瞳は、今まで見たこともないような光をしていた。
深さのまるでわからない、澄んだ藍色が、夕陽を浴びていっぱいの星を浮かべている。
眼差しが、なにかとても静かで、人間というより、しなやかな獣のようだ。
その目蓋が、すーっと閉じる。
長い手足をカウチの中に丸め、眠ってしまう。
どうしよう。
右と左をきょろきょろ、やっぱり誰もいない。
心臓がバクバクして、顔から熱がひいていかない。
膝をついたままカウチへにじり寄り、眠る人の顔を覗き込んだ。
もう一度、さわってみたくて。
バカみたいにその人を見つめる。
さわりたい。
怒るだろうか。
きっと怒るだろう。
たぶん、こんな場所とは全く縁のない、上流階級の人間だ。
何かの間違いで、偶々目の前にいるだけで、迎えが来ればこちらなど見向きもせず、元の世界に帰るんだ。
けれど。
どうしてか、どうしても、ふれてみたくて。
拒絶されるのが怖くて、心細くて、この人が欲しい。
視界が真っ赤で、目が回る。
顔を上げていられず、床に手をついてへたり込んでしまった。
その頭に、ぽんと軽く、何か置かれる。
手だ。
こわごわ顔を上げたら、綺麗な藍色。
途端に舌がもつれて上手く喋れない。
全く言葉になってない自分の声が情けなく、もどかしく、
なのに、“彼”はまるで気にしないようで。
髪を、摘ままれる。
遊んでるみたいに指が動く。
なんだか、ぞくぞくした。
少し冷たい指先が、こめかみを伝いおりるのが気持ちいい。
眦を掠め、頬を撫でる。
今気づいた。
その左手には、中指が無い。
真新しい包帯が丁寧に巻かれている。
「痛い?」
声は、素直に出た。
唇を吊り上げるように“彼”は微笑った。
「痛いよ」
その瞬間、勃起した。
**
空が青かった。
寝ぼけた目でベッドから見上げる窓の向う、光が明るい。
カーテン開いてる?
妙だとは思ったが、ハルはぼんやりと、その青を眺めていた。
なんだか、とても良い夢を見ていた気がする。
何だろう。
考えながらふと首を傾けると、自分のすぐ鼻先に、彫刻のように整った寝顔がある。
その瞬間、ハルは驚いて飛び上がり、特別大きいわけでないベッドから案の定転げ落ちた。
全部、思い出す。
最初のキス、息をどうしたらいいか分からなくて窒息しかけ、なのにそのまま射精した。
両脚を開いて自分で後孔を解してくれる姿に我慢出来ず、まだ早いって言ってるのに押し込んだ挙句、
意識が飛ぶまで腰が勝手に動くのを止められなかった。
声や、吐息や、きつく噛みついた肌の味。
夢中で抱き締めて、骨までぐずぐずに蕩けてしまいたかった熱さ。
何もかも、鮮やかで。
慌てた時には股間のものが半分勃ってた。
真っ裸で、脱ぎ散らかした服は手の届かないところに投げてある。
隠しようがない。
きっと、今度こそ、呆れられる。 そう考えると両目の奥が熱くなる。
ベッドの上にいる人が身体を起こす気配がした。
ハルはどうにも出来ず、膝を両手で抱えて背中を丸めた。
顔を上げられなかった。
「ハル」
けれど、その声に名前を呼ばれると。
涙目のハルは少し顔を上げた。
そして、呼吸を止めた。
窓から差す明るい日差しを浴び、その人はベッドの上に座っていた。
艶やかな黒髪や、綺麗に筋肉のついた肩や腕、あぐらをかいた膝。
光は彼に注がれ、白く輝く。
ハルは、自分でもわからないうちにベッドに乗り上げていた。
彼は静かにハルを見る。
その片目に光が透け、青い水晶のように煌く。
頬に、手を伸ばそうとした。
さわりたかった。
けれど、ハルの痩せた右腕は、中指を起点に暗緑色の筋が幾本も走り、蔓に殺される病気の木のようだ。
光の中で見るそれはおぞましく、冷たい塊が喉奥に込み上げてくる。
息が出来ない。
と、思った時、その人が静かに動いた。
ハルの病んだ右手を、白い包帯の左手がとらえる。
そして、自分の頬へと導く。
ハルは震えていた。
リングに寄生されてから、内側に巣食う耐えがたい恐怖に苛まれ続けている。
それでも、ブルースの瞳は真っ直ぐハルに光を注ぐ。
暗夜に仰ぐ冬の月のように。
「ブルース」
ハルの声は掠れていた。
ほとんど聞き取れなかった。
けれど、震えてはいない。
重ねた唇は柔らかく、いつまでも切なく、絡める指と指に憂鬱はなく。
唇が離れても二人は額を合わせて笑っていた。
「バスルームに行こう」
その日から、ハルの世界は一変した。
誰かが傍にいてくれることが、とてつもなく嬉しい。
生まれて初めてそう思った。
晴れた日は、遠くの街に一緒に出かけ、美味しいものを食べたらぷらぷら歩く。
雨の日は、一日中ベッドの上。
バスタブにはブリキの金魚。
ブルースは、優しい。
ハルに罵声を浴びせない、すぐもたもたする背中を蹴ったりしない、冷笑もしない。
吃音だらけの言葉でもにこにこしながら聞いてくれ、発作的な不安に襲われれば抱きしめてくれる。
ハルはもう、出かける毎に鍵を掛ける習慣を忘れた。
自分の部屋以外にべったり残る血溜まりの跡を、一瞥もしない。
二人、手を繋いで散歩する瓦礫の下、数百万の屍が少しずつ砂になっていた。
気にも留めなかった。
幸せだった。
ブルースがそこにいて、微笑んで、Good boy. と褒めてくれる。
それだけで、暗く凝った胸に優しい火が灯る。
低く囁くような声が好きだ。
息が乱れて掠れた声も。
ハルはブルースに何も聞かない。
どこから来たのか。
どうしてここにいるのか。
知ろうとすれば、もしかしたら、彼はどこかにいってしまうかもしれない。
そんなことを考える真夜中、涙が滲んでくる。
ハルが悲しくなる時を、ブルースはいつも察してくれる。
ぎゅっと抱きしめて、慰めてくれる。
その身体に必死にしがみついた。
手を離してしまえば、暗闇に飲まれて溺れてしまうような気がした。
ブルースは、ずっと傍にいてくれた。
天使が目の前におりてきてくれたような、有頂天。
右手のリングの囁きには、聞こえない振りをした。
カレンダーも時計もない廃墟の街は、二人だけの気ままな世界。
ピザが食べたくなったらナポリに飛んで、めんどくさいと昨日のドーナツ。
眠くなったら昼寝する。
ブルースはカウチで本など読み、ハルはその膝でうとうと。
時々、ブルースの指がハルの髪をいじったり、顎の下を撫でたりする。
それが心地良くて眠ってしまう。
ある日、ハルはやっぱりカウチで昼寝していた。
目を覚ますとブルースはそこにいず、ベッドに寝そべって、知らないセルフォンで遊んでいる。
それは初めてのことで、近付いて、ちょっと画面を覗いてやろうとすると、
ブルースがくるっと身体の向きを変える。
ハルを見る眼差しが、悪戯っぽく笑う。
その身体の上に乗っかって、セルフォンにさわる真似をすれば、
先にブルースの手が伸びて、ハルの頭をわしゃわしゃする。
それから、優しく撫でた。
ブルースの左手はもう痛くない。
ハルが新しい“指”を作ったら、喜んでくれた。
「何してるの?」
「メール」
と、また画面に目を戻す。
ハルはブルースの用事が終わるのを待った。
上から眺めるブルースは、睫毛の影が繊細に揺れている。
その鼻筋に、キスしたい。
頬を両手で挟んで、目と目を交わして、それから唇を塞ぎたい。
隙間なく重ね合って、息がきれるまで縺れていたい。
けれど、ブルースは今、何を考えているんだろう。
「ずっと俺といてくれる?」
言った瞬間、後悔した。
聞いてはいけないことを聞いた気がした。
でも、どうしても。
ずっと傍にいてほしい。
ブルースは、何も言わずにセルフォンの電源を切り、部屋の隅にぽいっと投げた。
見つめる藍色の瞳は、深い静けさ。
そして、微笑する。
「お前は本当は、何も怖がらなくて良いんだ」
何故か、胸がざわめいた。
右手のリングがまた嫌なことをしているのかもしれない。
不安になってブルースに抱きついた。
「ハル」
柔らかな声が笑っていた。
ブルースの中に入ってしまいたかった。
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アース3のハル
イメージとして、虐待され続けた犬
ので、初めて優しい飼い主に巡り合い、しっぽブンブン状態
自分のことをひたすら可哀想に思ってるけど、実際他人をどんだけ殺そうがどうでもいい
愛されたことがないの
その反動のしっぽブンブン
ハルと弟さんは、身長同じくらい。 でも猫背なので弟さんの方が高く見える。 あと、体重も弟さんの方が。
つか、ハルは貧相。 吹けば飛ぶよ。
いつもブルースの腰にしがみついてる。 今がようやく遅い幼児期。 視界から弟さんが消えると泣くよ。
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