「下らんな」


死人のように土気色の顔をしているトーマスに向かって、クラークは冷淡に言い放つ。
そして、にやりと笑った。

「愛玩動物に余計な情をかけ、首輪を緩めているからこうなる」
「……私は弟を繋いだりしない」
「ほう?」

弟が行方不明になった時、トーマスは月にいた。
ウェイン邸に奇妙な小包が届けられて2時間後、彼はゴッサムに戻った。
そして、コンピュータの前から動かない。

「親族の指を切り落として送り付ける。 お前もやったことがあるな。
 惰弱な人間はその程度の脅迫に耐えられない。
 生きているかもしれない残りの肉体を返してもらおうと、要求に諾々と従う。
 あの愚鈍な連中と同じ目に遭うのは、結局は、お前の不始末だ。
 弟だからといって性根がクズ以下の阿呆を甘やかしているから、足元を掬われる」

しかし、クラークの嘲弄に顔を上げたトーマスは、期待したほど、憤ってはいない。
沼のように濁った目で彼を一瞥し、唇の端で嘲う。

「お前の正義は単純過ぎる」

凡そ感情というものの欠落した声だった。
トーマスの前には、小さな箱が置いてある。
それを指差し、

「視てみろ」

箱は冷温保存用のものだ。
中身が何であるか見当はついたが、トーマスの言うようにクラークはX線を使う。
やはり、指だ。
基節骨で切断された第三指のDNAは、暗愚の弟と一致する。
だが、クラークは顔を顰めた。

「あれが18の頃、左手を潰した。 手術して破砕した骨を一つずつ接いだのは私だ。
 そのついでに、発信機を中に入れた。 でないと、ブルースはすぐに迷子になってしまうから」

弟の指を納めた小箱を、兄は、いとおしげに撫でる。

「左の手のどこにそれがあるのか、私を除けば、知っているのは一人しかいない」

その時、コンピュータのモニターが画面を切り替えた。
監視カメラの画像だろう。
灰色の、人気のない地下鉄のホームに、男が立っている。
時刻は今から20時間前。
静止していた画面が動き出す。
トーマスは憂鬱な溜息。

「弟は、家出した」

画面の中、男は何気なくカメラの方に顔を向ける。
そして、花が綻ぶように、にっこり微笑んだ。
“トミー”、唇が動く。
さよならを言うように持ち上げた左手は、白い包帯に覆われていた。

「貴様等ウェインは兄も弟も、毒虫だな」


弟は線路に降り、闇の中へと歩いて消えた。




















*



彼は別に、どこに行こうとしているわけでない。
自分が今どこに佇んでいるのかも、あまり考えてない。
ただ、人間の世界のどんな場所にカメラが仕掛けられているのか、彼は知っていたので、
その死角を選んで歩いていた。

カメラの向うには兄がいる。
彼が生まれ落ちたその日から、彼を愛し、慈しみ、決して籠から出そうとしなかった兄がいる。
どうしようもない兄だが、嫌ってはいない。
けれど、あの子を殺したことは、許さない。

ちちち。
舌先を軽く打ち鳴らす。
あの子はそうやって、野良猫を呼んでいた。

兄は、彼が家から出ることを嫌う。
彼が街に行く時には必ず誰かを付けさせる。
しかし、彼は良く監視役の目を掻い潜った。
“外”の世界は危険だ。
兄はいつもそう言い含めるが、彼は“外”を怖いとは思わない。
たとえば、ぎらりとするナイフや銃口を向けられて、股を開けと脅されても、逆らう気など最初からないし、
大人しく身体を撫で回されていれば、泣き叫ぶほど痛い思いをすることもない。
“外”は野蛮で、貪欲で、残酷だ。
そう繰り返す兄ほど賢くもなければ、残忍でもない人間達を、どうして彼が怖がるだろう。
兄と比較すれば、彼等はあまりに無防備で。
皆、酸欠の魚のように、必死の形相で呼吸している。
哀れみこそすれ、傷付けようとは思わない。
股ぐらい笑って開いてやる。

そんな彼を、兄は叱る。
そして、大事にしているオモチャを壊す。
耐えがたい、と思わせるのは、いつもトーマスだ。

切り落とした指を、家に送ったのは、特に意味はない。
兄が喜ぶと思ったのかもしれない。
ある日、兄は斧を持ってきて、彼の左手を滅茶滅茶に叩き潰した。
それを治療したのも兄だが、膨れ上がった血塗れの自分の左手に恐怖した彼が、懇願しなければ、
兄は、放っておいただろう。
六年経ち、彼の左手は動いている。
けれど、中指が。
ピアノもヴァイオリンも、音色が変わった。
そんなことはないよと兄は慰めるけれど。
弾く気が失せた。

あの指を切り落としたのは、清々した気もするし、
薬を飲んでも痛むので、後悔しているような気もする。
ジャックが出来ないと言うから、キッチンで自分でやった。
まあまあ上手くいった。

抗生物質と鎮痛剤、偽造IDに飛行機のチケット、現金とカード。
全部ジャックが用意した。
復讐さ、と格好つけて笑ったジャック。
でも、飛行機を使えば兄はすぐに察し、弟に手を貸した人間を見つけ出して、八つ裂きにするだろう。
クライムシンジケートが人類を支配して以来、機能している都市は半数まで減った。
都市間の交通は厳しく監視されている。

「それなら、一足お先に地獄に行って、おまえら兄弟を待っててやるよ。
 あっちの方が居心地良いって話だろ?
 おまえは好きにすればいいのさ、ブルーシー」

けれど、彼はどこへ行けばいいのだろう。
いや、彼はどこかへ行きたいのだろうか。
何が、したいのか。

口を開けば、甘い蜜を口移しに含ませるような兄に育てられ、彼は頭の中まで砂糖漬けの“王子様”。
どこへ行きたいもなく、何を欲しがった記憶もなく。
そんな彼が、兄の手を離れ、生きていけるはずがない。
それでも彼は逃げた。




風に流されるように紛れ込んだ、二つ目の街。
カフェでぼんやりしていたブルースは、通りすがりのスピードスターにナンパされた。
彼はジョニーを見上げ、艶然と囁く。

「誰もいないところに行きたい」











**



ハルはもう随分長い間、家に帰ってない。
ずっとプロフェッサーのラボで、奇形の動物達に囲まれていた。
ハルは特殊な症例の病人。
プロフェッサーは世界で最も優秀な理論生物学者、そして、生ける屍。

「リングと右手は完全に癒着している。
 皮膚下に浸食したリングの“根”は血管に沿って広がり、骨まで達する。
 “根”には指向性があり、現在その先端は右上腕。 間もなく肩に至る。
 進行速度は不定。 しかし、リングを使用した場合、活発に領域を拡大する。
 リングは一種の寄生者であり、宿主の細胞を食って“根”は成長している」

死にかけの宇宙人から“リング”を受け取って以来、ハルは呪われている。

「Dr.ウェインの見解は? 外科医らしく、リングを不活性にした上での右腕切断。
 寄生者は自律的に次の宿主を探すと考えられる。
 が、お前は腕を失うのは嫌だと言う。
 私の見解は? 元素転換による“根”の消滅は可能だろう。
 しかし、そのリングについては、別次元の問題だ。
 解明されねばならないことの依然多い現時点での干渉は、不測の事態を引き起こし兼ねない。
 それは、我々双方にとって不利益だろう?
 “幸い”、寄生者は既に宿主の身体の一部として機能している。
 もう暫く観察を続けよう」

“根”が脳に到達する時が楽しみだ。
と、喜悦を隠しもしない髑髏が恐ろしく、彼はラボを抜け出した。
プロフェッサーの不在中うっかりラボを半壊させ、見つかる前に逃げ出した、というのもある。

彼は意気地のない人間だった。
臆病で、卑屈で、この世界のあらゆるものが恐ろしく、
“リング”を右手に得たその日、自分の住んでいた街を壊滅させた。
得体の知れない何かが自分を内側から貪り食らう苦痛と恐怖に、彼は正気を失い、六百万人超を一日で殺した。
彼がクライムシンジケートに属しているのは、人類のためでもある。
“怪物達”でなければ、リングを暴走させた彼を抑え込むことは出来ない。
しかし、彼は依然として、意気地のない男だった。

ハルが子供の頃、父親が目の前で死んだ。
彼が最も尊敬した存在は、天空を翔ける銀翼と共に、大空から墜落して爆炎に飲まれた。
以来、彼は“死”を恐怖する。
人間が決して逃れ得ぬ運命をひたすら恐怖している。
呼吸の一度、鼓動の一回、あるいは、瞬き毎に見る世界、他人の声。
全てに追い詰められる動物は、愚鈍であるしかない。
彼の人生は、リングに出会う前からみじめだった。
だから、リングは彼を選んだのかもしれない。


彼が帰るのは、彼が壊滅させたコーストシティ。
世界から見捨てられた廃墟の街の、瓦礫に囲まれたアパートが彼の家。
彼は、一人きり。
部屋に閉じ籠り、膝を抱えて目をつむり、外の世界が全て死に絶えるのを、耳を塞いで待つ。
けれど、それでもハルは、苦しい。
寂しい。
胸を裂かれていくように、“何か”が欲しかった。
怯えきった精神の底、暗い焦燥が動けない彼を悩ませる。
リングの囁く声が頭の中で反響し、酷い頭痛が治まらない。
彼は疲れていた。
そして、行く場所もなく、家に帰る。
惨めだった。




海へと傾いていく夕陽は、赤い。
地球へ届く太陽光が波長を偏移されるようになってから、朝夕、血の滴るような朱色が瓦礫の街を染める。
網膜に焼き付く色彩に、彼は閉口する。
破裂した肉塊の色だ。
アパートの階段を蹌踉と上がり、一つだけ扉の閉じている奥の部屋へ。
他の部屋の住人達は全て消え失せ、乾いた血の跡だけが残る。
それらを目にしないように自分の部屋へ急ぎ、鍵を取り出す。
無人の街に住んでいながら、彼はドアを施錠する。
しかし、鍵を回そうとして、妙だった。
鍵があいている。
部屋に戻るのは大分久し振りのことで、出掛ける時に鍵を確認したのか記憶は曖昧だが。
彼は恐る恐るドアノブを掴み、扉を開けた。
赤い。
燃え盛る火のような夕陽が窓から中へ差し込んでいる。
背筋がぞっとし、立ち竦んだ。
彼はいつも、窓のカーテンを閉めている。

誰かが、部屋の中に、入った。
もしかしたら、まだ中に、いる。

そう考えるハルの右腕が軋み出す。
皮膚の下で気持ちの悪い何かが蠕動する。
殺さなきゃ。
殺さなきゃ。
殺さなきゃ、殺される。
心臓が喚き立てパンクしそうだ。
今、視界に動く影があれば、瞬時にその四肢を引き千切ってしまうか、
くるりと踵を返して彼は逃げ出すだろう。
突っ立ったままの両足が、ガタガタ震えている。
首を伸ばし、そっと見回す。
キッチンには何もいない。
リビング。
彼は廊下の壁に手をつきながら、なんとかそちらに足を向ける。

「ひっ!」

カウチに何かいるのを見た瞬間、ハルは驚きのあまり卒倒しそうになった。
しかし、“それ”を叩き壊すこともなければ、そこから逃げ出すこともない。
彼はただ棒立ちで、それを眺めた。
見知らぬ青年がカウチで丸くなり、とても静かに、眠っている。













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ジャック→ジャック・ネイピア
ジョニー→ジョニー・クイック
プロフェッサー→デスストーム(スタイン)

弟さんは兄やんが把握する以上にビッチ、いや交友関係が不思議だと良いです。

JL #33が出る前に書いた話なんで、パワーリング(本体)の描写が違います。
コーストシティ云々も原書にないです捏造だよ。
太陽光の波長、は、ウルトラマンは日光が苦手なの。
だから、仕方ないなあってトーマスがどうにか工夫してくれたら良いね。






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