追う者と追われる者、暗い螺旋階段を。
逃げ場など無いと知りながら、駆け上がる。
火花、闇に瞬いては散華。
しかし、銃弾はただ煉瓦の壁にめり込み、あるいは弾かれた。
やがて二人、天を仰ぐ塔の上。
時の中に打ち捨てられ、今まさに崩れ落ちようとする廃墟を。
崖下に寄せ来る潮騒が包みこむ。

「……子供達は全員無事に救出された」

夜闇の中、怪物は静かに口を開いた。
その姿は深淵より現れ来たる暗い影。
太古、原初の人類は “それ” に恐怖した。
文字を持たない彼等は、その強烈な感情を自らの心臓に刻み付け、
血脈の中を受け継がれた恐怖は、今も人々の記憶の底に息づく。
しかし。
仮面の下の声は、凪いでいた。

「君のおかげだ、ハーヴィー」

宙へと弾かれる銀貨。
西の月は暗く、裏と表は入れ替わり続ける。
使えねェ。
しゃがれ声が呟いて、弾倉の空になった拳銃を腕から落とした。
暗黒の海原を背にし、トゥーフェイスは悠々と塔の縁に腰を下ろす。
かつてゴッサムの法廷で正義を叫んでいた男の精神は、
検事として彼が刑務所に送り込んだ罪人達以上に、病んでおり、
コインが裏である限り、暴虐のための暴虐を止めることはない。
けれど今、二人静かに夜の中。
濁りのない瞳で、ハーヴィー・デントは旧友を見詰めている。
そして、その手が自分へと差し出されるのを。

「私と一緒に帰ろう」

きん、と音を立て宙に舞う銀貨。
やがて手の中、気まぐれな託宣を下す。
……すまない。
掠れた吐息は、たった一言。
焼け爛れていない片面に、哀切を浮かべ
同時に引き抜かれた、二挺目の拳銃。
立て続けに闇へと銃弾を吐き出した。















* * * *






拘束したトゥーフェイスをゴッサム市警に任せると、バットマンはまた夜闇の中に消えた。
その影は瞬く間に2ブロック先に聳えるネオ・ゴシック建築のビルの屋上へ。
頂点から滑空し、奈落の夜を音もなく裂いていく。


トゥーフェイスの銃弾は、バットマンに毛筋ほどの傷も与えなかった。
拳銃を二挺持っていることは、知っていた。
コイン次第でその銃口が真っ直ぐに自分の頭を狙うことも、予想していた。
結果として。
トゥーフェイスはアーカムに戻される。
彼が偶然交差させた二つの事件は、解決した。
バスごと行方不明になっていた園児達も、全員保護された。
今頃は親の腕の中に帰されただろう。

けれど、ブルースは独り、闇夜を彷徨う。
孤空を羽が流されるように。


彼は、ハーヴィー・デントという人間を知っている。
そして、トゥーフェイスという犯罪者を。
二つの人格は、その振る舞いや話し方だけでなく、
僅かな動作や体重移動の仕方にも、それぞれ個別の特徴を有している。
だから、ブルースには確信がある。
あの時、塔の上で彼と言葉を交わしたのは、ハーヴィーだった。
そして銃口をブルースに向け、あるだけの弾丸を吐き出した。
すまないと、寂しそうな目をしながら。

その裁決を下したのは、
片面の傷付いた一枚のコイン。

“表”か“裏”か。
トゥーフェイスは、どちらでも構わないのだろう。
世界のあらゆる生死衰滅が、たかが銀貨一枚によってでたらめに裁かれる。
その理不尽さこそ、求めているのだから。
だが、ハーヴィーは違う。

ハーヴィー・デントは、聡明な男だった。
そして、この世界には守るべきものが存在することを、理解していた。
今もそれは変わらないと、ブルースは信じている。
けれど、彼の友人は、彼の気付かぬうちに。
あるいは、気付かぬ振りをしているうちに。
内側から少しずつ、磨り潰されていった。
決定的な一撃によって顔面を破壊された時、ハーヴィーは、心の平衡を、諦めた。
小さなコインに、その全てを、託してしまった。


事件は、解決される。
謎は、謎として現出した瞬間、解かれる運命にある。
バットマンは、己の罪から逃れようとする者達を暗闇から引き摺り出し、
法の裁きを受けさせることが出来る。

けれども、同じ暗闇の中。
ブルースの臓腑は、炎に炙られている。

病み疲れた友の行く末を愁いているのか。
そうではなく、かつての同志と一枚の銀貨、そしてゴッサムという街全て、
僅かな隙を見つけては執拗に蔓延る不条理への、憤懣なのか。
ただ遣る瀬無く、
胸の底、暗い澱が蟠る。
今夜はロビンがいない。
あの奔放な生命力の塊が、暗夜にどれほど輝いて見えるか。
翻って、友を救えない己を、つくづくと思い知る。


それら一切、切り払うように。
盲目の獣が、炎の断崖を突き進むように。
漆黒の影は、闇夜を駆ける。



だが、都市の描き出す深い峡谷を飛び越えていく途中、
怪物の仮面の下、ブルースは眉を顰めた。
月が。
否、月をその尖塔の一つに宿す、南北戦争時代の聖堂の影。
肩を寄せ合うように古びたアパートが並んでいる。
それらは、元は労働者のための公営住宅だった。

何故、こちらの方角を選んだのか。

ブルースは一瞬、通り過ぎることを考えた。
そのアパートが何であるか、気付かなかったことにしようと。
だが、彼の影は。
聖堂の側柱を飾るガーゴイルに、静かに舞い降りた。

彼は、常と同じく、街に新たな凶事が起こりはしないか、視ていただけだ。
どういった経路を選択するかは、状況と彼の経験的判断による。
ハルのことなど、忘れていた。 考えもしなかった。
しかし。
現実として、彼は。
ハルに伝えたアパートを、目の前にしている。

(私は何故ここにいる。)

微かな疑念が。
そして逡巡が。
ブルースの玻璃のような思考世界に揺れた。
その瞬間、彼は己の困惑に、冷然とした敵意を抱いた。
何故なら、彼は平静であるからだ。

無人の往来を見下ろすガーゴイルの、後ろに潜む黒い影は、
数瞬後、いつか彼が身を隠したあの部屋のベランダに、音もなく降り立つ。
夜更けを過ぎ、辺りは静まり返っていた。

証明を、しなければならない。
彼の思考世界を貫通するものは、彼の意志であると。
その水平を狂わすものなど、存在しないということを。

ガラス戸は滑らかに開いた。
彼は、魔物の森に赴く騎士のように毅然として、
灯りのない部屋に足を踏み入れる。

漠々とした夜闇に包まれていても、さして広くはない空間なのだ。
闇に慣れた目には、様子を知るのにセンサーは必要ない。
テーブルと。
上に転がったビールの空き缶。
そこに突っ伏すように、ハルは眠っている。

それを目にした時、ブルースは僅かに瞳を見開いた。
瞬きの間に脊髄を駆け上がった、ある透明な戦慄。

「……ん、 ん?」

気配を感じたのか、ハルが目を覚ます。
そして、闇の中から自分を射貫く、白い、無機質な両眼を見つけると、
小さな笑みを浮かべた。

「遅ェよ」

ブルースは何も答えなかった。
代わりに、怪物の仮面を脱ぎ、背からケープを落とす。
それは微かに空気を揺らし、夜闇の底と一つになった。

「まぁた難しい顔してる……」

黙り込んだまま、ブルースは奥歯を噛み締める。
彼ほど夜目が利かないくせに適当なことを言って、
それが真実のように響くから。
ハルは嫌いだ。

左のグローブを捨て、右も外そうとしたところで
ハルの手が、ブルースに触れた。
手探りで彼を抱きすくめるハルの、その確かな実存と
両腕の中に包まれる温みを感じながら、
ブルースは闇と目配せする。

物憂い、人恋しい一夜。
慰めてくれる誰かにありついた。
そして夜が明ける前に、全ては泡沫のように消え去る。

ただそれだけのこと。




慰撫するような唇が
うなじにふれる優しさ
ぞわぞわと
胸骨の内側、ざわめいて
まるで、酷く壊れやすい何か
そこに抱えているような
奇妙な不安が、ふと







己が何をしたいかなど、彼は見当もつかない。









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ガラスの靴はシンデレラ。
焼けた鉄の靴の白雪姫。
と来れば。
泡と消えるは人魚姫。
いっそ王子をぶっすりとだな。





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