雰囲気ある、と思った。
一つの島全体が、堅牢な壁でぐるりと囲まれ、方々でサーチライトが回る。
それは、中心街の夜景を上から見た、煌くような眩いライトアップとは、まるで異質の放射だ。
ゴッサムシティには、数回だけ来たことがある。
けれど、アーカムアサイラムは初めてだ。
その、夜闇にそびえる異様な影の正面に、カイルは降り立った。
雨は、鉄錆の臭いがした。
門の前に物々しく詰め掛けたパトカーの数と比べると、
悪名高い精神病院の内側は、評判よりもずっと
普通だった。
ロビーは吹き抜けで、中央は手入れの良い屋内庭園になっている。
病院らしく、床も壁も明るく清潔だ。
ただ、誰もいない。
外の様子からすると、何かあったはずだが。
受付を覗いてみても、やはり人の気配はない。
時計は、9時を少し過ぎていた。
とりあえず、奥に進んでみようとすると、
「まあ!」
左側の通路から、五十代ぐらいの看護師が小走りに現れた。
彼女はカイルの姿に一旦立ち止まると、そこからまじまじと彼を眺めて、
「あなた、グリーンランタンね!」
ゴッサムでの看護師歴30年というミセス・ベイカー曰く、
この街の人間は皆、グリーンランタンが好きらしい。
が、カイルはダークナイトから優しい言葉はおろか、人間らしい台詞を聞いた覚えも殆ど無い。
丸顔のミセス・ベイカーは、皮肉など全く知らないように語る。
「そうなのよォ、夕食の時間になって分かったの。
私達もね、病棟を探したんだけど、やっぱりどこにもいないのよ。
もちろん、規則どおりすぐに警察に連絡したわ。 それでこの騒ぎ。
……あなた、とっても可愛い子ねェ。 あら、気を悪くしないで。
私も子供がいるものだから、つい ね?」
つい何なのかは聞かず、カイルは礼を言った。
彼女の話をまとめると、
精神汚染物質最終廃棄所こと、アーカムアサイラムの収容者が一人、姿を消したらしい。
通報を受けた警察も病院の敷地内を捜索しているが、まだ見つかっていない。
収容者の首にあるはずの追跡装置は機能しておらず、
警察は、島の外に出た可能性も調べているという。
「そうそう、バットマンだけれど、……さぁ、私は分からないわ」
仕事の途中だからと、ミセス・ベイカーは右の廊下を小走りに去っていった。
しかし、角を曲がる前に振り返ると、
「厨房にケーキがあるから!」
カイルは、曖昧な笑みで礼を言いながら、
明日から暫くヒゲを剃らないでおこうかと思った。
ミセス・ベイカーがいなくなると、カイルはまた一人になった。
辺りは、しんと静まり返っている。
ロビーの照明は皓々としているが、その先に見える廊下やエレベーターホールは、
灯りを押し包むように、闇が凝っている。
人の動く気配は、まるで感じられない。
どこかに警備や職員はいるだろうし、警察も来ているはずだが。
それとも、院内の調査は既に終わったのだろうか。
ミセス・ベイカーは分からないと言ったが、バットマンは必ずここに来ただろう。
彼のことだ。 証拠の一つでも既に掴んでいるかもしれない。
カイルは、誰もいない闇の向こうに、目をやった。
明かりを背にして眺めるそれは、暗い。
その暗さ、か。
首の後ろ、皮膚の下が、ぞくぞくと
あるいは、記憶の底を蠢く影のように、何かが。
遠い黄昏の彼方から、聞こえ
思い出す。
いつか、手を引かれて遊びに行った、遊園地
サーカスが町に来ていた
あのメロディーが聞こえていた
コットンキャンディーと、ピエロにもらった赤い風船
天幕の裏、踊る奇形の影達の、薄気味悪いノスタルジア
扉を潜った、お化け屋敷の奥には
ハ、と鼻先で軽く笑って、カイルは闇の中へ踏み出した。
ロビーから三つほど階層を上がると、
アーカムアサイラムは、収容施設の様相を明らかにし始める。
窓のない廊下は暗く、まるで地下道のようだ。
その片側に、ガラス張りの"病室"が並んでいる。
建物の全体構造は、先程リングにスキャンさせた。
今いるのは中央にそびえ立つ塔。 収容者達の病棟だ。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃーん! どうしたんだい? こんな夜中に」
「ありゃぁ迷子さ。 パパとはぐれたんだ」
「お嬢チャン? 誰か今お嬢チャンと言ったかな?」
「さあ、ナゾナゾをしよう!」
「黙れよ病人共。 消灯の時間だ」
病室は、空になっているものもあれば、患者のいるものもある。
けれど、それぞれに名前が付いていた。
空の病室は、住人が旅行中ということだろうか。
カイルは、真夜中の博物館を探検するように、
五月蝿くお喋りする剥製達のケースを覗きながら。
上を目指す。
バットマンは、いるかもしれない。 もういないかもしれない。
逃げた収容者は、どこに消えたのだろう。
カイルは、階段を上へと登る。
リングのスキャンによれば、まだ上に生体反応がある。
塔の一番上まで行ったら、
ウォーリーに、アーカムなんて大したことなかった、と言おう。
九十九折の暗闇を
ただ上へ、上へと歩いて
辿り着いた場所は
その階まで来た時、カイルは 違うと感じた。
濁ったような暗闇だ。
灰色の床や壁、漂う空気にまで、厚い埃と共に "時間"が堆積している。
ここは、打ち捨てられた廃墟そのものだ。
その廊下に、ぽつり、ぽつりと、灯りが小さく点っているのは、何のためだろう。
暗がりの先を見ても、何の姿もない。
影のように漂う荒廃の気配は、ひんやりとしてカビ臭く、何か強い薬品の臭いが染み付いている。
かつては "病室"だったのだろう。
錆びた鉄のドアが廊下に並んでいる。
それぞれの小さな窓には、頑丈な鉄格子があり、
中は、完全な暗黒だ。
その一つを覗いて、「誰かいる?」と尋ねてみる気は起こらなかった。
ここは、下の階とは全く違う。
何か忌々しいものを予感させる。
この建物自体、本当は
元々この場所に存在した、陰惨な "何か"を
鉄骨とコンクリートで塗り固めただけじゃないのか
脈絡もない想像は、暗い沼地に一人で足を踏み入れるように、底知れず。
冷たい暗闇の中、カイルは引き込まれるように、奥へ向かう。
やがて、突き当たりの扉。
「おじょーちゃんっ!」
鉄格子の隙間から、赤い水玉のピエロが手招きした。
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ゴッサムの人間はグリーンランタンが好き、というのはアラン・スコットのことを指しますよ。
ミセス・ベイカーは特に誰ということでもないのですが、一応病院なんで、警備以外の職員もいるよねという。
あ、カイル君を知らない人のために念のため申しますと、お嬢ちゃんではありません。
二十歳そこそこの青年だと思ってください。 そしてかわうい。
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