10.アクアリウムの底で
ふ と、涼しい風が頬を撫で、
籐椅子のブルースは、目を覚ました。
身体を起こすと、読みかけの本が胸から落ちる。
いつのまにか眠っていたらしい。
規則的に繰り返す波の音が、静かに漂っている。
手近な所に時計がなく、隣の部屋に行った。
迎えの時刻まで、あと一時間ほどだった。
ブルースは、音にせずあくびして。
シャツのボタンを外しながら浴室のある方に向かう。
途中、海を一望するバルコニーに続く部屋で、ハルが昼寝していた。
その寝顔を暫く観察したが、起きる気配はない。
ブルースは、またすたすたと歩き出した。
残りを全部脱ぎ捨てながら、段差につまずくようなこともない。
慣れているのだ。
浴室の鏡に映るブルースの顔は、少し日焼けしていた。
首から下も同様に。
降って湧いた "夏の休日"は、半ば交換条件のようなもので、
海辺の保養地として知られるこの場所を選んだのも、ブルースではない。
特に希望はないので、"彼等"に任せた。
というより、既に決められていた。
彼等が、いったい何を期待したのかは分からない。
が、ここは青い海の美しい、南洋の島。
白昼堂々と現金輸送車が襲われることもなく、
連続猟奇殺人事件もそう起こりそうにない。
そんな場所で、いったい、どう過ごせば良いものか。
ブルースは少し 困る。
趣味といえる趣味もない。
もしも一人きりだったなら、本ばかり読んで一歩も外に出なかったか、
早々に飽きてゴッサムに帰っただろうことは、容易に想像出来る。
楽園に縁の無い人間だとつくづく思う。
結局は、だらだらと。
溜まっていた本でも読むか、近くを散策するか、セックスするか。
無為に日は流れる。
ハルのことは、二日目の朝にブルースが呼んだ。
碌に話も聞かずホイホイやって来たあたり、相当暇だったのだろう。
ハルとそういう間柄であることを、ブルースは誰にも言ってない。
ハルも同じだろう。
取り立てて、どうということもない関係なのだ、お互いに。
偶々、そうなっただけのことでしかない。
ブルースは手早くシャワーを済ませると、着替えの中から黒のスーツを適当に見繕う。
それからシャツとネクタイを。
一人での身支度は、母国に戻っているアルフレッドのことを考えさせる。
古い友人達に会うと言っていた。
のんびりと過ごしていれば良いと思う。
普段、彼にどれだけ苦労を掛けているか、認識しているつもりはある。
ゴッサムは、今どうなっているだろう。
何か大きな事件が発生したら、即刻帰ると言ってあるが、まだ一度も連絡がない。
あれがどんな街かは、良く理解している。
どれだけ遠く離れたとしても、その存在は常に意識の一部にある。
けれども、ゴッサムにいる彼等から緊急通信は入らない。
ニュースでも大したことは報道していない。
あるのは "日常的な"事件だけだ。
ジェイソンは、彼が無茶をしないようバーバラが見ている。
それに、ディックのことを兄弟のように信頼している。
ディックは、煩わしい人間がいなくて清々しているだろう。
ネクタイを結び終えて腕時計を見ると、迎えの来る時刻が近づいていた。
ブルースは部屋を後にし、玄関の方に向かう。
途中に、あのバルコニーの部屋があった。
ハルは、ソファに横になって良く眠っていた。
ブルースが正面に立っても、起きる様子はない。
潮の遠鳴りは、静けさの底、微睡みのように。
「ハル」
目を覚まさないことは、分かっている。
ブルースの視線は、ハルの右手に。
そこにある、澄んだ翠光のリング。
ハルは、クラークと同じだ。
その小さなリングは、ブルースの持つ全てを合わせたよりも、遥かに超越した価値が有る。
神の領域だ、その力は。
ブルースは、ハルに対する認識が、まずそこを起点にしていると自覚している。
だからこそ、結果を考えて行動しないハルの無謀さには、他の人間以上に腹が立つ。
自嘲すれば、それは持たざる者の妬みだろう。
しかし。
仮に、リングがブルースを選び、神の如き万能の力を与えたとして、
果たしてより良い結果をもたらすのか、ブルースには分からない。
一つ、理解し始めていることがある。
もしも、そのリングが自分のものだったなら。
ブルースはいつか、己の正義のために、宇宙のあらゆるものを、根源から変革しようとするだろう。
たとえ、どんな結末になったとしても。
それは、人の枠を外れた、二度と引き返すことの出来ない道だ。
リングは、ハルを選んだ。
それで良かったのだとブルースは思う。
ハルは、ブルースとは違う。
ハルは
何故ここにいるのだろう。
ふと、ブルースはそんなことを考えた。
ハルを呼んだのは、たしかに自分なのだが。
しかし、ブルースはすぐにそれ以上考えることを止めた。
取り留めもない思考なのだ。
それに、苦手だ。
他者と自己との関係性について考察することが、とても。
人間の情動は、生き生きとした不条理に満ちている。
ハルならきっと、恐ろしく簡潔に答えるのだろうが。
ブルースは、徐に右手を上げ、
軽く振り下ろして、ハルの頬を叩いた。
「んあっ!?」
跳ね起きたハルの様子に、ブルースは少し、すっとした。
「目が覚めたな」
「おまえ今、ぶったか?」
「夢を見たんだろう」
「あれ、どーしたその格好。 良い男に見える」
「今に始まったことではないな」
「うわ生意気なコト言った。 さてはオマエ、
せっかく遊びに来てる友達をほっといて、高級なメシを食いに行くつもりだな!」
「ジョーダン氏は高級なメシがお嫌いだったと記憶しているが」
「嫌いじゃない、好きになれないだけだ。 つかオマエ、やっぱり殴ったろ」
「良く寝ていた」
「だったら殴んなよッ 普通に起こせるだろ!」
そんなことを言い合う内、繰り返す潮鳴りに別の音が重なり、だんだん大きくなる。
ヘリコプターだ。
「時間だ」
一言、ブルースはハルに背を向け歩き出す。
一旦は座り直したハルは、不貞腐れたようにソファにどさりと身体を落とした。
「帰ってきた時、あのコニャックが残ってると思うなよ」
「それは困るな」
「だっておまえ、」
肩越しに振り返る眼差しは
華やかに、傲慢に。
「私はこれから仕事だ。 少々無視するわけにもいかない相手に呼ばれている。
だが、その後のパーティーは、面倒なので回避する。
そうしたら、こちらに戻って高級でないメシでも食べに行こうと思ったが、
おまえが正体もなく酔い潰れているのなら、止めにしようか」
その言葉に、ハルは両目をくるんとぱちぱちさせた。
それから、わざと眉根を寄せ、難しい顔をする。
「8時までしか待たないから」
ブルースは、唇が自然と微笑するのを感じた。
淡いそれが何であるか、分かりたくはなかった。
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人情の機微を察する気のない大富豪。
それでいいのか名探偵。
とりあえず息子さん達についても甚だしく誤解してると良い。
オフロに着く前に歩きながら脱いでるのは、単にめんどくさがり。 お子さん達が傍にいないともう全開めんどくさい。
だいたいバスルームにたどり着いた段階でパンツと靴下のみ。
脱ぎ散らかしたものを自分で片づけるという習慣はない。
ところで、EMERALD TWILIGHTは起きます。 もちろん。
11.青空の下、砂浜を颯爽と。
「馬なんか拾ってくるんじゃありません」
「拾ったんじゃない。 ついてきたんだ」
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海辺に馬がいたっていいじゃない。
ちなみに、乗馬は趣味でなく能力。
12.黒ヤギさんたら読まずに食べた。
人の話を聞いてないようで聞いていてでもやっぱり聞いてないよな。
観察の結果、ハルがそう指摘すると。
ブルースは、いや聞いていると、そちらの方を見ようともせず、
今度はああとかうんとかテキトーな相槌を打つ。
つまり、聞いてないのだ。
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「―― 、だろ? ブルース」
「ああ」
「そうか」
その声が、なにか妙に機嫌良く聞こえたような気がして、
籐椅子のブルースは、本からようやく視線を上げた。
そこに立っていたのは、ハル。
にーっと笑い、指先で自転させるオウム貝の鮮やかな紅縞。
「……ハル、私に今、何を言わせた?」
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言質を取りました。
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