あまり良く晴れたので、今日は午前と午後で、三度も洗濯をした。
悄然と"地下"に籠もっていた主も出かけたらしい。
ゴッサムに蝙蝠が飛ぶには早い時刻だ。
彼と遭遇する者は、白日の悪夢に思えることだろう。
ウェイン邸の留守を預かるアルフレッドは、読みかけの推理小説のページを繰る。
しかし、行を進めながら、ふとした折に浮かんでくるのは、今日の出来事だ。
全く、ジェイソンにはいつも驚かされる。
"あの"ブルースが、まるで尋常な父親のように途方に暮れていた。
連続猟奇殺人事件の資料に囲まれながら、平然と三日間も寝食を忘れるよりは、
同性と関係したことを子供に指摘されて青くなる方が、遥かに父親らしいだろう。
つまり、今日という日は、幸福なのだ。
あの日さえ無ければ、と思う時がある。
二十数年前の あの夜、自分がウェイン夫妻を迎えに行ってさえいれば、
"バットマン"はこの世に生まれなかったかもしれない。
後悔は、眠れぬ夜を今も重く押し潰す。
せめて、一人残されたブルースだけは、幸せにしたかった。
彼だけは、幸福にならねばならないのだ。
しかし、ブルースの怒りも苦痛も、決して癒えることがなかった。
今のジェイソンよりもまだ幼かった頃、この街を離れ、そして12年間、戻らなかった。
彼がゴッサムに帰ってきた時、アルフレッドはようやく理解した。
ブルースは最初から、幸福になるという選択を、自ら放棄していた。
そして、彼は夜闇の怪物の仮面を手にした。
決して実現不可能なことを、成し遂げようと足掻く彼は、
高潔で聡明な、比類なき "愚者 "だ。
狂気のような純潔さで、底のない無明の闇を、ただ独りで降りていく。
漆黒の仮面と翼の下に隠した物が、生身であることなど忘れたように。
(その胸に沈めた、本当の望みは)
(いつか、どことも知れぬ、常闇の底で)
(血を流し、傷つき果てた末に、ひっそりと )
そんな想像をする夜が、堪らなく恐ろしかった。
そんな運命のために、彼を慈しみ、守ってきたわけではなかった。
執事を辞めようとまで考えた。
けれども、彼を止めることは出来なかった。
アルフレッドが、真実、彼のために出来ることは、一つしかない。
彼を信じることだ。
信じているのだ、彼を。
彼の信じたものを。
そして、彼はディックと出会った。
ディックは素晴らしい少年だった。
ブルースの中に存在する深い闇に触れながら、その重力をまるで寄せ付けなかった。
ディックはその明るさで、ゆっくりと、しかし着実に、ブルースの歯車を回してくれた。
ブルース独りでは、どこにあるのかも分からなくなってしまう歯車を、
少しずつ、少しずつ、動かしてくれた。
ディックと出会わなければ、彼がジャスティスリーグのメンバーになることも無かっただろう。
彼は自分を、ただの協力者に過ぎないと言うけれど。
そして、今はジェイソンがいる。
ジェイソンとブルースにはいつも驚かされる。
その出会った経緯からして奇跡のような確率だ。
と、ブルースが笑っていたことがある。
だが、アルフレッドは当初、眉を顰めた。
ディックが家を出て間もなかったことに加え、ジェイソンには、ブルースと似たところがあった。
傾注、と言えば聞こえは良いが、目的を優先するあまり、己の身を案ずることを忘れるのだ。
そのままにしておけば、ジェイソン・トッドとしての人生など、簡単に捨ててしまいそうだった。
だから、本当に彼を新しいロビンにするのか、問い質した。
すると、ブルースは、
「素性は調べてあるぞ?」
「そうでしょうとも。 ですが、あの少年をどうなさるおつもりですか。
あなたお独りでは猫の子も満足に世話できないでしょう」
「彼は猫の子には見えないが」
「あなた様にユーモアのセンスがお有りだということを、すっかり失念しておりました。
しかし、犬猫の子なら良い飼い主を探してあげれば良いでしょうが、彼は人間の子供です。
このままここにいては、世を捨てたも同じでしょう。
彼は未だ、"母親の死没後、行方をくらました少年"のままなのですから」
「そうか」
「そうです」
「分かった、支度をしてくれ。 出かける」
そして、ブルースはジェイソンの後見人として、法的な父親になった。
ジェイソンは、今はウェイン家の二人目の息子として、ぶつぶつ言いながらも学校に通っている。
ブルースは、"普通の子供"としての幸福を、ジェイソンに望んでいる。
自分と同じ道を辿らせる気など、毛頭ないのだ。
己の血肉と魂を捧げ、畏怖すべき魔物をゴッサムに解き放つ男が、
アルフレッドが長年仕えてきた主だ。
彼の願いこそ、アルフレッドの願いだ。
だから、彼の愛する者達が、幸福であることを願う。
そして、幸福であることの喜びを、彼に教えてほしいと思う。
いつの日か、彼の心が安らぐ時が訪れるのかどうか、アルフレッドは分からない。
しかし、底知れぬ闇路を独りで降りていく彼が、せめて帰り道を見失わぬよう、
ここに灯る小さな明かりを、覚えておいてほしいと、祈る。
アルフレッドは、佳境に入ってきた小説を閉じた。
日が落ちる頃には、ジェイソンも帰ってくるだろう。
きっとお腹を空かせてくるに違いない。
さて、今日はどんなクッキーを焼こうか。
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お父さんのお父さん。
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