繋いだ手が 外れた寒さに

首は両目を見開いた。
そこはまだ、暗闇の淵だった。




春の森に若葉は踊り、
木立の中、瀟洒な療養所の昼下がり。
穏やかな風がカーテンを揺らす、二階は眠たくなる陽気。

目を覚ましたばかりの首は、
喉を塞ぐ虚無を、ゆるやかに吐き出してゆく。
繰り返すうち、夜闇の押し込まれた視界に、自然と光が差し込むことを知っている。
夢は、終っている。

窓から森を眺める、古風なテーブルの上。
アクアリウムのような、液体を湛えた透明な容器に。
水に踊る魚はなく、緑の鮮やかな水草もなく。
首がいる。

また夢を見た。
眠るたび、夢を繰り返し、
目を明けては、呼吸をほどく。

夢の終わりを確かめる方法は、だんだんと思い出した。
自分が、どうやって呼吸をしていたのか。
無論今は肺も何もないのだけれど。
憶えている。
この夢は常に、共にあった。
まるで半身を分かち合うように。


その変化を、首は彼に言わない。
それは、彼も首に言わないことがあるから、ではない。


春の光の暖かな、
二階の窓辺は 眠たくなる陽気。
遠い青空に、むくむくとした白雲が湧いている。
窓の向こうはまるで、見知らぬ幸せな誰かの、午睡に浮かんだ夢のよう。

首は、たぶんうっかりして
目覚める場所を間違えた。

もしも最初に目を覚ました時、誰にも会わなかったなら、
そのままもう一度目を閉じて、自分の夢の中に帰っていた。

それなのに、目を明けると、彼がいた。
青空と同じ瞳の、寂しい生き物がそこにいた。
神の如き力を有し、誰もが救われることを願いながら、
あれは、はぐれた迷児のようだった。

だから、なのだろう。



ふと、彼が外の世界で何と呼ばれているか、思い出した。
何故だか笑いたくなった。



瓶詰に良く似た小さな世界の中、
首が微かに唇を吊り上げた時、
バルコニーに緋色のケープが舞い降りた。


スーパーマンは、首の表情に気づくと、穏やかに微笑んだ。

「今日は何か面白いものが来たのかい?」

 "そうだな。 一度 "

「何だろう」

 "君が来た "

天空の青色が、両目を丸くして
その後いつものように切り返す代わり。
痛みのようなものが彼の瞳に差す。

「……君に、話があるんだ」

その瞳を、首はただ眺めた。

「言わなきゃいけないことがあったんだ。 でも、言わなかった」

若葉を煌かせ、木々がざわざわと鳴る。
白いカーテンが、ふわり 翻る。

「君が誰なのか、知っていたんだ」

彼は、取り出した物を、首の前に置いた。

「これは君のものだ」

黒い仮面が、首を見た。
























私は、最初から
確かに彼の一部であったものを、手元に残していた。
その黒い仮面こそ、バットマンの "顔 "だった。
夜闇の淵から飛び立ち、翼を広げる漆黒の影。
あの日、私が彼から外した "彼 " を
今、返す。

彼を助けたい と思った。
記憶を取り戻すことが本当に彼の助けになるのか、私にはもう分からない。
あるいは、それでも彼は、自分を思い出さないかもしれない。

いずれにせよ、私は
この国の大統領を辞める。

準備は整った。
研究所の地下はいつでも施術を始められる。
彼が頷いてくれたら、すぐにでも完全に五体揃った身体を返してやれる。
その後は、二人でこの国を出よう。
どこか、ひっそりと暮らせる静かな土地がきっとある。

彼が何者だったのか、もう私達二人しか知らない。
だから、私が彼を守る。





「……君に、話があるんだ」


彼はただ、私を眺めていた。
その瞳はもう、今までのように
私を見てくれないかもしれない


「言わなきゃいけないことがあったんだ。 でも、言わなかった」


言いたくなかった
思い出してほしくなかった
そうすれば、このままずっと、友人でいられる


「君が誰なのか、知っていたんだ」


だからこそ
友の真実を隠していることは出来ない
その結果、彼が何者になろうと
私は彼を守る。


「これは君のものだ」













溶液の中、淡い眼差しが、
自分の血のこびりついた黒い仮面を眺め、
遠い呼び声に耳を傾けるように、目蓋を伏せる。

彼は何も言わなかった。
私は何も言えなかった。

背にした窓から木々のざわめきが聞こえる。
流れる雲が日差しを揺らめかせる。
やがて、彼の唇が動いた。

「……え?」

私は思わず聞き返した。
彼が囁いたのは、20年以上前の日付だった。
ヨシフ・スターリンの死んだ年。
私がこの国の大統領になった年。
そして、

 "その日、ピョートル・ロズロフが、私の両親を射殺した "

「そんな、」

日が翳り、部屋が すっと暗くなった。
冷たい戦慄が背中を走った。

 "あの男は、秘密警察の部隊長をしていた。
  私の父親を、体制批判を煽動する思想犯として、母と一緒に殺した。
  父は、『スーパーマン』をプロパガンダに利用する政府を、批判した。
  自らの考えを、自らの言葉で主張した。 ただそれだけだ "

遠い闇夜を
密かな銃声が引き裂く
恐ろしい静寂が雪降る街を覆い尽くす

 "私は何も知らずに両親とモスクワで暮らしていた。
  その日、ピョートル達がいきなり現れて、二人を撃った。
  私の見ている前で、父も母も、死んだ "

たった一人残された幼い子供が
その後どうなったのか、誰も知らない

「君 が 」

私はその家族の話を知っている。
ピョートル本人から、聞いたことがある。
だが、本当は


 "一つ、聞かせてほしい "


私は、その銃声を


 "スーパーマンは、その時、何をしていた "


血溜まりの中で跪く少年が顔を上げる
その、どこまでも深く透き通る藍色の瞳が
両親を殺したもう一人の罪人を映す

私は、その銃声を、ただ 聞いていた。

粛清の名の下、密かに行われた処刑の数々。
それは、決して見えない、聞こえないことになっていた。
あの頃の私も、闇夜に響くその銃声を、聞こうとしなかった。
まだ未熟で、物事を知らず、その恐ろしさを理解していなかった。
政治によって決定された事柄に、深く介入すべきでないと思った。
私が救うべきなのは、罪もなく悲劇に襲われる人々なのだと思い込もうとした。

そして、私は
彼の家族が殺されていく音を聞きながら、何もしなかった。





視界が、全てが、暗く歪んでいく。
大地が沈んだように感じて目の前のテーブルに両手をついた。
私を射貫くその瞳の、凍てついた雷火。
藍色の憎悪。

「……私は、どうすれば、いい」

縋るように伸ばした指先は脆いガラスに触れることも出来ず慄く。
身体の奥から重く冷たいものが膨れ上がってくる。
いっそ叫び出したいのに喉が塞がって掠れ声になる。

「どうすれば、君に、償える」

あんな銃声は、もう二度と聞きたくなかった。
だからこの国の大統領になって、全て止めさせた。
私はこの国を変えた、つもりだった。
だが、凛冽とした眼差しが、私の何もかも切り捨てる。
あの夜に垣間見た、彼の真実の双眸が。

 "おまえが何をしても。
  たとえ、この先、何千万人の命を救ったとしても。
  おまえが見捨てた命を贖うことなど出来ない。 父も母も帰らない。
  償いなど、させない。 私は決しておまえを許さない"

幾千の呪詛よりも、その静謐が、私を壊す。
苛み続ける重さに堪えきれず頭を垂れようとしても、彼の眼差しが許さない。
涙が零れると思った熱い両目は乾き切っていて視界が赤く染まり出す。

 "おまえが何をしようと、私がどうなろうと、
  この憎しみが消えることは無い "

ごめん、と呟こうとして口がほとんど動かなかった。
それでも繰言のように続けた。 諦めたくなかった。
どうにもならないことがあるのだと信じられなかった。

 "おまえがわざわざ蘇えらせたのは、おまえの破滅だけを望んでいる男だ "

「違うッ 僕は、君は!」

 "黙れ、怪物 "

世界が真紅に塗り潰される。
私達は互いを睨み据え、対峙する。
私を射貫く両眼の、奈落の闇に、
どこにも光は無く、どこにも望みは無く。
全てが、凍え果てた。
私は自分の目を潰してしまいたかった。
ゆっくりと、彼の唇が開いていく。
あと 一言。
私を粉々に砕く最後の楔が、その唇から 放たれようとする。
私はただそれを眺めていた。

その沈黙を、突然 "何か "が揺るがした。

反射的に感覚を研ぎ澄まし、全身に緊張が走る。
感知したのは、内圧で軋んでいく鋼鉄のタンク。
捻じ曲がった固定具が次々に弾け飛ぶ振動。
どこかで深刻な事故が起きようとしている。

私は彼を見た。
彼は私の様子から既に察したようだった。
私と彼は、鏡のように、互いの瞳を映した。
一瞬そこに、私と彼のあらゆる感情が渦を成して叫んだ。
私と彼の、あらゆる時間が、閃光となって刹那を駆けた。
そして、目蓋を伏せたのは、
私ではなかった。

 "さっさと行け。 私の前から消えろ "

「……出来ない」

 "消えろと言っている "

「無理だ」

その "音 "を聞きながら、私は彼の両親を見殺しにした。
多くの人々が殺されていく光景から目を逸らした。
そして、彼を復讐者にした。
私が、その両目を、哀しみで暗く凍りつかせた。
許してほしい、とはもう言わない。
私が破滅する日まで私を憎み続ければ良い。
だから、お願いだから。
そんな目をした彼を、独りにさせることなど出来ないと、分かってほしい。


 "本当に苛々させる……"

「そんなの、知ってただろ」


小さな 溜息のような
瞬きのような
水が 揺れ

目蓋を明けた瞳は、清冽な藍色。

雪の ひとひら 流れるように
微笑んだ


 "早く行け "























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