峰々に夕陽が沈む。
砕けた赤銅色が凍てついた大地に最後の光を投げかける。
天空は遥か。
風は既に冷たく、地平線から宵に染まる。

私は再び、シベリアにいる。
"彼 "の最後の足跡を尋ねて、この地に立っている。


療養所で、彼の悪夢に会った。
あの目を 見た。
そこには 何も なかった。
暗く、暗く、どこまでも深く、澄み透って、落ちていく。
まるで、何もかも失ってしまったのに、そんな自分の痛みすら
もう 分からなくなってしまったような
哀しい瞳だった。


あの目は、療養所にいる彼でない。
全てを忘れた彼の奥にいる、
このシベリアで果てた男の、悲しみだ。


彼を探して、ここに戻ってきた。
彼と最後に言葉を交わしたのは、私だ。




雪の中、殆ど朽ちかけた廃墟が点々と埋もれている。
その内の一つで、私は足を止めた。
完全に倒壊し、折れて砕けた資材が散乱する中、
雪の覆う地面に、ぽっかりと穴が開いている。
その下は古い貯蔵室だったのだろう。
天井部が大きく破壊され、地上に口を開けている。
穴の縁から底を覗く。
暗い。

だが、私には。
地下室を隈なく照らすために設置されていたライトが視える。
あの夜、世界は無情なほど赤かった。
私は全ての力を失った。
彼女が自分を犠牲にしなければ、私はこの地下室で一生を終えた。
砕けた彼女の心は、いつか戻るのかも分からない。

代わりに私は解き放たれ、
彼は自分の身体を吹き飛ばした。



陽が落ちる。
夜が迫る。
凍てついた風が雪を舞い上げる。
寂寥の響きが荒野を渡り、峰々に祈る。

この場所はかつて、強制収容所の一つだった。
故郷を遠く離れ、そのまま帰ることの出来なかった者達が、
凍土の下、今も眠っている。

『スターリン時代、おまえが支えたこの国が、何百万人の命を、こうやって捨てた』
『だが、おまえの運命と、彼等の味わった苦しみが、比較出来ると思うな』

私は目を閉じ、亡霊の囁きを聞く。
私を責める断罪の声。
赤い夜の亡霊は、私の全てを否定し続ける。

『おまえは、自分の産まれた星と一緒に、死ぬべきだった』
『地球の人間を、おまえの犬のように、思い通りに扱う前に』
『宇宙の塵になってしまうべきだった』

「……違う、私はただ 彼等を、助けたかっただけだ……」

呟いたのは、あの夜言えなかった言葉。
彼は私を打ち倒すために、私は彼を捕らえるために、この場で対峙した。
私と彼はまるで相容れなかった。
そして


目を明ければ、
そこにはもう、何も無い。


私は、突然立ち竦んだ。
一つの事実がいきなり目の前を覆った。

もし私があの時、自爆しようとする彼を止めていたら、彼はどうなった。

この国に、死刑はない。 終身刑もない。
全て廃止させた。
代わりに、国家体制を揺るがそうとするテロリストのような 危険人物は、
その精神活動が既に社会に対して不適合であるから、
彼等が "善良な市民 "の一員となれるように、
危険人格は矯正される。

矯正?

脳に制限を与え、プログラム通りの無害な人間に作り変えて、矯正?

私が、彼を?

あの夜、私は彼にそれを迫った。
この人格更生法を承認したのも私自身だ。

もしも彼が、バットマンであることを思い出したら、

私は彼を、消去しなければならないのか?





















気づくと、視界を赤い光が渦巻いていた。
超高温に晒された雪が一気に蒸発し、炎柱の中で建物の影が崩れ落ちていく。
私の両眼は凍土を抉り、何もかも燃やし尽くしていく。
大地も、空もなく、全てが紅蓮の中に包まれる。
独り、赤い目の怪物が、憤怒の咆哮で立ち尽くしている。
それでも怪物の炎は、怪物を焼いてはくれなかった。





炎は、この地一帯を焼き払った。
埋もれて残された、微かな欠片のようなもの全て、灰になり、
轟々と風が吹き攫っていく。
ここで何が起きたのか、もう誰も分からない。
誰も彼を追うことは出来ない。


私はもう、彼を消し去ることなど、出来ない。

























月の光が冴え渡る時刻になってから、モスクワの空に戻った。
どうしても、すぐに戻る気にはならなかった。
独りのまま、動けなかった。


天上、冴々とした月の牙。
私の思考は錆び付いて、青褪めた月影の下を彷徨う。
静かな夜だった。
地上には、玩具の街が広がっている。

ふと、何かを感じた。

空気の揺らぎ。 微かな反響。
だが危険なものでもない。

急ぎもせず、モスクワの灯りを眺めながら街に降下する。
大通りから少し離れた、古いビルの横。
壁に、黒いペンキで大きな落書きがされていた。
そのマークを、三人の子供が見上げている。

「こんばんは」

三つの顔が揃って私を振り返る。
兄弟ではないだろうが、三人とも黒髪で、青い目をしていた。
空から降りてきた私を、緊張した面持ちで見る。
そして、その緊張を隠そうとしている。

「君たち、これを知っているかな?」

最近モスクワ市内で同じ落書きを目にすることが増えた。
子供達は、二人は何も言わず首を振った。
しかし、

「俺がやった」

はっきりと言い放った少年は、13歳ぐらいだろうか。
真っ直ぐな眼差しは、私を見据え、物怖じしない。

「……君は、違うね」

落書きされた大きさと高さから見て、この少年達には無理だ。
ペンキの具合から判断しても、描いた人間はもうここを離れている。

「違わな……」
「僕達、もう帰ります」

自分がやったと言い張る少年を、肩を掴んで遮ったのは、
三人の中で一番年長に見える少年だった。
左手はもう一人、幼い男の子の手をしっかりと握っている。

「散歩してたんですよ。
内緒で出てきたから、そろそろ戻らないと」

そう言って、にっこり笑った。
それは大人と接するための表情だった。

「……そうしたほうが良い」

家まで送ろう、と私が言う前に、彼は

「ジェイ、頼んだ」

小さな子の手を、まだ何か言い足りない様子の少年に任せ、
二人を自分の後ろに押しやった。
まるで、その背中に隠すように。
ジェイと呼ばれた少年は、きっぱりした声に仕方なく歩き始めたが、
一度だけ肩越しに私を振り返った。
睨むような目だった。
手を引かれていく幼い男の子は、最後まで口を開かなかった。
そして今も、じっと私から目を逸らさない。

「あなたは、」

その声に私は視線を戻した。
一人だけ残っていた少年が、私を見上げていた。
大人びた微笑が、その口許から薄れ、消えていく。

「これを、知っていますか」

指差した先は、壁の
大きく翼を広げた、黒い蝙蝠。
夜闇へ飛び立とうとする漆黒の影。

「かっこいいんですよ、あの人」

少年の顔を、私は見なかった。
あの人という言葉も耳に届かなかった。
視界全てを魅入られたように奪うのは、禍々しい黒。
この街に刻まれた "彼 "の翼。



バットマンの正体など、誰にも分からない。
それでも、その硬い拳が、
声のない絶叫が、
"彼 "だからこそ、出会う誰もが、魂を砕かれた。
彼という闇を深々と心の底まで刻み付けられた。











あの夜 私は出会い

彼の欠片を一つ、拾った

私の心は ここから振り返り

己の両手に問いかける

道なき夜の 雪野は淡く

私の哀切は歩き出す




























「……そうだね」

呟いた時、少年の姿はもうなかった。





















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