"彼 "のことは、私自身何も知らないに等しい。
バットマンを名乗っていた彼が、どこで産まれ、何を見て育ち、
何故あの夜、死なねばならなかったのか。

彼は、誰だったのだろう。




ピョートルが保管していた調査記録に、目を通した。
バットマンが関与したとされる事件の報告数は、予想より遥かに多い。
しかし実際は、彼の影に怯えた者が、関係のない事件にまで彼の影を見たのだろうと、
ピョートルは分析している。
数ある事件のうち、ピョートルは、確実に "彼 "が姿を現した事件を抜き出し、
ただ一人の人物に関する情報を除いて、詳細な資料を揃えている。
"バットマン "
漆黒の闇をまとい、出会った者を恐怖で打ちのめす、亡霊。
彼に関しては遭遇者の曖昧な証言があるだけで、
写真や映像の類は何一つ無い。
事件現場に残されていた物も、個人の特定には繋がらなかったようだ。
亡霊は、影を落とさない。

ただ、姿を現す場合、バットマンは必ず一人で行動しているが、
事件のソ連領内の広い分散を見ると、単独で全てを実行したとは考え難い。
彼は "バットマン "の一人だったのかもしれない。
でなくても、複数の協力者はいただろう。
この場合は、同志と言うべきか。

シベリアの事件後、モスクワのテロ事件はぴたりと止まった。
実行者がいなくなったから、と考えられるが、
バットマンに協力していた彼等は、今はどうしているだろう。
彼等なら知っているのだろうか。
あの黒い仮面の下にいた男が、誰だったのか。


調査記録を全て読んだ。
だが、この場にある資料を見る限り、
ピョートルが分析していたのはバットマンの手法、戦略と言うべきもので、
その主謀者、協力者の全容を明らかには出来なかったようだ。
ピョートルは、慎重に行動する男だった。
そんな男が、全く素性の分からない人物、組織と手を組むとは考えにくい。
二人を結ぶ接点は、何だ。
いつから通じていた。

あるいはこれも、レックス・ルーサーなのかもしれない。
赤色太陽光の発生装置を造ったのは、彼だ。













アラームはもう鳴らないから
いつもどこか、耳を澄ましている。
彼と違い、私は眠る必要がないから、
クレムリンで政務を執り、研究所で彼の臓器を培養している途中、
地球の裏側の山火事を消火しに行って。
ふと 息をつくと、耳を澄ます。

モスクワの、市街地を外れて、森の中。
若葉を柔らかな春風が撫でる。
その風はほのかに甘い。
花の蜜と、土の香り。
彼の見ている世界。

療養所の、二階の窓から
彼は日がな一日、森を眺めている。
何が見えるのか聞くと、バルコニーに小鳥が来ると言う。
南から帰ってきた渡り鳥らしい。
観察、という単語を使う彼は、なんだか学者然として、
それが妙に様になるのだから、彼は面白い。

彼が目を覚ましたら、会いに行こう。




執務室を出ようとして、内務監察室からの途中報告を受け取った。
ピョートル・ロズロフの背任について調査した結果、
彼の命令によって、国外持出禁止の物品が何度か輸送され、
その事実は国家機密として隠蔽されていた。
何者との取引だったのかは、まだ特定に到らず、
引き続き調査するという。

直接の取引相手は分からなくても、辿っていけば必ずあの男に行き着くのだろう。
レックス・ルーサー。

私が調査報告を読んで驚いたのは、その背任内容でなく、
ピョートルが10年以上前から秘密裏にアメリカと接触していたことだった。
私は、何も知らなかった。









麗らかな春の光に
雲雀の歌は森から青空へ翔け上がり
私は静かに、バルコニーから彼の部屋に入る。

彼は、うとうとして。
私に気づくと、ぼんやり目を明けた。
そして、じっと私の顔を見上げると

 "……君のほうが疲れているな "

呟くように言った。
























あの男が糸を引いていたなら、三人は一つの線で繋がる
アメリカの天才科学者にして、巨大企業体を統轄する実業家。
最近では慈善活動に力を入れ、次期大統領候補とも目されている男が、
ソ連国家保安委員会局長と通じ、裏では反体制テロリストに協力する。
三者の利害は、"スーパーマン "の排除で一致する。
そして、シベリアの事件は起きた。

だが、筋書を書いたのは誰だ。

あの夜、私は、死んだかもしれなかった。
一発の弾丸でもあれば、力を失った私を殺すのに充分だった。
もしあの場にいたのがルーサーだったなら、嬉々として引金を引いただろう。

だが、バットマンは。
彼が行おうとしたのは、隔離だ。
私がこれ以上人間社会に干渉しないよう、
赤色太陽光を使ってあの地に繋ぎ留めておくことだった。
しかし、つまりそれは、命を奪うつもりはなかった、ということになる。

ルーサーの計画とは思えない。
テロリストに武器を支援するのはあの男の常套手段だが、
バットマンは、ルーサーとも違う独自の考えで行動していた。
ルーサーは、本当にそれを知っていたのか?
彼もまた、バットマンが何者かは "知らなかった "
そんなことが、ありうるのか?


ルーサーに、直接確かめてみるべきなのかもしれない。
だが、あの男がまともに答えるとは思えない。




あのシベリアの夜。
バットマンは己で決断し、私と対峙した。
あの 憎悪は。
血潮で何もかも真っ赤に染め上げたような世界で、
振り下ろす拳の、漆黒の断罪は。
彼自身だ。
彼は憎んでいた。
この国を。 この国の体制を。 過去の歴史を。 そして、私を。

私と彼は、どこかで繋がっていたのだろうか。
まさか。 彼のような人と一度会えば忘れるはずがない。

けれど、彼は私を憎んでいた。










結局、確たる何も見つからない。
彼の過去を調べようにも、手掛かりは少なく、
そこから辿ろうとしても、すぐに途切れてしまう。
バットマンに繋がる痕跡は、徹底的に消し去られている。
全ては、彼本人の記憶の中に隠されているのかもしれないが、
それを解き放つ鍵が見つからない。
手詰まりだ。

もしも、このまま。
彼が自分の過去を思い出さなければ。

彼の新しい身体は、もうじき準備が整う。
そうすれば、彼は普通の人間と同じ生活を出来るようになる。
自由に生きてくれれば良い。
彼は何も憶えていないから、戸惑うこともきっとあるだろう。
私は彼の友人として手助けしよう。
そのうちに、何か興味のあることを見つけて、彼の思うように生きていけば良い。
その頃にはきっと、彼はもう、自分の名前を持っている。
新しい、自分の名前を。
そして、新しい人生を歩んでいる。

もしもこのまま、何も思い出さないでいてくれたら。


私は、理解している つもりだ。
彼が何も思い出さないから、私を憶えてないから、私と彼は友人でいられる。
あの憎悪を忘れてしまったからこそ、彼は私に笑ってくれる。

彼といる時間が好きだ。
その時だけ、楽に呼吸ができる気がする。
彼は、とても頭の回転が速くて、
ちょっと意地悪で、頑固なところもあって、
でも、優しい。

今なら分かる。
何故あの時、彼を蘇えらせようとしたのか。
あの夜、私は何一つ救えなかった。 何もかもが私から消え去った。
私は 独りになった。
私がいつも恐れていたのはそれだ。
だから、せめてこの手に残されたものを、死から呼び戻すために、没頭した。
本当に救われたかったのは誰なのか分からなくなるほど一心に。
そして、彼は私に、私の心を教えた。

何も思い出さないでほしい。
このままでいてほしい。
彼の傍にいたい。

私は彼が好きだ。









その時、"それ" を聴いた。

月夜を、当てもなく雲海の上を漂っていた私は、その瞬間に降下した。
音の速さを超えて夜空を突っ切る。 衝撃波で周囲の雲が霧散する。
"それ" は、ほんの極微かで、あるいは、音ですらないのかもしれない。
だが、考えるよりも先に身体が動いた。
突き動かされるようにモスクワに向かって飛んだ。

森は、静かだった。
療養所のバルコニーから音を立てず中に入る。
そこに、彼はいた。
溶液の中、目蓋を伏せて。

室内を見回したが、特に変わった様子はない。
生命を維持する溶液を満たした密封空間は、テーブルの上にあり、
他の機器は連結してその周りに設置してある。
全て、正常に稼動している。

私は、ほっと息をついた。
ほとんど呼吸することを忘れていた。
窓には、美しい月が浮かんでいる。

私は静かに彼に近づいた。
そっと指先を伸ばそうとして、気づいた。
眠る彼の、きつく顰めた眉。
酷く何かを耐えているような。

悪夢だ。

私は彼に声をかけた。
けれど彼は目を覚まさない。
その悪夢が終わるまで、彼は決して目を明けない。
呼びかけようとしても、彼には名前がない。
手を伸ばして触れた掌の向こう、薄く脆いガラスの世界。
私が少しでも力を入れたら壊れてしまう。
その向こうで、彼がうなされているのに、
彼を守りたいのに、
触れられない。

悪夢は彼の内側から現れる。

私はただ こちら側から、苦しむ彼を見ているだけで。
いつもいつもガラスを砕きそうになるほど、切ない。
早く、早く時間が流れて、悪夢が終われば。
彼は目を覚ます。
必ず終わりは来る。
祈るしか出来ないこんな時間は終わる。
彼が、目を覚ませば。
だから、どうか
どうか もう

























やがて、その苦しみに疲れ果てた頃。
時の流れの無情な遅さを呪う時間が、終わった。

うなされていた彼の顔から、ゆっくりと険が消えていく。
きつく顰めた眉が静かに解ける。
暫くして、目蓋が小さく震え、
睫毛を持ち上げる。


その両目は、奈落だった。

























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