『深酒禁止!』

レイが袋の中を覗くと、ボトルと一緒にそんなパンフレットが突っ込まれていた。
研究所からの帰り道にある酒屋へは、そう頻繁に通うわけでないが、
酒屋でのレイの扱いは、ウォッカを割って飲む変な外国人だ。

レイ・パーマーは、アメリカ合衆国の優秀な物理学者だった。
今は、ソ連大統領の依頼に応じ、研究のためにモスクワにいる。
アメリカ人である彼が、敵対国家からの要望に応えたのは、
人道的見地と、科学への純粋な好奇心による。

悲劇の街 スターリングラード
過去に起こった事件で極限まで縮小された都市。
人口100万を超える都市は、そのままの造形を保ったまま、
ちょうどボトルシップのように、瓶詰大のケースの中に収まっている。
しかも、中にいる人間達は生きていて、
普段と変わらない生活を送っている。
素晴らしい技術だった。

この都市を元の大きさに戻すことが、レイ・パーマーへの依頼だ。
承諾した動機は、法外な報酬よりも、科学への純粋な好奇心が強い。

更に付け加えるなら、レックス・ルーサーと反りが合わなかった。


キッチンで夕食の支度をしながら、レイは片手間にパンフレットを読む。
この国に来てから少し酒量の増えた自分に苦笑いして。

『深酒禁止!
お酒を飲み過ぎると、あなたの健康を損なうおそれがあります。
意識がなくなるまでお酒を飲んでしまうのはひかえましょう。』

そこで終わると思った小さな紙は、まだ続きがある。

『さて、皆さんは犯罪者の人権について考えたことがありますか?
人権というものは、誰しもが平等に持っている永久の権利です。
悲しむべき犯罪を犯してしまった彼等ですが、だからといって
いたずらに拘束されたり、刑罰を科せられたりすべきではありません。
彼等が必要としているのは、"治療 "です。
連邦政府では、彼等が正常な理性と判断力を取り戻し、新しい第一歩を
踏み出せるよう、抜本的な矯正プログラムを……』

レイはそこまで読んで、ゴミ箱に放り込んだ。
酒の肴になりそうもない。

離れた祖国に特別な愛着を覚える性質ではなかったが、
この国は、裏も表も時計仕掛けだ。



研究所では、何度かソ連大統領の姿を見かけた。
"スーパーマン "とは、依頼を持ちかけられた時に、直接顔を合わせていた。
その時の印象は、想像していたよりも、悪くなかった。
泰然として、礼節も弁えている。
しかし、笑ったところを見たことがない。
鋼鉄の男と称されているが、超大国の最高指導者というのは、ああいうものなのだろうか。
それとも産まれた星の違いか。
国の要である彼は、眠ることもないのだという。

スーパーマンは研究所に来ると、いつも一人で深層フロアに降りていく。
レイに許可されたパスコードでは、その奥に入ることは出来ない。
おそらく、彼だけの場所なのだろう。
































原子と、分子が
連鎖する溶液の中。
存在は 0 を脱し、1 が展開する。
細胞はDNAの指揮に従い、奇跡的な交響楽を奏でる。
千草の芽吹いて花を咲かせ実を結ぶように。
微細な欠片と欠片は有機的に連関し合い、
大きな奇妙なうねりを形作る。

脊髄と、神経と、臓器と、
骨と、肉と、血と、

いずれは一つの人体として組み上がる。


失われた彼の肉体を、一から創る作業を始めた。
一度死んだ彼の脳を再生させた作業と比較すれば、それほど難しくない。
時間さえかければ、順調に事は進む。
必ず元通りの身体に治すと約束した。
私は、言うならば、彼を診る唯一の医者だ。

彼のことは、この地下から移した。
一人きりでここにいて、面白いことなどないだろう。
郊外にちょうど良い場所を見つけた。
森の中に建てられた、今は閉鎖された療養所。
知らずに入り込む人間もない、静かな土地だ。

彼はまだ何も思い出さない。
不思議とそれを気にする様子がない。
焦ることもなく、私に事情を問い質すこともしない。
関心自体が薄いようだ。
彼が何を考えているのか、良く分からない。
とても冷静な男で、少し気難しい。
けれど、機嫌の良い時もある。
たまには、笑ってくれる。

銀鼠から、猫の金緑、昇華する翡翠。
大空の光は彼の瞳をプリズムに、鮮やかなスペクトルを彩る。
君は神じゃないと彼は笑った。

嬉しかった。
彼の言葉が、彼が笑ったことが。
そんな表情をするなんて、思っていなかった。

"バットマン "は 絶対に 私には笑わないだろう。


彼を死なせたのは誰か、彼に言った。
それでも彼は私を思い出さなかった。
私の知る事実を、私が彼に教えることと、
彼自身が自分の記憶として取り戻すことは、別の体験なのだろう。

私は、彼に
あの夜起きた出来事を、話さなくても良いのかもしれない。


耳を澄ます。
彼のいる療養所の方角に感覚を研ぎ澄ます。
もし目を覚ましていたら、顔を見に行こうか。

今の彼には、普通の人間のような明確な "音 "がない。
言葉を発することもなく、鼓動を刻む心臓もない。
一揺らぎの植物のように、ひそやかだ。
それでも、じっと耳を傾ければ、
微かな、ごく僅かな、音とも言えないような、
彼の脳内を駆け巡る血流が、彼が生きていることを伝える。
いつも、どこかしら そうやって、彼の音を探している。

彼は自分からは何も言わない。
悪夢に苦しめられていることも、教えない。

まるで一つの儀式のように、眠りから覚める直前、それは必ず訪れる。
どんな夢かは分からない。
前に少ししつこく聞いてしまった時、何も憶えてないと彼は言った。
目が覚めると、忘れてしまうのだという。
それ以来、彼は自分の悪夢について、決して話さない。
うなされていることも認めない。

悪夢から目覚めた瞬間の彼は
これから命を奪われる 子供のようだ。


悪夢の原因を究明しなくてはならない。
私は今、自分の名前も失った彼が、
ここで生きていることを知る、唯一の人間だから。
私が彼を助けなければいけない。


彼の脳に損傷はない。
細胞は完全に元の状態に再生している。
療養所に移ってからも、彼の症状に変化は見られない。
だが、この悪夢には、規則性があるように思う。
もし彼が、夢の中で何を見ているのか憶えていたなら、
原因に繋がるかもしれないが。
彼は、忘れる。

過去の記憶を思い出さないことに、何か関係があるのだろうか。

彼は、憶えている。
脳の蘇生は完全な形で成功した。
過去の記憶は失われたのでなく、何かの原因で埋もれているのだろう。
彼の中、どこかにそれは残っているはずだ。

だが、思い出せない原因は、何だ。
まるで彼の記憶には鍵が掛けられているようだ。



彼の過去を調べてみた方が良いのかもしれない。













地下を出て上階を通る途中、レイ・パーマー博士と軽く話をした。
スターリングラードについての進展はまだない。
彼の新しい身体の方が早く出来上がりそうだ。
じきに、彼は自分の足で歩けるようになる。

そうしたら、最初はどこに行こうか。





















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