面会記録には残らなかったが、
その日、ピョートル・ロズロフの病室に見舞い客があった。
彼の施術後、初めての出来事だった。
二人は穏やかに話をした。

「美味しいお茶をありがとう」

そう言って帰る客人を、にこにこ笑ってピョートルは見送った。
入れ替わりに、いつものカウンセラーが病室に現れて挨拶をしたが、
幸せそうな彼の笑顔は全く変化しなかった。


その頃には、客人は空の人。
月のクレーターから地球を眺め、小さな吐息をついた。
望むなら、無限の暗黒夜を飛び越え、どこにだって行けるが。
無数の星々の、どれもこれも行き先でなく。
帰る場所でもない。

白っぽい、何もない大地から、見上げる水の星に。
見当外れのノスタルジア。

どこに行ったって、みなしごは、ひとりきり。











ひとりきりの薄闇で

退屈だな と首は思う。

温かくも冷たくもない液体の、視界は茫漠として。
チカリ チカリ と瞬く蛍火は、周りを取り囲む機器の類。
いつも薄暗く、仄明るく、変化の無い世界を、かれこれ数時間は眺めている。

退屈だ。

そうやって、どれほど時間が経ったのか。
首は秒単位で正確に把握していたが、そんなことに全く意味はないのだ。
ただ、眺めている。
自分のいる小さな世界の、その向こうを。

ドアがある。
今のところ、そこを通ってここに来るのは、一人。
"彼 "だけだ。

彼は、首を一度、死なせたらしい。
どうして、そんな状況になったのか。
まるで何も憶えてない。

この場所で目覚めるようになってから、日数は経っているが、
それより以前のことを思い出す気配がまるで無い。
が、彼に尋ねようとも思わない。

何も思わない。

自分は、何かが欠け落ちている。
そんな気はする。
だが、それだけだ。
阿呆のように、何も思わない。 感じない。
目を明けてはいるが、そのまま眠っているようでもある。
いつからなのか、何故こうなのか、分からないが。

それは痛みでなく、熱でなく、影でもなく
ただ一欠片の虚無だ。

だから、助けたいと言う彼の言葉が、良く分からない。
彼が真実を述べているのは理解できるのだが。
結局、首はどこも空っぽだ。




首は、終始そんな調子だったから、
あのドアの向こう、何があるのか知らない。

その施設は、モスクワのソ連軍基地の敷地内にあった。
表向きは、数ある研究機関の末端施設の一つ、とされたが、
実際は、限定された人員だけがパスコードを持つ、大統領直属の機関だった。

その深層フロアの、厳重な管理システムの中、
奇妙な影が並んでいる。
機械のような、生物のような、そんな境界など捻じ切れたような。
幻覚症状の色彩と、地球の幾何学とは別次元の、何か。
たとえばそれは、天才科学者が創り出した悪意や、
外宇宙から襲来した侵略者の成れの果て等。
一つ一つ、透明な障壁の中に並んでいる。
その最奥のブロックに、首はいる。

そんな自分を首は知らない。
が、もしかしたら知っているのかもしれない。
陳列された "サンプル "の一つのような自分を理解していながら、
何事も聞かないのかもしれない。
首は、たった一人訪れる人間の名前も尋ねない。

地の底、閉ざされた世界はとても小さく
名前が必要なほど複雑でもない。






首はドアを眺めている。
他に眺めるものもない。
また来ると彼は言った。
だから、そのうちに来るのだろう。
彼の言葉に嘘は無い。
あるいは、嘘でないと彼自身は信じている。
そして、そういう見方をする自分は、嘘をつく人種なのだろうと、首は思う。

他に待つものもなく、ぼんやりとドアを眺めている。
あんまり退屈で、目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだ。
だから、いつまでも母親の言うことを聞かない子供のように、どうにか目を明けている。

眠るとまた、夢を見る 気がするのだ。
























うっ、と

喉が塞がる苦しさに目を見開いた。
首は目を覚ました。
酸欠の魚のように口が空白になり、そこで、気づいた。
青空そのままの瞳が、気遣わしげに覗き込んでいる。

「大丈夫かい?」

全く大丈夫でない。 いつのまに眠ってしまったのか分からない。
意識がどこで途切れたのか自覚出来ない。 自分というものが連続していない。
そして、おそらくは、夢を見た。
また同じ夢だ。
それが何かは分からない。
目を覚ますと同時に忘れてしまう。
たったそれだけのことが、何故、今はもう失った胸を貫くのか。
そこにはもう何も無いのに。
撃ち抜かれ、破裂する。

 "何でもない "

何も、無い。

「うなされていたみたいだ」

 "さあ、分からないな。 覚えていない "

ガラスに触れようとする手を、首は溶液の中から眺めた。
大きな、温かそうな掌だった。

「君は、苦しそうだ」

 "それは違う "

首の棲む小さな世界に、苦痛は存在しない。
苦痛を味わうための身体もない。
ただ、虚ろな水の中、漂う。

人形の目をした首に、彼は言った。

「ここを出ようか」



















青空の魚。
もしくは、空飛ぶ瓶詰か。

その瞬間、首が思ったのは、おおむねそんなところだ。

視界一切の青。
空と海と、光と風と。
波の上、雲の影が流れる。

首は、太陽の強さに瞬きして、目を細くした。
そんな首を腕に抱き、真紅の大翼は悠々と天空を翔ける。

首の生命を維持している密封空間は、主たる機器から切り離され、
今は大振りの瓶詰ぐらいなもので、暫くならこのままでも支障は無いと言う。

首は、もちろん元の自分を知らないが、
随分と手頃な大きさになったものだと改めて思う。
鳥よりも、雲よりも高く、彼と首は飛んでいる。
あまりにも非現実的な、
驚くような、
空。

初めて目にするような青だった。
まるで、生まれてから一度も空を見たことがなかったような、青。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
覚えていない。

どこまでも、何もかも、現実を喪失し
首は、漂うだけの小さな歪んだ影だ。
そして、青に、溶ける。

その時、彼の声がした。

「……気が塞ぐと、ここに来るんだ。
 この空が好きだから、君も気に入ってくれたら、嬉しい」

ぼんやりと、首は視線を上げた。
だが、彼の腕は首をしっかり抱えているし、首は無論一人で動けない。
目の前に広がるのは、空と海の境界。
世界は途方に暮れるほど美しく
孤独だ。
聞こえた声は、少しだけ以前と、違う。

「私が産まれた星は、もうどこにもない。
 けれど、この地球で育った。 ここが、好きなんだ」

この青空から、彼はどんな世界を眺めているのだろう。
地上の人間はこの空に届かない。
僅かに掠めても、いつか墜ちる。
そして、首は人ですらない。

「……だけど、悲しい人達もここには大勢いて、だから
もし、誰かが助けを求めるなら、何よりも速くその人のところに行くよ」

かつて、人は
天空の高みに "神 "を見た。
人々の声を聞き届け、救いの手を差し伸べる偉大な存在を。
誰かが言った、彼は神そのものであると。
しかし、

「けれど、自分をとても無力に思う時があるんだ。
この力を人のために役立てたいと思っているのに、上手くいかない」


「僕は…… 傲慢だったのかな」


その声の中に響くものに、首は唇を吊り上げた。

 "そうだな "

ふわりと 彼は宙で静止した。
青空と同じ色の瞳は、寂しげに腕の中に視線を落とし、
そして、小さく目を見張った。
首は彼に笑った。

 "それを傲慢と思うなら、君の助けを求める悲鳴を見捨て、
  どこでも好きな場所に行けば良い。 君にそれが出来るのなら "

「そんなことは、」

 "出来ないなら、顔を上げて前を向け "

視界一切の青。
首は、彼に抱えられた、ただの一欠片に過ぎない。
手足と一緒に、記憶も、心も忘れた 空っぽの殻は、酷く軽やかで。
なくした声で首は笑う。

 "君は神じゃない。 そんなものにはなれない。
  君は、地球の人間より優れた能力を持っているだけの、ただのお節介だ。
  おまけに呆れるほどお人好しで、どう足掻いても、君は善良な人間だ "

首は、何を知っているわけでない。
己のことも分からない。
だから、投げつけるような言葉の全て、他愛ない嘘なのかもしれない。
ただ。
首には何もなく、彼には何かがあり、
そしてまた、何かがあったのだろうと思っただけだ。

こんな寂しい生き物は、神にはなれない。




「……もしかして、僕を、慰めてくれるのかい?」

 "いや、全く別次元の話だ "

「そうだね、君は複雑な人だ」


そう言って笑った瞳の、孤独な青に、
憐憫を感じる自分が、首は不思議だった。












青い空を流される、ひとちぎりの 雲のように。
神の如きものと、人の欠片が、
二人、漂っている。





ありがとう と彼は言った。





















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