アラームが、鳴った。
けれど、私がその音を聴いたのは、
北海で座礁しかけたタンカーを持ち上げた瞬間で、
彼のいるモスクワを目指して急いだのは、暫く経ってからだった。
ドアを開けると、彼は目を明けていた。
「おはよう」
そう言った私に じろりと視線を寄越して、
"まずそのアラームだ。 他人の都合で煩わしいことをされると腹が立つ "
前にも感じたが、彼は はっきり物を言う。
無論声は聞こえないのだけれど。
「具合は良さそうだね」
"悪くはない "
アラームを解除する私を、彼はじっと眺めていた。
今日の眼球は、まるでニッケル製だ。
「……何か、思い出したかい?」
"いや、何も "
何故、彼はこんなに、冷静なのだろう。
「少し検査させてもらったけど、異常はないみたいだ。
もう暫く様子を見てみよう。 時間が経てば回復するかもしれない」
彼は表情一つ変えない。
その瞳の、金属質の反射光。
アラーム音の消えた空間。
彼の視線が、意志を持って動く。
「それは、」
傍にあるモニターの一つ。
画面には、彼の全身をスキャンした結果が表示されている。
全身といっても生身の部分は首しかない。
映像を切り替えようとして指が滑った。
エラー音が響いた。
"それが私か "
「…… ああ」
まだ、教えるべきでなかった。
"それは生きているのか? "
思わず、彼の目を覗き込んだ。
彼の問い方は、自分の生死を聞いているようには思えなかった。
「君はちゃんと生きているよ。
現にこうして私と話しているじゃないか」
彼は黙ったまま、どこを見るでもなく眺めている。
ニッケルの眼球には、何の感情も浮かんでいない。
彼は、冷静、とは少し違うのかもしれない。
「……君は、酷い怪我をしたんだ。
普通の病院では間に合わない状態で、だから ここにいるんだよ。
君はまだ、治療の途中なんだ」
彼が一度死を経験したことは、まだ言わない方が良いように思えた。
今、その記憶に触れるのは、負担になるかもしれない。
彼が何も分かっていないのなら。
「君の身体は、必ず元通りに治す。 約束するよ。
だから、それまで少しだけ待ってくれないかな」
薄明るい水の中、首と連結したチューブの束が、微かに揺れる。
私は真っ直ぐに彼と視線を合わせた。
「君を助けたいんだ」
すると、彼の唇が動いた。
"君は何故、私を甦らせた "
記憶が、戻っていたのか。
そう思ってどきりとした私とは対照的に、彼は淡々としている。
"首だけの状態になることを、私は怪我と呼ばない。
それに君は、嘘があまり上手でないな "
「実は、そうなんだ……」
一つ溜息をついて、彼に向き直った。
結局、全て話すべきかもしれない。
けれど、どこから、話せば良いのか。
言葉が浮かんでこない。
"君は私と何か関係があるのか "
「……個人的なことは良く知らないんだ。 君の名前も分からない」
"名前も知らない人間を、君は生き返らせてまで、
助けようとしている。 妙な話だと思わないか "
「君を助けたいのは嘘じゃない」
その、作り物のような両眼の奥。
彼も知らない深い闇のどこか。
あの赤い夜に対峙した "彼 "は、この声を聞いているだろうか。
「君が誰でも、過去の何もかも忘れてしまっても、
……いつか思い出して、私のことを憎んでも。
私は君を助けるよ。 それは、信じてほしい」
"君は私と会ったことがあるんだな "
「一度、最後に」
"これは、君なのか? "
「私が君を死なせた」
あの夜、私の目の前で、彼は命を絶った。
私は、彼を止めることも出来たはずだ。
だが、爆発後に原型を留めていたのは
"そうか "
首は、つまらなそうに 両目を閉じた。
「……訳を聞かないのかい?」
"その必要はない "
目蓋は動かず、心を失った人形のように表情もない。
そのまま、眠りの淵に落ちていきそうで、
「君には聞く権利がある」
"……そうは思えないな "
「何故?」
"君が誰を助けたがっているのか、私には分からない "
「私は、」
"それを知りたいとも、思わない。
……こうやって話をしていること自体、意味はないのかもしれない。
なにか、とても 虚ろだ。
私はたぶん、まだ 死んでいるのだろう "
「違うよ。 君は助かるんだ」
それなのに、彼は 二度と目を明ける気がないように、思えた。
「私の言葉が、信じられない?」
"……君は面白い発想をする "
笑いもせず、唇だけが、精巧な細工物のように
微かに赤い舌を覗かせ、温度のない言葉を操る。
"こうして目を閉じれば、君はいなくなる。
君と話をする私もいなくなる。
君と私が何者なのかは、意味を失う。
そのうちに私は眠ってしまい、何もかもが夢と等しくなる。
……何故、死人のままでいては いけなかったのか、私には分からない "
そして、唇も動かなくなり、
溶液を湛えたガラスの中。
全ては冷たく沈黙して終わる。
私は、そこに立っていた。
手を伸ばし、そっと触れた 透明な境界線の向こう。
その静寂に掌を重ねる。
「……それでも、僕はここにいるよ」
きっと、彼は知らない
私はもうずっと、明かない目蓋を眺めてきた
あの、赤い夜
信頼出来る人の全てを失った
その後の3週間、たった一つのことを考え続けた
手の中に残された、小さな欠片のようなものに、再び命を吹き込む
ただそれだけが、心の中を占めていた
「僕は もう何一つ見捨てたくないんだ」
"……君は "
「うん?」
"そこで何を待っている "
「何だろうね」
"前にも言ったが、君がいると、気配がうるさい "
「眠れない?」
"神経が ざわつく "
「私がここにいて、君もここにいるからね。
夢でなく、二人とも生きている」
"君は妙に私を苛立たせる "
「そうじゃないかと私も思ったよ」
そして、再び明いた瞳は。
ニッケルから、クロム、プラチナへ。
光は煌いて私を睨む。 強い視線で私を射貫く。
なにか、今初めて、彼と会ったような気がした。
"君は、何がしたい "
「君を助けたい」
"それは聞いた "
「じゃあ、君は何がしたい」
"私は、何もない "
「それなら、僕に助けられてくれないか」
"……了承を求めているように聞こえないな "
眉根を寄せ、機嫌の悪い顔をした彼は。
けれど、それは拒絶ではなかった。
私はそれが嬉しかった。
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