「これ以上に優先されるべき事態があるかッ
全機関を以て直ちに捜索! 捕捉次第、射殺しろ。 奴に裁判など必要ない!」

荒々しく吐き捨てると、ピョートルは己の背後で扉を閉めた。
部下が慌てて走り去る気配が遠ざかり、
そして、消えた。
独りになった彼は詰めていた息をゆっくりと解いた。
肋骨の内側で強く、速く打つ心臓の 心地良さ。
知らず、僅かに唇が緩む。

モスクワ KGB本部 局長室。
ソ連の暗部を統轄する男は顔を上げた。
広々とした一室は程好く暖房されているが、窓の向こうの夜闇は静かな雪が落ちる。
その夜の下、彼の部下達は総力を挙げ、ある場所を特定しようとしている。

先刻、この国の最高指導者が消えた。
生誕式典の最中、行方知れずの同盟者を救うため、飛び出して行った。
そして、そのまま帰らない。

彼の向かった先は、ピョートルも分からない。
けれども、そこで彼を待っているのは、彼自身の "死 "だという。
今日の何もかも最初から仕組まれていたとも知らず、彼は罠の中に自ら飛び込んだ。
式典に出席した無能達の内、誰がこんなことを予感していただろう。
彼は、もう帰って来ない。

口許が引き攣るのを感じた。
手で押さえると、嘔吐を堪えるようにこぼれた、笑い声。
胃の底から込み上げて、身体の芯を捻じ曲げてゆく。
今日、スーパーマンは死ぬ。
やっと目の前からいなくなる。


喉が渇き切っていると思った。
酩酊したような足取りで酒の用意をした。
祝杯なら全てが終わった後でじっくりと味わう。
これは、そんなものではない。
グラスの中身を一気に呷る。
すぐに次を注ぐ。
手が震えて大きく溢れた。 構わず飲み干した。 そして次を。
若造だった時分には、これのおかげで身体を壊しかけた。
まだあの父親が生きていた頃、秘密警察の一員として活動していた頃だ。
あれ以来ずっと控えてきたが。

ボトルを半分ほど空けたところで、ようやく正気づいたように思えた。
部下達が首尾良くその場所を見つけられれば良いが。
この件にはアメリカも関わっている。
そちらの動向も探らせた方が確実だろう。
一刻も早く、確かな情報が欲しい。

ソ連を人類史上最大版図まで繁栄させた大統領が、無残にも倒れ、
暗殺者であるテロリストもその日の内に射殺された、という報告を。



この都市の地下。
凍てついた深淵で、亡霊と会った。
漆黒の影は、スーパーマンを排除する方法があると言った。
そのために手を貸すことなど、造作もなかった。
己が俗物であることは良く理解している。
迷いもしなかった。



ピョートルは酒を注いだ。
指はもう震えなかった。
杯を満たす上質の酒は、どこまでも透き通る光のようだ。
一息に空ければ喉を滑らかに下り、残らず臓腑に染み渡る。
血潮の中を駆け巡り、腹の底に重く沈めたものまで浸透する。
遂に事を成したという高揚は、酒精よりも強く神経を酔わせるが、
奥底から湧き上がるものは、いつもいつも、どす黒く染まっている。
重く、暗く、冷え切っている。

ピョートルは独り、グラスを握る。
酒で濁り始めた両目の奥、底冷えする光が揺れていた。






ピョートルは、過去に、恐ろしいことをした。
もう20年以上前、彼の父親であるスターリンが健在だった頃。
小さな子供の目の前で、その両親を撃ち殺した。
子供の父親は、当時既にソ連の輝かしい象徴となっていたスーパーマンを
プロパガンダとして利用する政府を批判した。
そして、ピョートルの職務は、そんな人間を探し出し、処分することだった。
だから殺した。
二親とも殺した。
子供は、まだ十才にもならなかっただろう。
父と母の血溜まりの中に跪く姿が煩わしく、
両親を射殺した銃で、その子の腕を撃った。

あまりに 恐ろしいことをしてしまった。

子供の瞳を見た瞬間、初めてそう気づいた。
怖いほど澄んだ瞳が、両親の屍から、彼等を撃ち殺した者に視線を移した。
泣きもせず、ピョートルを見た。
けれども、その瞳の中には何もなかった。
ただ、闇だ。
凍てついた奈落はそこで時間を止めた。
あれはもう、幼い子供の瞳ではなかった。

そうさせたのは、ピョートルだ。

後になって子供の消息を調べたが、その後を確かに知る者はなかった。
寒空の下、誰に知られることもなく、野垂れ死にしたのだろうか。
その未来を永遠に捻じ曲げられて。


(だから、銃口を自分のこめかみに押し当ててた)
(だから、引金に指をかけた)


顔を上げても、冷たい夜闇はどこまでも続いている。
このまま、この国の下らない秩序のために、
血を分けた息子を愛してもくれない父親への忠誠のために、
銃声の轟く夜闇を いつまで彷徨えば良いのだろう。
磨り減って、削り落ちて、もう消えてしまいそうなのに。


(だから、終わりにしようとした)




そんな男の命を、スーパーマンは助けた。
真摯に話を聞き、慰めの言葉をかけた。
あれはいつもそうだ。

だから、
だからこそ

どうしようもなく 憎かった。







その後すぐスターリンは死んだ。
そして、初めは頑なに固辞していたスーパーマンが、ソビエト連邦の国家主席の座に就いた。
ピョートルもそれを彼に勧めた。
その後も、彼の不得手な領域を請け負い、支えてきた。
人の世の生む闇には、ピョートルのような人間こそ相応しい。
腹の底に、決して澄むことのない暗黒を潜ませた人間が。


そんなピョートルを、あのテロリストは見透かしていた。
それ故に、ピョートルを共謀者として選んだつもりでいる。
しかし、ピョートルも彼を選んだのだ。
バットマンのマスクの下にある顔は分からない。
だが、その皮一枚剥いだ下に潜むものなら、初めて会った時に覚った。
同じものと慣れ親しんできたのだ、ずっと。
だから分かる。
あの男の腹を裂いてみれば、血と辛苦を啜り育った怨嗟の獣が顔を出す。
誰にも教えず、誰も気づかず、胸の底を焼き続けた黒い憎悪がそこにある。

あれは、やはり亡霊なのだろう。
ピョートルと同じく、一度この国によって葬り去られた人間の、成れの果てだ。


だが、それももう、終わりだ。
スーパーマンは墜ち、亡霊も再び地の底に葬られる。
ピョートルはここに重い枷を降ろして行く。
倦み疲れた苦い憂愁を忘れ、新たな光の差す方角へと踏み出す。
そして、父親の全てを引き継ぎ、今度こそ正しい自分を得るのだ。


かつて、あの子供の瞳を、何よりも恐ろしいと思った。
決して許され得ない罪を犯した。
恐ろしく、呪わしく、救いを求める神もなかった。
しかし、結局は。
罪の重さと恐怖が心臓を押し潰すことはなく、
どこからか真の正義が現れ、ピョートルを断罪することも無かった。
赤錆びた泥濘は終わることなく続いたが、這い蹲って足掻いた末に、
今、光が垣間見える。
だから、思うのだ。
この世には、本当に恐ろしいものなど、ないのかもしれない。



ピョートルは、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。
飲み干したそれは、清流のように喉を流れ落ちる。


国葬の手配を してやらねば。
旧知の友として、スーパーマンと呼ばれた男を弔い、
新たな国家元首として立つのだ。




けれどその時、彼は全く気づいてなかった。
それは人間の知覚限界を遥かに凌駕していた。
全ては一瞬で、彼には知る由もない。
衝撃波は音よりも速く到達した。


気づいた時、ピョートルの身体は宙に投げ出されていた。
床に背中から叩きつけられ、息が詰まる。
何が起きたのか分からない。
見れば床一面、窓に使われた強化ガラスの破片が散乱している。
立ち上がろうと手をつけば、そこには大きなコンクリート片。
何かが、局長室の窓を外壁ごと破壊したのだ。

顔を上げれば、濃紺の夜空は 淡雪が舞う
そこに翻る、大翼のような真紅の

「ピョートル」

深い声が名を呼ぶ。
静かな、けれども 底知れぬ何かを抑えつけるような、声が
己を裏切った者を見据えていた。
ピョートルは答えられなかった。
スーパーマンが、そこにいる。
中空に佇むその姿は、ピョートルから全ての意志を剥ぎ取った。

彼の右腕が抱くのは、屍のような女。
艶やかだった黒髪は老婆のように変わり果て、
曇ったガラス玉の瞳は、そこにいる愛しい男すら映していない。
そして、彼が、左の腕に抱いている物は

「君の友人だと聞いたんだ」

頭部全体を覆う黒いマスク。
口許だけを露わにした、特徴的なそれ。
仮面の下に夜叉の憎悪を潜ませたテロリストが。
今は、奇妙な静けさで、彼の腕に収まっている。
その首から下の身体はいったいどこに忘れて来たのか。
赤い雫が、ぽたりと落ちた。

「それは本当かい」

両腕に死を抱き、
腕も胸も頬までが、凄惨な赤を滴るほど浴びて、
スーパーマンは、ピョートルを見下ろした。
翳ることのなかった蒼天の瞳は、紅蓮の坩堝。

ピョートルは動けなかった。
足が完全に萎えていた。
信じられなかった。
そうなるよう仕組んだのは自分自身であるにも関わらず、
その目の憤怒を、彼の嚇怒を、信じられない思いで見返すしかなかった。
どこかで、旧友の中にはそんな感情は存在しないと、思い込んでいた。

何か 言わねば。
何でも良い。 今すぐ弁解しなければ。
それなのに、阿呆のように言葉が出てこない。
知っているのだ。
この世界には、決して許され得ない罪など、いくらでもある。


淡雪が風に舞い
床に落ちた。



答えてはくれない友人に、
兄のようにも思っていた男に、
スーパーマンは問うことを止めた。
ただ 穏やかに、諦めたように、一言告げた。

「これからの話をしよう」


赤い目をした微笑みは、慈父のようだった。


























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