二月 モスクワ。
宵闇の風は、酷い。
肉を削り落とすほど冷たい。
けれども、ビルの屋上から睥睨する彼は、
暗雲を圧する黒い雷鳴のように、宣告を下す。


「死にたければ、そのままそこで待て」

「生きていたいのなら、地獄の底まで走れ」


彼は、常に選択肢を与える。
宣告を聴いた者が、己は生きるに価すると信じるのなら、
今すぐ逃げ出せば良い。
狂ったように。


そして、見渡す都市が、大きな爆炎を五つ咲かせた。






































「昨日のあれは、奴の仕業だって話だ」

魚の燻製を がぶり。
ビールはジョッキにたっぷりと。

「けど、あいつはとっくに死んだんだろ?
俺が聞いた話じゃあ、奴は捕まってシベリア送りになったって噂だ。
その日のうちに×××が埋めちまったらしいぜ」

訳知り顔で言う、もう一人。
特大のジョッキになみなみ注いで。

「そんなのは×××が流したデマだろう?
実際あいつは昨日の晩、議事堂に、国立博物館に……あとは何だ?
とにかく中央のデカイ施設を五つも爆破しやがった!
全く頭のイカれた話じゃねぇか……」

三人目が蜂蜜酒を ちびりと舐めた。

「そのうち "大人しく "なるさ、他の連中みたいに」

真昼の安食堂で、三人の親父が話し込んでいる。
昔からの習慣だった。
この時間、カウンターもテーブルも、昼食の客で埋まっている。
賑やかな店の中は、"ちょっとした"噂話をするのに丁度良い。
ソビエト連邦 首都 モスクワ。
表通りから奥に入った路地の、入口の狭い店で、
昨日も今日も親父達は世間話をする。

「この新聞見ろよ。 昨日の爆発は全部、事故だってよ」
「そんな大事故が同時に起きてたまるか!」
「起きたらすごい偶然だな」
「どう考えてもテロだろうがッ! とぼけやがってよ……。
ただの事故に軍警の武装ヘリが何機も何機も来るかァ?
人の頭の上ブンブン飛びやがって! ついに戦争が始まったかと思ったぜ」

ばさりと新聞を畳み、テーブルの端に置く。
第一面の記事は、昨晩の、政府関連施設の爆発事故。
しかし、迅速な避難指示と救助活動により、死傷者は無かったとある。
以前なら、このモスクワで重大な災害が起きたと言えば、
アメリカの科学者が造った怪物達のことを指したものだが。
今、メディアが取り扱う記事は、たとえばこの爆発事故のように、
"尋常 "な事件がほとんどだった。

「×××のヘリは、建物が燃えるのなんか初めっから無視してたっていうぜ。
あいつらの目当ては、爆発を仕掛けた野郎の方だ。
猟犬みたいに街中嗅ぎ回ってよ、追い立てたんだ。
あいつら最初からそれを狙ってやがったんだ!」
「見てきたように話すなァ おい」
「でも、奴は逃げ切った! 今回も奴は生き延びた!
 "バットマン "が何者なのか、今も謎のままって訳だ」

いつからか、この街の闇夜には
誰も正体を知らない影が潜んでいる。
この国の体制を、秩序を、嘲笑う、真夜の道化師。
漆黒の亡霊は、蝙蝠の姿をしているという。

「西側の工作員だろ」
「頭のおかしい病人だって噂もある」
「"病人 "ならそこら中にいやがる」

くいっと顎をしゃくった先は、
さして広くもないカウンターの、端の席に座る男。
紅茶を前にした幸福な笑顔は、いつまでも幸福なままだ。

「もう頭の方を治療済みだがな」
「……よォ、おまえちょっと、飲みすぎだ」
「嫁さんに叱られるのは俺達なんだぜ?」
「いいから聞けよッ
いいか? おまえら……。 俺も、おまえら二人も、一緒にここで育ったんだ。
この街が変わったのを知ってるんだ。
確かに、昔と比べたらこの国は良くなったよ。
店に行きゃ商品がちゃんとあるし、物乞いの列もどこかに消えた。
何だか良く分からねェ理由で横っ面を打ん殴られてた時代と比べたら、今はどうだ?
随分と恵まれたもんじゃないか、俺達は」
「ああ、そうだ。 平和になったもんだ」
「だから俺は本当に、感謝してるんだぜ? スーパーマンに。
あの人のおかげで色んなことがずいぶんと変わったもんだ。 聖者みたいに立派な人だ!
……なのに俺は時々、嫌ァな気分になるんだ」
「それはおまえ、悪い酒だ」
「ああ、俺もおまえも飲んだくれのジジイだ!
それでもな、俺は、あの笑ってるだけの連中を作ってる奴等より、
KGBに追われてる頭のいかれた蝙蝠の方が、マトモな奴に思えるんだよ……」

呟くような声は、しかし言葉を濁すことなく、
残りの二人を黙り込ませた。
安くて美味いこの店は、いつもどおり賑やかに混み合っている。
白い花の鉢植えを飾った窓から覗く路地は、昔のままだ。
けれど、この街は 変わった。



「……おまえまで治療されたら、俺達はいったい誰と飲むんだ?」
「自分がジジイだって分かってるなら、今日はもう大人しくしてろ」
「な? ほら帰るぞ。 昼飯の時間も終わりだ」
「その "時間 "って奴がなァ、俺は」
「よしよし、帰ろうな」













平和な国の、平和な街は、
心臓を、歯車が回している。
刻む時間は、規則正しく、狂いなく精緻。
偉大なる秩序の世界で、人々は暮らしている。

だから、そこから外れた 彼は、 狂っているのだ。

サーチライトに切り取られる闇夜
降り注ぐ銃弾の雨
交叉する火線

彼が追われるのは、狂っているからだ。

肉を削がれ
骨を砕かれ
尽きず流れる血は
もはや誰のものかも分からない

それでも彼が駆けるのは、やはり狂っているからだ。
(あるいは、彼は道化師そのものだ)

闇夜から現れる漆黒の亡霊は、
混沌を率いて跳梁する蝙蝠の翼。
笑わない道化師が、どれほど恐ろしいものか。
闇の底から睥睨し、暗雲を圧する黒い雷鳴のように、宣告を下す。

狂っているのは、いったいどちらなのか。
























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