「……標的、確保できませんでした。
強襲部隊が取り囲んだのは、ダミーだったそうです」

背中から聞こえる部下の報告に、ピョートル・ロズロフは振り返らなかった。
見渡す都市は、異様な空気に包まれている。
五ヶ所から噴き上がる爆炎、禍々しく染まった夜空。
地上と空から追跡し、照射される、幾筋ものサーチライト。
壮絶な夜景を前に、彼は不動の姿勢を崩さない。

「捜せ。 奴は不可視の怪物ではない。 陰に潜んでいるだけだ。
市民の中に紛れ込んだ可能性がある。 戒厳令を許可する。
少しでも不審な動向をする人間がいたら、全員拘束しろ」

その声に鞭打たれたように部下は動いた。
ピョートルは、消えた獲物を追って騒然する地上を、じっと見下ろす。
大柄な方ではないが、五十歳になった今も引き締まった身体をしている。
ソ連国家保安委員会の局長を務め、軍事警察を統率する彼は、
未だ第一線で檄を飛ばす苛烈な司令官だった。
人々を救済するスーパーマンを、ソ連政府の "表"側と言うならば、
長年KGBを率いてきた彼は、正に "裏"側の人間だろう。
この国の土台を支える務めだと、彼なら答えるかもしれない。


二月 モスクワ。
近く大統領の生誕式典が行われる首都は、だからだろう。
今月に入って既に二度、反政府テロリズムの標的になっている。

主謀者は "バットマン "

しかし、主謀者という表現は、的外れなのかもしれない。
ピョートル以下、KGBはこのテロリストの正体を掴めていない。
個人なのか、単一の名前を使う複数か。
背後にいるのは何者か。
過去、バットマンが関係したとされる事件は、ソ連領土内に驚くほど広く分散している。
にもかかわらず、その姿を実際に目撃した者は少ない。
後に残されているのは、鮮やかな手際による惨状。
だが、姿が確認される場合は、常に一人だ。

闇夜を率いるような黒いケープ。
口許だけを露わにした黒いマスク。

証言から得られた情報は少ない。
遭遇した憲兵の一団は、瞬時に昏倒させられた。
悪鬼に出会ったと震えながら訴える兵士は、今も病院にいる。
"バットマン "の名前には、必ず恐怖が付きまとう。
恐怖は漆黒の亡霊となって人の心に巣食い、伝染していく。
水に落とした黒いインクが、波紋を描いて広がるように。
報道規制は既に行った。
だが、無形の影響を押し留めるには至らない。

そんなテロリストが、ピョートルの追う獲物だ。
正体は精神異常者だと論ずる者もいるが、そうは思わない。
むしろ、全く逆だ。
極めて冷静に、何もかも計算し尽くし、行動する。
その実行力に内心では舌を巻く思いだが、
テロリストは、テロリストだ。
それを革命家とでも勘違いする輩が実際いるのは、全く馬鹿げた話だ。

いずれにしろ。
バットマンは、この二月に、このモスクワで、耳目の集まるこの都市で、
敢えて派手に立ち回って見せる効果が、いかに大きいか理解している。
だからこそ、ピョートルはその動きを予測出来た。

正規の生誕式典を前にし、幾つか記念式典が重なるこの日。
事前に軍用ヘリと地上部隊を配備させた。
爆破対象に選ばれた五つの施設は、凡そピョートルの推測範囲内、
それぞれが、国家を象徴する大規模な建築物だった。
爆破の直前、対象のコントロールシステムを掌握し、
中にいる人間に警告を与えるのも、このテロリストの特徴だ。
そして、爆破の時期を計るため、あるいは、"眺める "ために、
対象を一望する場所に潜んでいることも予測された。

そこまで準備させておきながら、姿を現した亡霊は、
ピョートルの入念な手配を全て無駄にし、
嘲笑いながら闇に消え去った。
後はただ、黒煙と炎に彩られた、気のふれたような喧騒。
赤黒い空をサーチライトが切りつける。
あの整然とした空気は、どこにもない。

ピョートルは、彼の街を見下ろし、後ろに組んだ拳を硬くする。
胸の内に響くのは、銃声。
一発ではない。
多重楽奏となって記憶の底から響き返すのは、
彼自身が銃口を向け、その指で引金を引いてきた、銃声。
鉄錆の臭いが染み付いた赤い道程。
(誓って、私怨ではなかった)
(全ては "国家 "のためだ)

脳への措置による人格矯正が主流となり、
この国から監獄も強制収容所も消えて時が経ったが、
あのテロリストは、肉片になるまで銃弾を浴びることになるだろう。
危険人物を追跡する最中には、予想もしない事態が起こるものだ。


「クレムリンに行く。 "大統領の休日 "を邪魔させてもらおう」
























彼は、一つの巨石と向き合っている。
見上げる高さはホールの天井ほどか。
青灰色した緻密な組織が美しい。
その石塊を、彼は手ずからここに運び入れた。
以来、時間を見つけては、石に触れ、ハンマーを振るう。
造り上げる彫像は古典的なものが良い。
彫る、という行為そのものに集中できる。

ゆったりと、手首を返す。
ずしりと重量のあるハンマーも、細工を厳然と拒む巨石も、
彼にとっては等しく軽く、脆いものなのだ。
壊さぬよう、そっと扱わねばならない。
他者から見れば滑稽なほど繊細な心遣いは、彼には必然だった。

オーバーオールの前が、削れた石の粉で汚れていた。
気づいた彼は空いた手で ぱんぱんと払い落とす。
けれども、その手指にも石の粉はついていて、
まあ いいかと向き直る。

真紅のケープもない。
胸には鎌と槌のエンブレムもない。
あるいは今、ここにいるのは、"スーパーマン "ではないのかもしれない。
寛いだ指の先、何気なくハンマーをくるりと回す。

ハンマーが石を打つ。
石は静かに心を穿つ。
精神の髄が響き返す。
彼はただ、"彼 "としてここにある。
助けを求める声を地球のどこにいても聞き取り、駆けつけるヒーローでなく、
人類史上最大の版図を誇る超国家の最高指導者でもなく、
たった一人の、永遠の孤児のように。


 『クレムリンに戻る。 "大統領の休日 "を邪魔させてもらおう』


それでも、彼には聞こえるのだ。

この星に溢れる "音 "を感じ取ることは、
果てしなく広がる風景の中にいるようなものだ。
確かに風景を眺めてはいる。
しかし、そこに絶えず生起する個々の事象全てを、つぶさに観察してはいない。
意識に飛び込んでくるのは、風景の中に生じた "異常 "や "変質 "だ。
たとえば、テロリスト制圧指揮を取る旧友の声や、
今夜このモスクワで起きた爆破騒動。


ピョートルが、彼を探している。
今夜のことで酷く苛立っている。
じきにこの場所に現れ、あまり楽しめそうもない会話を交わす。
これまでに何度も繰り返された言葉を口にする。

 『テロリストが現れるのは、社会統制が弱いからだ』
 『この社会の永続的な平和のために、我々には為すべきことが在る』
 『我々の父親が築いた時代を思い出せ』

忘れるはずが、ない。
彼もまた、赤い旗の下に育てられた息子達の一人だった。
だからこそ、真に静穏な時代が来ることを願っているのだ。
そこに銃声はいらない。
容易く流される赤い血も。



(ピョートルは、哀しい男だ)
(父親を心から慕い、恨んで、あの日 銃口を自分自身に向けた)



中空で静止していたハンマーが、振り下ろされる。
石が削れる。
形が現れる。
それらは素朴であるから良い。
この星から聞こえる音は哀しい。













(遠い 闇夜を)
(銃声が引き裂いた)
(決して 聞いてはならない音が)
(引き裂いた)
(遠い 闇夜の)

(孤児が泣いている)

























あれの認識は、甘い。

ピョートルは廊下を進みながら、そう考える。
休暇中の大統領の所在を確かめるのに思ったよりも時間がかかった。
否、わざと時間をかけさせられた。
もしピョートルと会う気があるのなら、余計な手間を取らせず自ら現れただろう。
彼は "スーパーマン "だ。
今夜起きた事件も、ピョートルのことも、分かっているはずだ。
それでも状況を放置したのは、民間人の被害が無かったからか。
今日なら、あのテロリストを捕まえることも可能だった。
あれが、その気になりさえすれば。

結局、たかが人間が何をしても
口のきけない赤子が癇癪を起こした程度にしか感じないのだろう。
そういう奴だ、昔から。

 『私は、独裁者ではないよ』

神の如く、全ソビエト連邦の采配をたった一人で振るう男が、
その気なら、地球の全てを赤い旗の下に統一できる男が、良く言う。
あれは、甘い。
統治者としての自覚というものが無い。
いつまでも気紛れな憐れみの情で行動されては、付き合わされる人間の方が迷惑する。
そう進言する気骨があるのは、ピョートルだけだ。
他の連中は何事にも大統領に追従し、
いつのまに "治療 "されたのか疑いたくなるほどへらへらしている。
真に国を堅固なものにしたいのなら、理性ある者の意見を聞くべきだ。

本当に、あれは
あれだけは、いつまでも変わらない。
ピョートルは変わった。 老いもした。
だが、"スーパーマン "は。
時間の流れすら及ばぬように、天空の光輝であり続ける。



扉の前でピョートルは立ち止まる。
この向こうにソ連の国家元首がいる。
彼の生誕式典は近い。

あのテロリストは、何を仕掛けてくる。 どこを狙う。
次に姿を現すとしたら、必ずその日のはずだ。


願わくば
天の高みから見下ろすあれを
一瞬でも引き摺り下ろす悲劇を見せてほしいものだが。


























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ピョートル・ロズロフという人は『SUPERMAN : RED SON』に出てくるキャラクターですが、
どう↑発音するのか分からないので、とりあえずこうなっております。



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