「血だ! 血が出たぞ!」
「鼻血で人は死にません」


向こうで騒いでいる上司に研究助手は冷徹に言い放った。
コンソールに向かい、今の実験事故による被害の程度を調べる。
施設全体に影響する事態にはならなかったようだ。

「いったい何を……」

やっていたのか、と言おうとして止まったのは、
事故の原因である本人が、手に取って戻ってきたものに気づいたからだ。

「今朝これが届いた」

鼻先に突きつけられたのは、透明なケース。
瓶詰の中、たぷん と溶液が揺れる。
中の塊が揺れる。

溶液の中には、人間の脳が浮かんでいる。


「君の所感を聞こうか」

研究員Mは、胡乱げにルーサーを眺め、しかし、無言でケースを受け取った。
彼の上司は世界随一と称賛される天才である。
その行動は常人の理解を易々と超えるが、
そんな上司に慣れている研究助手は、常に無感動な黒いゴーグルも今はなく、
遥かに冷たい眼差しを、ルーサーからケースの中身に移す。

ゆらゆらと しどけなく形を崩し、
かつて人間の一部だったもの。
それは、

眺めるうち、仮面のように端整な青年が、
だんだんと表情を険しくする。

「……組織広範囲に見られる切除……施術者は外科的技術を持つ……
…脳挫傷の跡もあるが……、こちら側の大きく切り取られた部分は、
部位から見て、関係しない。…… いや、これは ……。
この脳は、体積の3分の1以上を切除された状態で、生かされていた。
脳挫傷は施術後、少なくとも4週間以上経った後で出来た、ごく最近のものだ」

助手の推測にルーサーは鷹揚に頷いてみせた。
口許が、奇妙に引き攣った笑みを浮かべている。

「切除の目的は何かな」
「目的?」

きつく眉を顰めた青年がルーサーを睨む。
そこには強い嫌悪があった。

「さぁ。 廃人にするための処分か、でなければ生体実験か。 そうとしか思えない」
「ところが、どうやらこれは "治療 "らしい」

ルーサーは手に持った書類をひらりとさせた。

「君が言うから、わざわざ "彼等 "に頼んでやったぞ」

印刷の具合から見て正規のものの複写だろう。
その上方に印されたマークに、青年は虚を突かれた。
書類の紋章は、ソ連国家保安委員会を意味していた。

「君が手にしているのは、モスクワで死んだあの男だ」










手術用の薄いゴム手袋を着け、銀色の作業台の照明を点ける。

「この紙切れによれば、
彼は五件の爆破容疑で拘束され、ウクライナで4ヶ月前まで収監されていた」
「ドクター、KGBに何を売ったんです?」
「国際平和のために情報提供しただけだ」

明らかに似つかわしくない言葉を耳にし、青年は冷やかな一瞥をくれた。
しかし、そっと両手をケースに差し入れ、それを取り出す。
長い指を保存液がとろとろと伝い落ちる。

「まあ、この取引は、あの平和主義者の異星人が与り知るところではないがね。
残念ながら、私と彼はそれほど親密な間柄じゃない」

実際は、ルーサーはKGBに、レックスコープの特別な顧客を何人か売った。
反共テロリストとソ連の諜報機関がどれほど対立していても、
彼にとっては、どちらも等しく商談の相手だった。

「彼は収監後、"治療 "のためモスクワに移送されている。
6週間ほど入院し、退院後はモスクワ市民として慈善活動に従事……」
「テロリストが、モスクワ市民に?」
「更生して善良な党員になったとある」

銀色の台の上には、"善良な "脳。

「そして、先頃の自動車事故により死亡。 規定により解剖され、遺体は埋葬済。
火葬だったそうだが、脳だけはこうやって残されていた。
まあ、我々に必要な部位も、これだけだ」

手袋をした科学者は、助手を相手に講義を始める。

「脳挫傷は事故によるものだろう。
そして、君の言う "生体実験 "だが、
この広範囲の切除痕が "治療 " によるものだ。
事故が起こる前、モスクワの病院で行われたらしい」

指で広げれば、虚はぽかりと大きくなる。

「私の結論を言えば、この処置は患者の攻撃性を抑制するものだ。
いや、抑制ではなく、除去と言った方が正しいな。
たとえば、破壊活動を繰り返すテロリストの、反体制的な思想、敵対的な衝動を
精神の根元から消去し、従順で、全く無害な存在にする」

助手は吐き捨てるように異を唱えた。

「しかし、こんな方法が成功した例はない」
「そうだ。 無害どころか良くて廃人だろう。
どちらにしろ、まともな社会生活は二度と営めなくなるな。
身体機能にどの程度影響するかは個体差によるが、場合によっては死に至る。
このままなら、の話だが」

科学者の指先は、切り取られた辺りをなぞる。

「この部分には、何かが接続されていた形跡が見られる。
おそらく、脳の内的状態を安定させる補助装置の類だ。
君はあの映像を見て、この脳がこれほど切除されていたと思ったか?
欠損した器官を補っていたものが必ずあったはずだ。
発想としては、脳の機械化、といったところか」
「……技術的に、可能ですか?」
「可能だな。 君も分かっているはずだ。
スーパーマンがソ連に現れ、私が合衆国に現れ、
この世界の法則はかつての普遍性を失って久しい。
私は興味ないが、あちらのサル共にはこういうのが好きな連中もいるだろう。
なら、やるだろうな。
だが、まだまだ改良の余地がある。
あの映像の様子では、患者の知覚は完全には機能していない。
それが彼等の技術の限界なのか、それとも偶々この脳に不具合が出たのか。
レックスコープなら、いつでも相談に応じてやるというのに」

ルーサーは、物の良し悪しは論じる。
より完成度の高いものを目指そうとするのは当然のことだ。
だが、人道について述べる気はない。
たとえ、どこかのテロリストが脳髄をいじられ、
幸せな笑顔を浮かべるだけのガラクタにされたとしても。
人権や、人間の尊厳など、ルーサーにとって詐欺師の吐く台詞に等しい。
まして正義などは。


青年は 人の成れの果てを、静かに見据える。
沈黙は淡いものではなかった。
やがて、凍てついた唇を解く。

「……あなたは、これを行っているのが、ソ連政府だと言うんですね」

ルーサーは、軽く頷いた。

「まあ、事実だ。 囚人を移送し、国営特別病院で施術する。
死後は解剖して脳に接続された装置を取り外す。
正規の手順を踏んでいるのなら、容易いだろう?
それにこれは、映画にあるような魅力的な "陰謀 "ではないよ。
彼等には隠すところがない。
モスクワの "彼等 "自身がサンプルを一つ提供してくれたぐらいだ。
この処置は既にある程度の規模で行われているのだろう。
今はまだ準備期間だとしてもね。
じきに、処刑と粛清に替わる公明正大な更生手段として、認知されるようになるさ。
この方法なら、人命が損なわれることはない。
さらに、処置を受けた人間は、二度と反社会的な行動を取らない。
社会の善良な一員として更生し、慈善活動だったかな?
まあとにかく、平和的に生きていくんだろう。
しかし……、人間の脳などいくら外部から弄り回したところで、
建設的な成果は得られないがね」


助手は黙って聞き終えると、
抑揚のない声で切り捨てた。


「このことは、"彼 "も、知っているんですね」


青褪めた横顔を、ルーサーは値踏みするように眺めた。

「……なんだ、意外と平静じゃないか」

つまらん、と一言付け足して、地下研究所をぐるりと見渡す。
まだ造りかけだった "オモチャ "は、うっかり装置ごと吹き飛んだらしい。
一人で実験していると、こういうことも間々あるものだ。
朝に届けられた荷物は、少なからず考えさせるものだった。

「正直なところ、私は驚いた。
認めよう。 まさかこうなるとは予測していなかった。
国家元首となった彼は、死刑を完全に廃止した。
不合理な粛清を止め、司法制度の透明化に努めた。
地球上で最も強大な生命体は、人をそれほど脆く、貴重なものと考えているらしい」

もし、彼が愚直なほど善良でなかったら、
人々は、地球の外から来た彼を、大統領として迎えなかった。
こんなにも、彼を愛さなかった。


「それでも、モスクワで行われていることを、彼は承知しているだろう」



それを、僅かでも 哀しいと感じるのは、
心のどこかで、"スーパーマンはそれを許さない "とでも思っていたのか。
全く己の純情と浅薄さに落涙する思いだ。
そう考え、ルーサーは唇を歪めて嘲笑う。


「さて、これから彼は、どうなるだろうな?」
「さあ。 どうでしょう」


助手は、薬液まみれの手袋を捨てた。
そして顔を上げる。
藍色の瞳は光もなく澄み渡り、闇を見据えていた。
氷雨の夜を行く人のように。






「気分が優れないので、今日はもう帰ります」

























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