浅く、とぎれ 途切れて 、 どこに喉は 逃げ去った
走るように
溺れるように
しがみつくのか つかれたか
夢 の中
アラームが鳴る。
枕元でアラームが鳴っている。
カーテンを透かして朝は訪れた。
ベッドの上、白いシーツに包まれた、その生き物は動かない。
僅かに覗くのは黒髪。
短夜を愁い、きつく眉を顰める。
アラームが鳴っている。
鳴っている。
暫くして、シーツの中から指先が現れ、肩まで露わになり、
腕はまるで、一つの静物のようで。
しなやかに張り詰めた薄光の中、横たわる。
それは実に無造作に傷つけられている。
こちらには大きな裂傷、
内側には縫合の痕、
肉を貫通した銃創、
肌を引き攣らせる火傷、
癒えた上からなお深々と刻み付けた数々。
何者が彼を悩ませ、こうも摩耗させてきたのか。
彼は誰にも明かさないだろう。
静物の長い指は、青白い繊細さ。
アラームが止まった。
シーツの塊がばさりと動き、気怠い身体がようやく起き上がる。
サイドテーブルのコップを取り、中に残っていた水を飲み干す。
コップの置かれた横には、錠剤の包み。
慢性的に眠りは浅く、朝は泥のように重い。
手を引いてくれる者もなく、バスルームまでの道程は遠い。
研究員Mのアパートは会社のものだ。
充分な部屋数と、広い間取り。
日当たりも良く、窓からはデイリープラネット社の特徴的な姿が見える。
だが、このアパートは、彼がほんの数時間ベッドで休むためだけに使われた。
住み始めてそろそろ一年になるが、どの部屋も白い壁は白いまま、
絵の一枚も花もない。
そこに人間が生活している匂いは、ほとんど感じられない。
それでも、今日のリビングは。
昨日脱いだスーツもシャツも、そのままソファに放っておかれている。
幾分すっきりした顔でバスルームから出てきた彼は、
リビングの様子に気づくと、暫くの間、立ち止まった。
濡れた前髪が額に落ちかかるのを掻き上げ、
ぼんやりと ただ 見ている。
そうやっていてさえ、彼は容貌の整った青年だった。
もし、戯れにでも柔らかく微笑んだなら、きっと艶やかに華やぐのだろう。
だが実際は、寒々しい部屋のとおり、彼が笑うことはない。
何も面白いことなどないように。
心を動かすものなど何もないように。
素顔の時でさえ、冷やかな仮面が張り付いている。
ただ、こうやって独りでいる時だけは、
その仮面すら欠落するのかもしれない。
彼は小さく欠伸して、会社に行く支度を始める。
あまりぼんやりもしていられない。
近くのクリーニング店に昨日の衣類をまとめて頼み、
道を行く途中で朝食を済ます頃、
彼は 研究員Mの顔になっている。
モスクワで一人の男が死んでから、一週間ほど経った。
ルーサーのコンピュータから引き出した商談の記録によれば、
男は過去、レックスコープと公に出来ない類の取引をし、無償の援助も受けている。
ルーサーは男と直接の面識はなかったが、取引のことは承知していた。
男は、東欧を中心に活動する反共産主義テロリストだった。
取引は二年前。 研究員Mがレックスコープに出向する前だ。
その男が、何故モスクワで轢死したのか。
「偶発的な事故だろう。 スーパーマンとて死にゆく全ての命を救えるわけでない」
同じ映像を見ていたルーサーは、そう答えた。
それは事実だろうと研究員Mも思う。
だが彼は、ルーサーの動向と研究を報告するという口実でCIA本部に赴き、男について調べた。
7ヶ月前にウクライナで拘束されたという記録を見つけたが、その後については分からない。
男がモスクワで死んだことを、彼は報告しなかった。
男は、笑顔のまま、死んだ。
突き詰めれば、彼が拘っているのは、そこだ。
ソ連政府の施設を爆破させた容疑で逮捕された男が、
7ヵ月後、首都モスクワを自由に歩き、幸福な笑顔で死ぬ?
銃殺刑はスーパーマンが国家元首になった時に廃止されたというが、
政治犯は今でも一生監獄か、強制収容所行きだろう。
だが男は路上で死んだ。
何故だ。
それに、あれは本当に、酩酊していたのだろうか。
レックスコープ。
峻険な外見の本社ビルは、デイリープラネットと並び、メトロポリスのランドマークになっている。
巨大企業の本社は、今日も大勢の人間を飲み込んでは吐き出す。
彼等の流れに研究員Mもするりと紛れ込む。
数多い社員の内、100人は会長のチェスの相手をするためだけに雇用されていた。
会長のチェス好きは少々、度の過ぎたところがあり、
会議中でも執務中でも彼等100人と同時にゲームを楽しむ。
研究員Mは、チェスは嫌いではないが、
そんな会長の相手をする義務は皆無だと思っている。
出社すると、彼はまず自分に宛がわれた部屋に行く。
幹部クラス用のオフィスだったが、大半の時間を地下研究所で過ごすので、
アパート同様、彼個人の物はほとんど置かれてない。
ただ、明らかに違う点と言えば。
窓の傍、明るい日の差す場所に置かれた、月下美人の鉢。
彼が持ち込んだのではない。
たった3ヶ月で辞めたという前任者の残した物だったが、
この熱帯植物を、彼はそのまま世話している。
これという理由はない。
そこにあるから、と言えばそうなのだろう。
月下美人は今、蕾が一つ ついていた。
その日も、鞄を置くとまず、大きく育った緑の中にある蕾に目をやろうとした。
だが、視界の端を赤い点滅が射る。
デスクにある電話機の、地下研究室に繋ぐボタンが明滅している。
さらに、呼び出し音とは異なる、低く唸る警告音が鳴り始めた。
それは、何か想定外の事態が地下で発生したことを知らせるものだが、
ここでは良くあることだった。
研究設備の耐久度を超える出来事など、地下で造られている "オモチャ" の
性質を考えれば当然で、日によっては何度も何度も警報が鳴り響く。
研究員Mは、顔色一つ変えず、部屋を出た。
急ぐ素振りでなく、しかし足早に、
出社した時に使ったエレベータホールとは逆の方に歩く。
廊下の突き当たり、研究員専用の、地下へ通じるエレベータ。
IDカードを認識したドアが開く。
乗り込んで、彼は気づいた。
良くある事態なのだ、これは。
普段なら、一度の警告音など無視するか、
どうせ地下に行くのだから、部屋で白衣に着替えてからと思うか。
けれども、彼はボタンを押した。
スーツを着たままの彼を乗せてエレベータは降りていく。
表情を隠す黒いゴーグルも今はなく、
真っ直ぐにドアを見据える双眸は、厳しい藍色をしている。
視界の端、赤い明滅の残光。
静かに、静かに指を動かし、確認する。
神経は末端まで研ぎ澄まされている。
彼は時に、自分の感覚が直接訴えるものを、何よりも信じた。
そして、地下に着いた。
開き始めたエレベータのドアから黒い影が滑り出て、駆ける。
殺風景な廊下の先、吹き抜けとなって広がる空間が、既に巨大な研究所である。
その先は壁に沿って設けられた階段を使わねば、底まで降りられない。
だから、影は飛んだ。
躊躇うことも、下からの高さを一瞥することもなく。
転落防止の柵に軽く手をかけ、
しなやかな身体は、無音の虚空に踊る。
地の底に降り立った彼は、闇を裂いて不気味に乱舞する光を見た。
発光源は、二階ほどの高さがある円柱型の大きな装置。
透明な内部に閉じ込められた光が咆哮し、中にあった何かが塵と化した。
暴発しようとする光の圧力に耐え切れず装置全体が激しく揺さぶられる。
青白い火花が辺りに降り注ぎ、異臭が漂った。
ルーサーの姿は、ない。
危険区画を閉鎖するシステムは、正しく作動していた。
端末を操作した研究員Mは、分厚い隔壁が降り始めたのを確認する。
こうなっては、事態を止めることは出来ない。
今は事故の被害を最小限に留めるだけだ、が。
その時、ひょいっとルーサーの顔が覗いた。
ちょうど装置の向こう側にいたのだろう。
物思いに耽るように通路をゆっくりと歩いている。
すぐ横で、怒号する光の渦がこの瞬間にも溢れようとしている傍で。
「ドクター!」
警告は、人を打つ独特の強さがあった。
それでもルーサーは気づかなかった。
思索に深く深く没入し、周りが見えてない。
隔壁は降り続ける。
暴走する機械の周囲四方を囲むように、設計者本人を内に閉じ込めるように。
研究員Mの舌打ちと、彼の身体が駆けたのは、同時だった。
遂に大きく爆ぜた光が空間を飲み込む。
その時には、駆け抜けた影は小脇に上司を抱え隔壁と床の隙間を滑り出ていた。
隔壁が完全に降り、閉鎖が完了する。
瞬間、内部で生じた爆発は一度で終わらず、衝撃は地下全体を揺さぶった。
そして、やがて静かになる。
膝を着いた姿勢で衝撃をやり過ごした研究員Mは、
背後の隔壁を確認すると、緊張を解いた。
その彼の身体の下に庇われていたルーサーは、
ようやく自分の状況に気づいたのか、はっと顔を上げて彼に言った。
「わ、私には妻がいるぞ!」
研究員Mは、一瞬きょとんとした後、
良くしなる平手を喰らわせた。
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