いやに広い沈黙だ。

床には臓物のようなコードが這い回り、
そこかしこ、大小多種の装置や機械は、
薄闇の底でうずくまり、あるいは身を伸ばして奇形の影となる。
まるで、巨大な生物の腹の中に迷い込んだような。

いやに空虚な沈黙だ。


そんな光景の中に、研究員Mは一人で座っている。

解析作業は全て終わり、結果も記録した。
デスクに置いたコーヒーも、とっくに冷めた。
巨大な地下研究所は、ただ彼の周りに明かりを残し、
茫漠とした薄闇の向こう、機械達が生命のない呼吸をしている。

ルーサーは上階に行った。
今日はもう戻らないだろう。
研究所の真上は、彼が会長を務める複合企業体 "レックスコープ "の本社ビルがある。
この地下施設で特別製の "オモチャ "を開発するのは、言わば趣味の類だ。
人生をかけた趣味だ。
だからこそ利益を考えず、資産と情熱を思うまま注ぎ込む。
もちろん、利益を生むならそれに越したことはないが、
あくまでもレックスコープの製品は、その性能だけでなく、
安全性と利便性に定評のある、一般用の "兵器 "である。
異星人に対抗する危険な技術など、普通の人間に売りつけるわけにはいかない。
ルーサーも実業家としてその辺りは弁えている。

もっとも、公正な価格以上に自社の製品を高く評価してくれる顧客には、その限りではないが。
レックスコープの顧客の層は厚い。

実業家としてのルーサーは、やはり有能で、熱心だ。
顧客獲得と製品の品質向上のために、購入者の特別な事情に配慮もする。
たとえば、ソ連が版図を拡大する中、反共産主義武装勢力も増えたが、
彼等には、開発中の新製品を無償で提供し、テストに協力してもらう。
人間が使うものは、実地で人間が使わねば正しい成果が得られない。
だから、製品テストに協力する彼等に、そのための資金援助をすることもある。

無論、全て詭弁だ。
ルーサーは結局、戦火と内紛が決して消え去らない世界に乗じて、
利益を貪り、更に混沌を広げようとしている。
軋みを上げる世界を、見捨てることが出来ない "彼 "の、
善良な翼を少しでも鈍らせると考えて。



研究員Mは、所属する部門が違うので、そちらとは関わらない。
本社にいる時は、もっぱらこの地下に落ち着いている。
いつも薄暗く、仄明るく、
機械仕掛けの玩具を生み出す研究所で、
物憂い影のように座っている。

一番大きいモニターは、今は夜。
映像は時折視点を切り替えながら、遠いあの街の様子を伝える。
夜闇は昼間の事件の跡を包み隠していた。
静かな夜だ。
いつもと変わらない、穏やかな夜に見えた。
モスクワは、こんな大都市でありながら、暗い路地裏でも犯罪が滅多に起こらない。
スーパーマンがいるからだろう。
モニターを見るともなく眺めながら、研究員Mは、ルーサーに言われた言葉を思い出した。

『君はまだ、その目で実際に彼を見たことがないだろう?』

黒いゴーグルで表情を隠す彼の、
唯一露わにした口許が、引き結ぶ。
冷えた指先はキーの上へ。
薄闇の中に輪郭が消えていたモニター達が、次々と息を吹き返す。
青褪めた雪明りの夜、独り立ち尽くす人のように、
彼はじっと見上げる。
それは、コンピュータに蓄積された、過去の記録だ。

昼と夜と、
朝と夕と、
同じ街と、違う国と、

99のモニターは、現在から過去の、99の異なる場面を映す。
けれども、どの中心にも同じ姿があった。
真紅のケープ。 赤いエンブレム。
天藍の光そのもののような双眸。

"スーパーマン "

研究員Mは、ゆっくりと腕を持ち上げる。
黒い仮面に伸びた指は、しかし触れることなく、そのまま落ちていった。
見上げている間も次々と映像は切り替わる。
99では足りない過去が流れ、明滅し、季節がうつろう。
けれども彼は、それらの記録の中にはない、一つの幻を知っている。


冬晴れは 青
白い街の 凍りついた白い道を
さりり さりりと 歩くたび
雪が砕け 光が砕け
きらきら 見上げた
青空を 飛ぶ

今は遠い幻。



静かに落としたはずの指が、
いつのまにかモニターから視線を外した彼の、右肩を彷徨う。
昔からの癖だ。
衣服の下に隠す、全身に散らばった数々の傷跡。
けれども、指で抉るようになぞるのは、白衣を皺にして鷲掴みにするのは、
右肩に薄っすらと残る、幼い日の傷痕。
どうすれば いいのか
暗闇の底でうずくまった子供のように
影がぐらりと目眩する


「あー、そのだな、君にどんな経緯があるかは知らないが、」

声は突然闇を割った。
スピーカーが発した、記録でない現在の音声。
ルーサーは社長室から見ていたのだろう。
この実験室の中にもカメラは設置してある。

「有益な仕事をするのなら、私は何も言わない」

上段から物を言って、何を言わないつもりなのか。
まさか、その言葉は、目下の若造に気を遣ってやろうとでも、思っているのか。

そう気づいて、研究員Mは愕然とした。
しかし、注意深くその表情を消し去る。
指をゆっくりと肩から外し、哀れっぽく見えるらしい、項垂れた背を自然な素振りで伸ばす。
無様な動揺は意地でも見せない。
後は、何事もなくこの場を立ち去ってしまえば良かったのだが、

「しかし、君は乙女の初恋のように薄暗い情念を秘めているな」

その比喩は、黙殺できなかった。
とっくに出来上がっていた報告書を手に取り、ルーサーが見ているだろうカメラを一瞥する。
黒いゴーグルに隠されているはずの視線は、酷く冷やかだった。
冗談の嫌いな研究助手は、その点についてこれから上司の意見を伺いに行く。

だがその前に、
モニターを操作するためキーに指を置いた。
一瞬にして全ての画像が切り替わり、現在のモスクワの様子を映す。
それらに素早く目を走らせたのは、身に染み付いた習慣だった。
だから、気づいた。

数あるモニターの中の一つ。
真夜中の街を、偶然なのだろう、一人の男が映っている。
酒に酔っているのか、ふらり ふらりと、路地の奥から歩いてくる。
心地よく飲んでいたのかもしれない、幸せそうなその男を、
知っているような気がした。
しかし、どこで。
一瞬思案した指がコンソールを踊る。
コンピュータは、主ではない彼のために、レックスコープの
"特殊な事情の取引相手 "のデータを手近なモニターに表示していく。

しかし、彼がそれを確認する前、
会社の裏情報を勝手に見られたルーサーが文句を言う前に、

ふらふらと 通りを横切ろうとした男は、
気づかずに走ってきた車に轢かれた。
鈍い音だった。

研究員Mは、一歩踏み出した姿勢のまま、立ち尽くした。
画面の中は静かな夜だ。
叫び声も、ブレーキの音も聞こえなかった。

やがて、車を降りた運転手が走ってくる。
ようやく事故に気づいた人々が集まってくる。
画面は、跳ね飛ばされて道路に横たわる男に近づいていく。


男は、奇妙に幸福な笑顔を浮かべたまま、死んでいた。


















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