優しい女の指のようだ。
名残惜しげに、そっと、腕を、足をとらえ、離そうとしない、この茨。
ああ、咲き誇るこの赤い薔薇は、この香は。


気付けば、膝が屈していた。
もう歩きたくはなかった。
このまま優しい茨に囲まれて、眠りに落ちてしまいたいのだ。

どうして、進まねばならないのだろう。
こんなにも静かに、満たされてしまったというのに。



目を閉じれば。
いつか好いた女の、しなやかな腕に抱かれる夢を見た。































「……何、だ?」
聖域まで後一歩に迫っていたはずだ。
闇に紛れ息を殺し、荒野を駆けた。忌々しい結界に守られたその姿は、既にこの目にも見える。
今こそ戦禍の時。
待ちわびた一瞬を、夜は密やかに包み隠してくれるはずだった。
しかし、あれは?
何かが地表を覆い尽くし、ざわざわと這い回る。
無数に絡み合う細い影の中に見えるのは、腕だ。
紋章の刻まれた手甲。
見間違えようがない。あの紋は我等、死をも恐れぬ神の兵たる証。
それが、突然地中から現れた何かに、貪り食われている。
「何がいるんだ……」
夜目にも赤いものが辺りに散っていた。
血液だと思った。
しかし、違う。
この甘い、皮膚の下まで染み込んでくるような、花の香。
近付いてみると、同胞を捕えているものは、薔薇の茨だった。
不意にそれが大きく波打つ。
隠れていた同胞の顔が露になる。
瞳を閉じた彼等の、その恍惚とした表情は。

「……ッ、空に散開しろ! おそらく毒だ」
追いついてきた後続部隊に叫ぶ。
彼等も、同胞達の異様な姿に驚いているが、近付かせるわけにはいかない。
「早くしろ! このまま先に進めば先発隊の二の舞になる」
夜は、聖域は、未だ静かなままだ。しかし、
「敵も我々に気付いただろう。
小宇宙を消して近付くのもここまでだ。各自配置につけ。
空気中に拡散した毒も、あの薔薇も、地の下に潜む根諸共焼き払い、道を作る」
「ですがそれでは仲間が!」
「捨てろ、全滅だ」
まだ、息はあるのだ。
しかしあの安らいだ顔は、もう二度と目を開けようとはしないだろう。
神に捧げたはずの崇高な魂は、既に去ってしまった。
「我々の使命を果たすことだけ考えろ。この命が何のためにあるのか思い出せ。
聖域の破滅こそ我々の悲願、誇り高き戦士だった彼等も、それを望んでいる」
いつかこの日が訪れると信じ、皆耐えてきたのだ。
たとえ何を犠牲にしようと、この機を逃すことなどできない。

陣形が整う。
全員の小宇宙が調和しながら昂ぶり、一点に収束してゆく。
渦巻く熱波に大気は歪み、更に巨大な奔流となる。
「聖域よ、灰燼に帰せ!」
その瞬間、解き放たれる復讐の業火。
大地を融解させ、一面の薔薇も、哀れな同志も灰にし、裁きの槍は聖域に突き刺さった。
水晶を砕いたような光が散らばる。
「やったか!」
聖域の結界を貫き通した。
そう思った。
「気を抜くな! このまま全小宇宙を一点に集中、二度と再生できぬように破……」

その時、黄金の光が。
一瞬で駆け抜けた光に、炎の槍は両断されていた。
引き千切れた小宇宙が悲鳴を上げて霧散してゆく。
「何だ !?」
二つに割れた炎の向こうに、人影があった。
黄金の鎧。黒髪の額から伸びる二本の角。
その腕が横に振るわれる。
光刃が炎の壁を薙ぎ払い、今度は完全に消滅させた。
後はただ、熱風が空しく吹き荒れるだけ。

 " 投降は受け入れん "

小宇宙に"声"が伝わる。
あの聖闘士か。

 " 戦って死ね "

男の姿が闇に消える。
視界の隅を光が走った。
小さな呻きを聞いてそちらを向いた。
隣にいた同胞と目が合った。
どことなくその身体はおかしいように思えた。
彼は首をこちらに巡らし、物言いたげに瞬きする。
その左半身は、消え去っていた。
「ァ……」
糸の切れた人形のように彼は落下し、地面に叩き付けられた。
その音を、誰もが聞いた。
「ぅ、動け!」
詰まる喉を抉じ開け、残った仲間に叫ぶ。
「決して止まるなッ、狙いを定められぬよう連携しろ!」
どうする。
どこから攻撃してきた。
避けようにもあの光を見てからでは遅すぎる。

しかし、光は次々と瞬く。
血飛沫と絶叫が後に続く。
皆、肉体が為し得る限界まで高速移動を続けているはずだ。
それなのに、こんなにも、容易く。
こちらの動きを正確に予測しているのか。それとも追尾する能力が光にはあるのか。
せめて姿を隠した敵の位置さえ知れたなら。

その時、閃光が下方で走った。
切断された首が飛ぶのを見た。
吹き上がる黒い赤、それを真っ直ぐ貫き、一気に肉薄する黄金の。
唐突に理解した。
姿など、最初から隠していなかったのだ。
ただあまりに速すぎる、だけだ。
悟った瞬間、両腕を突き出した。



「ほう」

男の声を、初めて聞いた。
夜闇の中なお輝く黄金の聖衣。
それは、乾く間もなく滴り落ちる赤に濡れていた。
「自分が逃げるだけでなく、俺の方もテレポートさせて聖剣の軌道をずらしたか」
顔の半面を凄惨な返り血で汚しながら、その声は、奇妙に静かだ。
そして気付いた。
周囲には、全くの沈黙しかなかった。
自分一人以外、もう誰の吐息も聞こえない。
「だが完全に転位させる力はなかったようだな」
淡々とした男の声が身体を打つ。
噛み締めた歯の間から呻きが洩れる。
切り落とされた片腕を求め、血は呆れるような勢いで噴き出していた。
痛みを超えた衝撃に身体ががくがくと震えて止まらない。
歪む視界の中で、男の腕がゆっくりと持ち上がる。
「しかし、なかなか面白い」
霞む目を見開いた。
男の両眼に、初めて感情を見た。
「次は避けてみせろ」


叫んだ、ような気がした。
血を撒き散らす傷も、痛みも忘れ、ある限り全ての小宇宙を燃やして、

逃げ出した。






































男は追って来なかった。
行き先が悟られるのを怖れ、テレポートを繰り返したが、追っ手はなかった。
敗残兵など捨てておくということか。
屈辱が、失血で薄れそうな意識を打ち、繋ぎ止めた。


そして、ここに戻ってきた。
針のように天を突く不毛の岩山。暗鬱とした霧の世界。
かつて聖戦に敗れ、犬のように追い立てられた民に、神が最後の加護をもたらした聖地。
地上の歴史から去り、この土地に隠れ住みながら、ひたすら復讐の時を待ってきたのだ。
ああ、明かりが見える。
あの大聖堂では今も同胞達が、今日の戦果を待っているというのに。
いったい、何と言えばいいのか。
再び気の遠くなるような年月を、闇の中で生きろと言わねばならないのか。


無くした片腕が、灼熱の炎のように苛んだ。
重い身体を引き摺り、大聖堂まで歩く。
その明かりは、温かかった。
中にいる誰かが気付いたらしく、扉が内側から開かれた。
「すまん……」
柔らかな光がさっと広がった。
そこにある顔、顔、顔。
戦士を目指す幼い少年、老人、恋人を待つ女。
誰もがこの口から朗報を期待して集まってくる。
その時、なにか冷たい風を、後から感じたように思った。
また誰か入ってきたのかと振り返ったが、ただ夜霧が流れていった。
「……皆、すまない……聖域は」
大聖堂の中に目を戻す。
同胞達は迎え入れるために腕を広げ、こちらへと歩き、そして崩れた。
まるで眠るように。
安らかな寝床に倒れ伏す人のように。
しかし、二度と目を覚ますことはなかった。
彼等は、死んでいた。


静寂が、目と耳を縛り付けた。
舌と肺を氷に変えた。
ただの木偶になった。













ひらりと、白が。
大聖堂の奥、祭壇の辺りで。
司祭の椅子に腰を下ろし、上を見ている。
黄金の鎧を纏った腕が持ち上がる。
「……知ってるよな、たしか」
その指が空になぞるのは、真上に飾られた神の紋章。
「火焔に三花……昔だ、もう随分前の記録にあった」
遠く隔てた記憶を辿るように、告げられる神の名。
「当たりか?」
「……貴様が口にして許される名ではない」
「そりゃあ悪かった。こっちも上に報告書作んなきゃいけないからな、確認だ」
男の顔がこちらを向く。
聖域で会った男ではない。
色のないような髪、薄ら青い水膜の双眸。
大聖堂を、一面に横たわった亡骸を、ぐるりと見渡し、一つ頷く。
「まだ生き残っていたんだな、こんな場所で」
「いつから知っていた」
「いや、知らなかったよ。聖域の誰もあんた達のことを知らなかった。
あんたに付いて来なかったら、俺だってここの存在は分からなかっただろう。
この場所を守る結界はまだ生きていた。ここは……」
「ここは、神がお与えになった最後の地」
「そうか」
男は未だ司祭の椅子に座っていた。
それは、異教の人間になど許してはならない、神聖なものなのだ。
「この地に我等を追いやったのは、貴様達だ」
「ああ」
「我等の神を遥か遠い次元の彼方に封じたのも、貴様達だ」
「ああ」
「そして今日また全てを奪ったというのだな、貴様は」
「ああ」
平然と頷く男の首を両腕で掴み上げた。
このまま縊り殺す。
地獄で待っている彼等への手向けに、せめてこの男だけでも。


だが、男の首を掴んでいる、この腕は?

男の視線が、つっと流れた。
それを追って後を振り返った。
開け放たれたままの扉。
その前に倒れ伏している、片腕を無くした自分の姿。

ああ、そうなのか。
我々の誰一人として、もう生きてはいなかったのか。


「あんたも、行けよ」

男に触れていた腕が、指から青白い光となって、消えてゆく。
支えを求めて腕を伸ばすと、男の手が目の前を覆った。
何か呟いたようだが、もう分からない。

光に全て、満たされた。








































男は、折り重なる屍の中に、立っていた。
青白い鬼火の群を纏わりつかせ、その揺らめく炎を、ただ眺めていた。
そして男は目を閉じる。
全ての光は、闇に消えた。



























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