大きな月が昇っていた。
青い夜だ。
遥かに続く石の階段も、その影も、鮮やか。
階段を上がる足は、ふらり、ふらりと爪先が揺れる。
サンダルの踵が石に擦れるたび、さりり。
右手にはビニル袋。
カップアイスと水のボトル。


夜中に十二宮の石段を上がるとき、デスマスクは殊更ゆっくりと歩く。
ああ、アイス溶けるかな。
なんて考えながら、急ごうとはしない。
それでもいつか、磨羯宮までたどり着いていた。
その上には行こうとせず、私人としての居住区の方に足を向ける。
私宮の奥まで断りなく入りこみ、ドアを開けた。
「やあ、遅かったじゃないか。君が最後だ」
ソファに座っていた麗人が、片手を上げて隣に招いた。
豪奢な金髪は光の滝のように、パジャマの肩を流れ落ちる。
「……何そのお泊りする気満々な格好。つかおまえパジャマ族か、むしろパジャマ属か」
アフロディーテは一向に構わず、毛布を引っ被ってアイスを受け取る。
「君の宮にあったものだな。ああ、少し溶けているじゃないか」
デスマスクはただ唇の端を上げ、自分は水のボトルを取った。
アフロディーテは、柔らかくなったアイスをスプーンで掻き回しながら、聞く。
「それで、彼等は何だった」
蓋を開けないボトルの中で、水がゆらゆらと揺れる。
「ん、良くある話。大昔に聖域と戦争して負けて、地下に潜ってた連中だ。
聖域が中で揉めてんの知って出てきたんだろ」
「またか。増えたな」
「うちみたいに所帯がでかくなればその分、きな臭い情報が余所に広がるのも早い。
仕方ねーよ、これは」
「だが、明日でなくて良かった」
「そうだな。あ、もう今日か」
「特別な日だ。邪魔されたくはない」
「……連中もまさか、知らなかったんだろうな」
「まだ誰も知らないさ、今日がどういう日なのか」

この夜が明ければ、女神が聖域に帰ってくる。
13年前に聖域から消えた女神が。

たぷりと。
揺れる水のボトルは、デスマスクの手を離れ、テーブルに置かれた。
デスマスクは腕を上げ、思いきり伸びをする。
それから毛布の中に入りこんだ。
アフロディーテは彼にアイスを渡す。
「うわ、ホントに溶けてんな」
「君のせいだよ」
デスマスクはとりあえずスプーンでぐりぐりと混ぜてみてから、口に運んだ。
「それで」
「あ?」
「良くある話の続きさ」
「あー」
スプーンを持つ指が止まる。
アフロディーテはそれをじっと眺めた。
薄い色の瞳が瞬きもしない様を、眺めていた。
「あれなー、あれ、もういないんだってよ」
「何だ?」
「だから、あいつらの神様、いねえの、もう。この世界のどこにも」
「それは……」
戻されたアイスをアフロディーテは受け取る。
「つくづく、何だな」
「アレだな」
小さく笑い合った、二人は。
彼等同様、自分達も、救ってくれる神がいないことを知っていた。

「神が去ったというのなら、そんなもの、早々に捨ててしまえばいい。
過去を捨て、戦いを忘れ、普通の人間として暮らすことを選んだのなら、それは幸福だったはずだ。
……しかし、つくづくと、な」

一方、戻らない神に祈りながら滅ぼされた。
他方、まさに戻ろうとする神に刃を向けようとしている。
あるいは、裁かれようと。

アフロディーテは前を見据える。
デスマスクは嘲笑う。
その目には一瞬、憎悪に似たものが走った。
苛烈な何かは、しかし水のように崩れ、偶然にも、哀憐の色と変わり。
やがて、何もなくなった。


アフロディーテは、友人の肩を抱いた。
「……何だよ、意外とガタイのいいお嬢サン」
ひねくれた友人は片眉を上げたが、間近にある澄んだ翠玉の瞳を見ると、
「ちょっと、そういう顔止めてください。うっかり勃ったらショックで一生インポになる」
「安心しろ、嫁にもらってやる」
「え、そう?」
げらげらと笑い出した。


空になったカップが、テーブルに置かれる。

「今日が終われば」
「ん」
「明日になれば、私達は何をしているのだろう」
「そりゃ、あ」
デスマスクは、にっと笑う。
「世界征服ですよ」
子供っぽいその響きを気に入り、アフロディーテも微笑む。
「そうだな。サガがこの世界全てを平らげるんだ」
「楽しいな」
「楽しみだな」

人間の思い描く夢を、現実に。
誰も成し遂げられなかった優しい世界を、あの人の手で。

「その後は」
「後?」
「幸せになろう」
「幸せに暮らそう」
「小さくていい、白い家に住もう。庭に赤く咲いているのはブーゲンビリアだ」
「青い海の傍がいい、毛玉みたいな犬を連れて散歩しよう」
「子供は二人、男の子と女の子だ」
「日曜には皆で公園に行こう」
「仕事が終わって家に帰ると可愛いエプロンをつけた君が笑顔で迎えてくれるんだ」
「うわキツッ。新妻ですか! うん、まあいいよ、やりますよ」
その時、シュラが浴室の方から出てきた。
ソファにいる二人を眺め、なんとなく、眉を顰める。
アフロディーテは美しい微笑を浮かべた。
「間男、だな。夫のいないうちに家庭に上がりこむ悪い男だ」
「忍び寄る夫婦の危機! いいね、憧れの家庭不和だね。そういうのがいいなー、俺」
「君は駄目だよ、奥さんじゃないか」
「あ、そうか。ヨシ来い! シュラ」
シュラは、ボトルの水を飲みながら胡乱げに二人を見ていたが、来いと言われたので、行った。
「ひッ! ちょ、待っ……」
その抱擁は、ゴキン、と恐ろしげな音が響く。
親愛かもしれない情をこめて友を抱いた腕は、続け様に何かが砕けていく音をさせ、
わめく口からはやがて呻きしか出てこなくなり、そして。
手が、ぱたりと落ちた。
「こんなぐらいか」
「そうだな」
頷く傍観者。
シュラは、何事もなかったようにソファに座ると、またボトルに口をつけた。
その途端、跳ね起きたデスマスクがシュラの顔を殴る。が、シュラに拳を叩き落された。
「はーッ はーッ、背骨いくかと思った……。
おまえら、お花畑見たことあるか。今行くとじーちゃんが手を振ってて、そんで、『うろたえ……
ぅああぁあ!!」
何かとても怖いものに会ったらしいデスマスクは、毛布を被ってじたばたした。
「うるさい、寝ろ」
シュラはその頭を殴って黙らせると、毛布を自分の方に引っ張って、目を閉じる。
「え、なに、もうそういう雰囲気?」
返事はない。
「君の頭、まだ濡れてるよー。面白い寝癖つくぞ。ま、意味ないけどね」
デスマスクは暫く待った。
けれど、やっぱり返事はなかった。
テーブルの上、中身の減った水のボトル。
その蓋を、なんとなく閉めた。
急に静かになってしまった。
「アフロくん?」
反対側を見てみる。
アフロディーテの長い睫毛は伏せられ、時折、緩やかに揺れていた。
「もうおねむ?」
先程まで話をしていたのに、穏やかに眠ってしまっている。
二人の間で、デスマスクは居心地悪く身動ぎした。
「……さみしい」
首を巡らし、壁の時計を見た。
夜明けまでにはまだ時間があった。
仕方なく、大人しく目を閉じる。
「……野郎三人で一枚の毛布ですよ」
呟いてみる。
答えはない。
「……まあ、いいけどね」




































沈黙に、目を開けた。
アフロディーテは静かに頭を起こし、隣を見る。
二人は良く寝入っていた。
その顔を、アフロディーテはじっと眺めていた。


時計の針が動いていく。
アフロディーテは、二人を起こさぬよう注意しながら、小宇宙を高めた。
覚醒した感覚は肉体を超え、地中を行く植物の根のように、聖域に広がってゆく。
その中で眠る全ての生物を抱きながら、見えざる感覚の触手は、聖域をも越え、果てしなく伸びてゆく。
夜は、世界は、未だ静かなままだ。
しかし、この夜が明けたなら、何が起こるのだろうか。

アフロディーテは分からない。
きっと誰も分かっていない。

女神は、何を選ぶのか。
この世界で、何を為そうとしているのか。
女神よ、おまえが何者であるのか、私達に、世界に証明してみせろ。
もしも相応しからぬ者ならば、たとえ何度この首を落とされようと、いつか必ずここに帰ってこよう。


願っていたのは、いつも一つだ。

「……死ぬな」

思う。
願う。
為す。

「生きろ」

愛しい人よ。
今は遠い人よ。
どうか。


アフロディーテは目を閉じる。
そして、世界の命を抱いて、眠った。









































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デモンローズが好きですよ。
というわけで聖域の一帯に咲かせてみました。
でもあれは花粉と棘が有毒なのであって、人は食わんのですね。
そう見えたってことで。

ところで。
このとき十二宮にいたはずの年少組は何をしていたかというと。
大人しく自分ちにいたんじゃないですかね。
こういう類の非常事態で交戦権が認められているのは、年中組だけっぽい。
一次防衛ラインは魚さんの薔薇。
そこから更に進もうとすると三人の内の誰かが出てくるとか。


魚さん自身は文字通り最後の砦なんですが。
矛盾したことやってても、魚さんは色んなものを愛していた人だといいんです。



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