輝けるその玉座に坐する人は、あまねく全てを見通し、世界の采配を振るう。
そして世界に溢れる無限の憂いを抱き、涙する。

その傍らに、デスマスクはただ座っていた。
森閑とした教皇の間。
玉座の数段下で片膝に頬杖をつき、聖域の主を見上げる。
教皇の仮面は、外されていた。
その髪は夜明けに初めて差す朝日のよう。
神殿を満たす清浄な光に包まれ、透き通る輝きが零れ落ちる。
だが、長い睫毛は伏せられ、目蓋は固く閉ざされていた。
眉宇に刻まれた深い苦悩から、デスマスクはそっと目を逸らす。
やがて、玉座の男は口を開いた。
「……先ほど、ハウンドが帰還した」
掠れ出た囁きは重い。
「そして私の目の前で息絶えた」
曖昧にデスマスクは頷く。
聖域の意に逆らう青銅聖闘士を粛清すべく極東に赴いた白銀聖闘士達。
しかし彼等の多くは勅命を果たせぬまま倒れた。
唯一生きて教皇の元に帰還した白銀聖闘士も、黄泉比良坂を踏み越えた。
その姿も見送った。
「これで八人の命が消えた」
誰も彼も最後には笑ってあの坂の向こう側に行った。
度し難い阿呆どもだ。
「彼等は皆、女神の聖闘士として生きてきた……しかしその実、彼等に勅命を下してきた私は何者だ。
この玉座に坐す私は、本物の教皇を殺して成り代った、救いようのない罪人だ。
偽りの私に彼等は従い、唯一真実の女神にそうと知らず反した。そして死んだ。
彼等の生命を奪ったのは、この私だ」
「サガじゃない」
「私が殺したのだ!」
自身への絶望に見開かれた瞳は、深い深い青色がまるで炎のように人を射竦める。
デスマスクは目を細めた。
しかし、猫背を丸めて視線を落とす。
「デス、私はいったい誰に許しを乞えばいいのだ。
私は女神を裏切った。裏切り続けて今日まで生き延びてしまった。
……私は罪深い、贖いようのないほどに」
己を罪人と言うその魂が、誰よりも清らかであると、デスマスクは知っている。
嘆きに疲れ果てながら、それでも優しく世界を憂えてきた人。
慟哭を押し殺す身体を満たしているものは、神の如き力と威厳。
そして、絶望。
それは生ある限り終わらないのだろう。
「おまえさえ許してくれたなら、私は」
デスマスクはじっと自分の指を眺め、密やかに祈る。

今すぐ、だ。神様。
もしもその力があるのなら、今すぐこの哀れな男を殺してやれ。
ついでに俺の息の根も止めてくれ。
13年前のあの日、この男は己の過ちを命を絶つことで終わらせようとした。
俺はそれを許してやれなかった。
その結末がこれだというのなら、今度こそ報いを受けてやるから今すぐ俺達を殺してみせろ。
なあ、神様。





なんて、願うと思うか。

「サガ」

デスマスクは笑う。
それはあまりに穏やかで、サガは一瞬絶望を忘れた。
立ち上がったデスマスクの指先に、青白い鬼火が灯る。
魂を天に導く冷たい燐光。
静かに揺らめく炎を眺め、サガは目蓋を下ろす。
そして自分の願いが聞き届けられるその一瞬を待った。
浄罪の手が額に触れる。
しかしどれほど待っても、救いの時は訪れなかった。
「……デス?」
「ごめんな、サガ」
笑う。
慰めるように、嘲るように、いとおしむように。
「積尸気の門、閉めた。
これであんたの魂はその肉体を離れられない。俺が死なない限り、あんたは死ねない」


元より神になど期待していない。
誰にも、何にも望むものはない。
ただ、この孤独な人以外には。


「死ぬのは、俺が死んだ後にしてくれ」
サガの震える腕が、自分から遠のいてゆく手を捉える。
大きく開かれた両目は、静かに拒絶した微笑を一心に見据える。
デスマスクは、笑う。
「それとも」
強張ったサガの手を取って自分の首まで導き、指を重ねた。
そして力を込める。
「俺を殺すかい?」
促す声は、どこまでも優しい。
見開いたサガの瞳は青く凍える。
そして、最後の涙が一筋流れ落ちた。
「おまえはまだ、私を許してはくれないのか」
「……ああ」
「もう13年だ」
「そう、13年だ ……長かったな、サガ。もう誰もあんたを許してくれないよ」
柔らかく、冷淡に言い放つ。
「教皇」
蟹座の黄金聖闘士は主を見下ろす。
その目に情動は遠い。
「今、この状況下であなたがいなくなるなど、聖域のいったい誰が許すと御思いか。
聖戦を前にして徒らに混乱を広げるのがあなたの望みか。
考え違いをなさるな、教皇。
あなたの玉座は血で穢れている。
だが、現在聖域の支柱となっているものは紛れもなく、あなただ。
あなたを失えば、砂礫の城のように崩れ果てましょう。
そして、よしんばあなたが過去の罪悪を白日の下に晒し、女神の速やかなる帰還を求めたとしても、
人は容易に受け入れますまい。
神は何を以って神とされるか。
非力なる者は決してこの聖域の主とは、神とは認められない。
聖域の外にあった女神は、たとえ真実の神であるとしても、その証を立てねばならない。
では、この証となるは何か」
サガの顔は蒼白だった。だが、抑えた声で言い切る。
「……神権の簒奪者である私を討つことだ」
「いずれにせよ、あなたは、あなただけは最後まで生きねばならない。
その末に、悪として裁かれるか。
それとも、神のいない世界に救世主として立つか。
今、玉座についているあなたが何者だったのかは、その時証明されるでしょう。
……しかし」
女神を信奉し、女神の名と正義の下に戦う聖闘士。
その最高位にある男が、偽りの玉座の前に膝をつく。
「あなたの他に、世界の王たる者が存在しましょうか」
粛々と首を垂れ、告げる。
「資格が無いというのなら、もう一度奪い取れば良い」
嘲るように唇が吊り上がった。
「私は……!」
苦しげにサガは叫んだ。
「私は、あの男とは違う、私は、わたしは!」
必死に否定するものは、忌まわしき己の影。
決して受け入れられぬ、しかし決して逃れられぬ自己自身。


服従者の唇は弧を描く。
憐憫も後悔も今は棘を失い。
ただ一切が愚かしく、嘲笑う。
けれどそれすらもいつか、ぽろぽろと剥がれ落ちて、
静かに揺らぎ、消えた。

「サガ」

デスマスクは顔を上げる。

「俺は、死にたくないよ」

戯言を、今だけは心から捧げよう。
13年間苦しめ続けた。
その上更に引き返しようのないところに行ってもらおうとしている。
それでもまだ、見てみたいと思っているんだ。
いつかこの人の目に映っていた世界の姿を。
今はその目の中にいる漆黒の人だけが憶えている、未来の光を。
その、祈りの先を。

「俺を生かしてよ、サガ」

だから、どうか。
どうかこの人だけは生きてほしい。

















デスマスクは慇懃に礼をして立ち上がった。
そして玉座の前を辞する。
大扉を出る直前、肩越しに一瞥した。
玉座に坐る人は悲壮な目をしていた。




































教皇宮から双魚宮へと続く石段を下る。
デスマスクはぶらぶらと歩く。
まるで雲の中を行くように定まらない足の先。
どこにも行きたいわけではないのだ、別に。
手持ち無沙汰で唇を親指で撫でた。
戯れにがりりと噛んだ。
不思議と痛みはなかった。
「……お待たせー?」
口から手を離し、ぴらぴらと振ってやる。
石段を中ほどまで降りたあたりに、見慣れた黒髪が立っていた。
シュラは悪友の顔を見上げ、それから教皇宮を一瞥した。
デスマスクは肩を竦める。
「勅命下した白銀が殆ど死んだんだ。そりゃあ教皇サマの御機嫌も悪いだろうよ」
「違う」
シュラはじろりと睨む。
はん、とデスマスクは笑った。
「俺? 俺は別にー。景気良い話じゃねえが、どうってこともねえ、なぁ」
難しい顔をしているシュラの肩を叩いて下に促す。
石段を先に下ってゆく、ふざけたような、覚束ない足取り。
シュラはその背中を眺める。
「それよりも」
デスマスクの指がひらりと翻る。
「これから、だな。使い勝手の良かったお手軽なコマが減ったんだ。
後をどうするかの配置換えとか、あいつらが抱えてた別口の勅命の始末もあるし……、けど。
それより色々前倒しになるのが多いか。
近いうちに、最後の召集があるぞ。
召集っつーか、最後通牒だな。その後は日和見連中への粛清だ。
教皇に帰順しない奴は皆切り捨てられる」
立ち止まり、シュラを流し見る。
そして唇の端を持ち上げた。
「女神につくなら、早いほうがいいな?」
「俺には関係の無い話だ」
はっきり言い捨てたシュラの眼差しが鋭さを増す。
デスマスクは笑い出そうとして、止めた。
「……だーかーら、睨まないでヨ。こあい」
「おまえが要らん嘘をつくからだ」
「それは」
いったいどれのことを言っているのか、と音のない唇が動く。
こんな時に限って適当な戯言が浮かばない。
シュラの気に入る言葉を吐けそうになく、デスマスクは石段に腰を下ろした。
結句、全ては戯言なのだ。
何を言っても、何を思っても、
それが薄まらないよう、綻ばないよう、厚く積み重ねたところで、全ては。
この足が還る場所は、あの暗く冷たい岩の大地。
積尸気の虚無こそ唯一の真。
いったい何をまだ望むのか。

それなのに、あの人の光だけは見えてしまった。
もう充分だ。もう他のものは手に負えない。


親指が、思い出したようにじんと痛む。
犬歯を突き立てた。
血の匂いが広がった。
胸を奥まで染み透り、鉄の塊は臓腑を引き絞る。
その痛み。




「シュラ」

片腕を持ち上げ、友を呼ぶ。
シュラはその手を掴み、立ち上がらせる。
デスマスクは眼下に広がる聖域を眺め、手の甲で唇を拭った。
そしてほんの暫くの間、笑うことを諦めた。

































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←一つ前に

白銀の死亡した皆さん。
この時点ではまだシリウスたちが生きてるはずなんで、八人。

生き死にについて意外と淡白そうというイメージがなんとなくあるんです。
つか女神とかどうでもよさそう。
教皇様でも女神でもどっちでも良かった、とかでもいい。
なんだかんだ言っても聖域の現状を楽しんで行動しててくれたらいいなーと思ってます。

むしろ、どうしようもなくなってたのは、その上にいた人達だったりでもいい。


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