この薄闇はいつから続いていたのか。
いったいどこから彷徨っていたのか。
いつまで続くのか、この闇は。


暗い人影が、粛々と歩いてゆく。
首を垂れ、列をなし、歩いてゆく。
見渡せば、幾千幾万の黒い筋。
どちらを向いても、始まりと終わりは見えない。


ここがどこなのか、知っている。
前に一度だけ見たことがある。
ああ、思い出した。
あの人はここを何と呼んでいたのか。
ここは。

「……よお、おつかれさん」

思い出せば、その人は目の前にいる。
両腕を組み、少し胸を反らすように立って。
唇の端が吊り上がり、

「言ったろ、最後には来てやるって」

いつものとおりに笑った。
ああ、あんまりいつもどおりだ。

「一人だけ遅ぇと思ったら何途中で道に迷ってやがる。
おまえよりアステリオンの方がさっさと行ったぞ。
ホントに図体は俺よりでかくなったくせに、ガキみたいなところがまだ抜けねえな。
来るならスパッと来い」

きっと待っていたんだ、この人を。
いつか言われたことがある。

 『最後には顔ぐらい見に行ってやるよ』

聖衣を賜った時だった。
他愛ない、約束ほどの重みはない言葉だったはずだ。
けれど、それで充分だった。
聖闘士として戦って、殺して。
いつかどこかで何かに殺されて、その最期がそうならば、それもいいと思った。
だから、この薄闇を行く足が止まった。

「バカか。待たなくても来るに決まってるだろ」

交わした言葉を、憶えていたのは自分だけでなくて。

「情けない顔をするな、行くぞ」

二人で同じ道を歩く。
笑い出したいはずなのに、なかなか上手くいかない。
伝えたいことを言葉にするのはとても難しい。困った顔をさせたいわけじゃないのに。

先に立つ人の向こう側。
探しても分からなかった、列の終わりが見えた。
そこには、何もなかった。
無数の人影は、ただ落ちてゆく。

「……どうする」

振り返った両の瞳は。
白か、青か。熱のない柔らかさ。

「言いたいことがあるなら聞いてやるぞ。
女神なんてものは聖域からとっくに消えて無くなっていた。
それを隠し続けたのは俺だ。
おまえ達は薄々勘付いていた。
それを口に出させなかったのも俺だ。
日本にいるのが本物の女神だということも知っていた。
けれど、おまえ達に教えなかった。挙句、教皇の勅命でおまえ達は死んだ。
無駄死にだったな」

薄闇だから気付いた。
銀色だ、この人は。

「恨みたいのなら好きにすればいい。
巨蟹宮で一番良い場所、おまえのために空けてやるよ。
恨み顔を肴に酒飲んでやるから、勝手にしろ」

言い捨てるように、けれど、溜息。

「……ああ。
ったく聖闘士って奴はどうしてこう人の話を聞かない奴が多い。
なに笑ってやがる」

あの光輝く神の砦に君臨しているものが、女神ではないことぐらい、知っていた。
それを言おうとしなかったのは、この人に殺されるのが恐ろしかったのではなく。
あの場所が聖域だったからだ。
たとえ偽りと言われようと、断じてそれは否定させない。
聖域とは何のためにある。
己の戦って死ぬべき理由なら間違えたつもりはない。

「そういう顔、止めろ」

ようやくちゃんと笑えたのに、この人の顔が見えなくなった。
抱きしめてくれるその腕は、記憶より頼りないように思えた。

「弟子風情が師を泣かせるのか」

それでもこの人はきっと泣かない。
小さく舌打ちして、息を整えるように顎を上げ、溜息をつく。
そうやって、決して泣いてはいけないと思っている人だ。
記憶とは少し違うその腕は、たぶんいつかの日よりもずっと温かい。
この人は、生きている。
こんな暗い、寂しい世界に一人で生きている。
その腕を放して、先に行かねばならないのが、悲しい。

「そういう奴は地獄行きだ」

悲しいから、また待っていようか。

「バーカ。この俺が地獄なんか行くか。まだやることは山積みなんだ」

それならそれで。
どうか元気で。

「ああ、……まあ、そのうち、またな」

また、いつか。











さようなら。



































積尸気の真中。
物言わぬ亡者の群が落ちてゆく奈落。
その縁に立つデスマスクは無表情だった。
暗黒の深淵を冷然と見下ろす目はやがて積尸気を睥睨する。
日も月もない、決して晴れぬ暗雲。
果ての無い不毛の大地。
無数の亡者。
まるで蟲のように後から後から湧いてきては、黄泉比良坂を転げ落ちてゆく。
今更その中に新たな一人が加わり、そして落ちたとして、
いったい何を思うことがあるのか。
知っているのだ、この光景を。
見ろ。
こちら側が本当の世界だ。
一切衆生は塵芥。
いったいどこに、誰に特別な価値などある。
信不信、浄不浄、何も、何も、全て等しく無意義だ。
それを、知っていた。
だから何も悲しくはない。
哀しむことなど何もない。
もう何も恐ろしくはない。




「……まるで阿呆だな」

吐き捨てた侮蔑は底無しの暗黒に吸い込まれ、
それを眺める眼差しもまたいつか、身を投げた。


寂寞とした無明の闇を、真っ逆さまに落ちながら、
あらん限りの呪詛と怨嗟を吐いた。
見開いた目が睨むのは、深淵の底に立つ盲目の怪物。

それは、自分と同じ顔をしているのだ。















































「珍しいな」

アフロディーテは後を振り向かずに言った。
双魚宮、芳しい香気に包まれた薔薇園。
麗らかな日の光を浴び、艶かしく微笑む真紅の薔薇の中に、ベンチが一つある。
いつのまにか、そこに旧友がいた。
「君はここがあまり好きではないと思っていた」
「……嫌いじゃあない。苦手なんだ」
「そうか」
アフロディーテは薔薇を一つ一つ、丹念に見ていく。
「それで、どうした」
「んー? うん」
小さな笑みを、背中で感じた。
「今日は山羊くんと飯食いに行くって言ってたんだけど、俺まだ用事あるから。
もし山羊くんが来たら伝えてくれ。山羊くん今、巨蟹宮にいんだ」
「分かった」
アフロディーテの返事に頷いて、旧友は双魚宮を去り、上を目指す。
その後姿が消えた後、アフロディーテは振り返った。
鮮やかに咲き誇る薔薇園。
微かにも残されてはいない彼の気配。
光の静かな午後、アフロディーテはいつまでも立ち尽くした。



















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蟹は自分で黄泉比良坂を落ちても意味がなさそう。