「楽しそうだな、デス」
無表情のまま言われ、デスマスクは半ば本気で、ひいっ、と思った。







 『縁切』







「それで? どうだったんだ」
腕組みをしたシュラは低い声で言う。
その眼差しの恐ろしさに、デスマスクはつっと目を逸らした。
「どうって、別に……」
「別に、何だ」
「だからァ……」
勅命どおりに老師のとこに行ったらジャミールに引っ込んでたムウまで来てあとなんかガキがうるさかった。
ぼそぼそと喋る視界の隅で捉えたシュラは、片眉がひくりと動いた。
まずい。
デスマスクはもう躊躇うことなく最高速で、逃げた。
その回避行動は軽く光速域に達するが、シュラは構うことなく右手を上げる。
斬れぬものなどない、研ぎ澄まされた小宇宙。
全てを断ずる聖剣が真っ直ぐに振り下ろされる……




そもそも。
デスマスクは教皇に報告を済ませた帰り道だった。
双魚宮の守護者は留守だったのでそのまま素通りし、宝瓶宮では久し振りに会った守護者と他愛ない立ち話。
帰り際、シュラが怒っていたと言われた。
あいつならいつも怒ってるし、と答えれば、違いない、と返される。
話の分かる奴だと思いながら、しかし、磨羯宮。
さっさと通り過ぎようとしたところを捕まる。
逃げるならその前にでもするべきだった。
つい先程教皇にしてきた報告を洗いざらい吐けと、あの声で言われ。
吐けば吐いたで閃く聖剣。
その軌跡に、生と死の狭間を見る。





「斬るな!」
「逃げるな」
紙一重で躱したデスマスクに、シュラはあからさまに舌打ちした。
「おまえさ、動くものは何でもぶった切るその習性どうにかなんねえの」
「おまえが逃げようとするから退路を断っただけだ」
いや、普通逃げますって。
ぼそっと呟いたデスマスクの頭に、シュラはただの手刀を落とした。
眉根を寄せ、切れ長の目をきつくする。
「だから俺が行くと言ったんだ」


五老峰の老師を討つ。
その勅命が悪友に下されたことをシュラは知っていた。
天秤座の聖闘士でありながら聖域に恭順せず、この13年間一度も召集に応じたことのない老師。
そして前聖戦を生き抜いた偉大なる一人。
教皇が恐れているのはその影響力だ。
もし老師が逆賊の中心に担ぎ出されれば、聖域が二分される可能性すらある。
老師が沈黙している間に、先手を打つ必要があった。
そのための勅命。
それが下されるのは自分だろうとシュラは考えていた。
少なくとも、この悪友ではないだろうと。




「怒んな、ホント怖いです」
「俺が斬り捨てたいのは、おまえのその腐った性根だ」
「生憎ご自慢のエクスカリバーでもそれは無理だねえ、シュラ」
残念だよ、とまるで哀れむように嘲笑う。
「その良く喋る舌なら今すぐ切り落としてやれるが、どうだ」
そう言ってやれば、赤い舌が伸びてきて、ちろちろとシュラを誘った。
シュラは鼻で笑った。
右手に小宇宙が宿る。
「待てッ、待て待ておまえやる気だな!?」
「してほしいんじゃないのか」
「アホか! 何だおまえ何プレイだ。その小っちゃな黒目がさっきからすんげー冷たくて、イヤ!
あー、ハイハイもう分かりましたー、色々すんませんでした!!」
両手を上げて降参してみせる悪友に、シュラは右手を解いた。
「それで、ムウが来たか」
デスマスクの恨みがましい目に構わず、平然と先を促す。
「……ああ、あいつは向こう側につく。老師は元より全てをご存知だろう。
これで二人の黄金聖闘士が離反したことになった」
離反といっても予想していたことだ。
ただ、考えていたよりも遥かに遅かったというのはあるが。
ふとシュラは違う疑問を感じた。
「……その二人を相手にした割に、無傷のようだが」
黄金同士の戦いは、千日戦争に陥るか、互いに消滅すると言われている。
途方もないエネルギーを生み出す二者が衝突しあうのだ。
ただで済むはずがない。
しかし、デスマスクを見ても欠けた手足などは無かった。
その指がくるりと円を描き、
「逃げたから」
事も無げに言った。
「老師とは世間話をしたぐらいだし、良く吠える小僧と少し遊んでやるうちにムウは来るし。
二対一でまともにやり合っても分が悪過ぎるから、逃げた。
おまえは、黄金同士が殺り合える貴重な機会を逃したって言うんだろうけど。
俺はホラ、性根腐ってるから」
「……本当にふざけた奴だな、おまえは」
デスマスクは笑う。
シュラが怒ると分かっていて笑う。
シュラは素直に手刀を落としてやった。
無事に帰ってきた友人は、いてっと喚いた。









甲高く、風が鳴いた。
シュラは何とは無しに顔を上げた。
その視線は、吹き降ろす風の来た方向、十二宮の頂点に向けられる。
教皇のおわす教皇宮。
そこは、変わらず平穏であるようだったが。
「教皇は?おまえは 勅命を果たさずに帰還したんだろ」
仕損じた暗殺者はその方角を一瞥し、ほんの少しだけ唇の端を吊り上げた。
「……今日の教皇サマはすこぶるお優しいらしく、お咎めも無しだ」
今日の、という意味をシュラは取り違えなかった。
「明日はどうなっているか分からないだろ」
「いや」
少し低めた声が、はっきり言った。
「これで終わりだ」
「何故」
今日と明日が同じ日とは限らない。
二人の教皇が同じ裁決をするとは限らない。
「勅命を下した教皇も、本気でなかったってことさ」
声が一歩だけ近づいた。
その眼差しは伏せられて、表情が分からない。
「もしそのつもりなら、おまえかアフロを遣わすか、教皇本人が行くだろう。
俺には言わない」
ほんの小さく、笑ったような気がした。
「あの人は優しい」
聞き取れるか取れないかの声。
吹き降ろす風音に紛れながら、おまえも、と言った。
自分には酷く似合わない言葉だ。
シュラはそう思いながらも、口に出せなかった。
「けど、余計な心配すんなよ」
顔を上げた友は目を細めて笑う。
間近に見たその双眸はまるで鏡のようだ。
白に近い青。
青に近い銀。
捉えどころのない光。
「あの人が、殺せと本気で言ったなら、俺が仕損じるはずないだろ」













ふと気づくと、デスマスクは宮の出口に向かっていた。
「デス」
振り返った彼は、首を傾げるようにして、小さく笑った。
「老師は五老峰を動かれない。あのお方はあそこを離れるわけにいかないのさ。
教皇はそれを確認したかったんだ。
ムウはどうするか分からない。
ただ、あいつが直接教皇の元に向かうことはないかもしれない。
それと、さっき言ったガキってのは例の青銅の一人だ。
老師の弟子で、龍座だったかな。俺の評価は、『まだまだ青いねえ』ってところ」
シュラは柳眉を顰め、機嫌の悪い声を出した。
「……青銅の小僧に興味は無い」
「磨羯宮に来る頃には、少しはましになってるさ」
「おまえは」
「そいつがそれまで生きていればな」
いつもの人を食ったような笑みが、じゃあな、と言って宮から出ていく。
その背中に何か言おうとした。
しかし自分が何を言いたいのか分からなかった。
悪友の左指がひらひら動き、別れを告げている。
シュラは暫くその後姿を眺めていた。













どうしようもないバカだ、あれは。

シュラは胸の内で吐き捨てる。

黄金聖闘士の覚醒は、白銀や青銅に比べると遥かに早い。
星の宿命だとでもいうのか、修行の有無よりも、ある日突然身の内に、
制御不可能なほど膨大な小宇宙が目覚めてしまうこともある。
そうなれば、望んだかどうかなど関係なく、まともな人間らしい生活はもうできない。
だから、ごく幼い頃に覚醒してしまい、老師のもとで育てられた黄金聖闘士が何人かいる。

ずっと、昔。
もういつだったかも忘れてしまった。
デスマスクは、自分の親はあの二人だと言っていた。
シオンに救われ、老師が育ててくれたと。

それでもあのバカは、あの男が殺せと言ったのなら、本当に殺すのだろう。
あの男の、純粋な凶器として。


けれど、その手を引き止めようとしたのは。
返り血を浴びに行くその背中を押す手が迷うのは。
あいつがまだ、正気のままだから。





だから、どうしようもないバカなんだ、あれは。

























































神経の焦げる匂いがした。

剥き出しの神経細胞を炎が舐める。
生温い空気にすら皮膚がささくれていく。
焦げついた、不快な匂い。







磨羯宮の入口。
下へと続く石段の、白く連なるその先を、シュラはじっと見据えていた。
聖域に入り込んだ青銅聖闘士たちは獅子宮を抜け、処女宮へと向かっている。
聖域は音もなく震えていた。
それは、ぶつかりあった小宇宙の名残であり。
あらゆるものを打ち据える戦の気配であり。
あるいは、囁き交わす無言の何か。
シュラの聴覚を超えた識覚は、それらに触れ、また斬り捨てる。
シュラはただ待っていた。
だが六つ下にある宮は、いつまでも虚ろなままだった。
そこに在るべきはずの小宇宙が帰らない。
神経が、じりりと焦げていく。

 " シュラ "

その時、誰かが小宇宙に触れてきた。
煩わしさにシュラは眉を顰めたが、相手が誰か分かると意識をそちらに向けた。

 " ……まるで敵を眼前にしているようだな、君の小宇宙は "

二つ上、双魚宮の主は、常と変わらぬ様子だった。
小宇宙は生命の根幹と結びついている。
触れ合えば意志だけでなく、感情の欠片まで伝わることもある。
付き合いの古い彼ならば、尚更なのだろう。

「少し」

シュラは下を見据えたまま、その小宇宙に答えた。

「少しだけ苛立っている。あれがなかなか戻ってこないからだ」

 " シュラ? "

六つ下、巨蟹宮で二つの小宇宙が消えた。
積尸気に行ったのだとシュラには分かった。
一つは帰ってきた。今頃は処女宮だろう。
もう一つは、未だ戻らない。

「いつまで油を売っているんだ、あれは。相変わらずふざけた奴だ。自分の宮も碌に守ることができんのか」

 " ……シュラ "

「あの馬鹿はいつも人に世話をかける」

 " 死んだよ、彼は "

淀みのない小宇宙がそう伝えた。
呼吸が、止まった。





















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