不安で、目が覚めた。




暗い。
どこだろう、ここは。
風が揺れる。
雲間に溺れた月。
ふらふらと石畳を歩く。
身体が重い。




また悪夢を見ていた。
いつも内容は変わらない。
舌を焼き切り、目を抉り捨てた暗黒で、
たった一人、永遠に身体を砕かれ続ける。
私は助けを求め叫ぶこともできず。
誰も私を見つけてはくれず。
絶え間なく幾度も幾度も繰り返す地獄。
いつか私は発狂し、


そこで目が覚める。

けれども、目を開いて見上げたものは、
胸の上に乗り、私の首を両腕で握り潰している、狂人の目。





そこで目が覚めた。

立ち尽くす自分に気付いた。
暗夜。
辺りを見回すと、私は一人。
教皇宮の傍のようだが、どうしてこんな場所にいるのだろう。
分からない。
記憶がない。
ただ、立ち止まっていられないほどの、不安が。
眼窩の裏、脳髄の奥で、神経に牙を突き立てながら、広がっていく。
少しずつ、少しずつ、私の内側を蝕んでいく。
それなのに、私はこの不安が何物なのか分からない。
背筋が冷たくなった。

ふと、辺りの夜闇が薄らいだ。
糸のように細い月が、頼りない光を投げかける。
思わず自分の姿から目を背けた。
闇に浮かぶ仄白い手は、指は、悪夢のそれと全く同じだった。
鈍痛が臓腑を抉り、吐き気がした。
喉が詰まる。
込み上げてきたものは血の匂いがした。しかし形がない。
吐き出すこともできず、ただ重く、重く。
悪夢の続きのように。


やがて、月は雲に飲まれ、淡い光も消え失せる。
闇の中、私は鉛のような身体を引き摺って歩く。
幽鬼のように彷徨いながら、目ばかり炯々とさせて、
巨蟹宮を目指した。













酷く頭が痛い。
心臓が早鐘を打っている。
彼がいない。
巨蟹宮の奥まで足を踏み入れても、誰の気配もなかった。
静謐を破るのは、煩わしい自分の鼓動だけ。
彼はどこに行ったのだろう。
私の中にこびりついた無気味な不安はどんどん膨れ上がっていく。

私は常に怯えている。
世界の全てに。人に、神に、自分に、私の病んだ精神に。
この竦んだ心臓が、今すぐ打ち滅ぼされるのなら、
抉り出して神の御許に捧げることを、もしも許されたならば、
どんなに幸福だっただろう。

だが私は、最早存在すら許されない私は、得体の知れぬ焦燥に憑かれ、
震えながら闇に閉じこもるだけだ。
私は私を憎悪する。

頭が痛い。
彼はいない。
立っていられない。
壁に凭れかかり、そのまま座り込む。
手を放すと、ごとり、と重い音がした。


話がしたい。
彼と、何でも良い。言葉を交わそう。
彼は私が何者なのか知っている。私の過ちを知っている。
それでも、私の言葉を聞いてくれる。
膨れ上がった私が破裂してしまわぬように、彼と話をしよう。
彼の不在は勅命のためではない。
そんなものを私は彼に与えていない。
だからきっと、彼ならその内にいつものとおりの様子で、帰ってくる。

けれども、彼はいつ帰るのだろう。
彼と最後に話をした日を、何故かどうしても思い出せない。






本当に静かな夜だ。
疲れ果てた私を包み、巨蟹宮の闇は秘めやかに沈黙する。
異物は、私か。
背を壁に預け、目を閉じた。
眠りたくはない。
悪夢から再び目覚めた時、私はもう私ではないかもしれない。
血管がびくびくと脈打ち、頭痛に助勢する。
投げ出した拳を引き寄せようとして、何かが触れた。
石床ではない感触。
目を開けてそちらを見ると、顔があった。
落ち窪んだ眼窩。締りのなくなった口。
それは死んでいた。
見れば、床に、壁に、列柱に、茫と浮かぶ顔。
死仮面。
瞳を閉ざし、何も語らない巨蟹宮の住人達。

神官や侍従達は密かに噂をする。
亡者の魂が彷徨う、聖域にあるまじき不吉な星宮。
その思い違いを責める気はない。
彼等は聖闘士ではない。
この宮が何であるか理解したとしても、恐怖するだけだろう。

巨蟹宮は半ば彼の世界だ。
孕んだ闇は地上のそれとは異なる。
生命の世界に特有の、存在そのものが持つ息吹と全く混ざり合うことなく、
ひたすら深々と澄み切った、純粋な暗黒。
手を伸ばした先は、既にこの世ではない。
人は、光がなければ物を見ることができない。
身体がなければ何も感じられない。
それら全てが消え去った後の世界は、想像こそすれ、認識の境界を超えている。
魂のみが辿り着く暗黒。
彼はそこに在る。
死は、彼だ。
有相無相、一切万有を飲み込み、なお混じらず澄むばかりの。

だが、死仮面達は。
もし彼が真に純然たる虚無ならば、どうしてこんなものが彼の傍に残るだろう。
これは、墓碑だ。
魂を奪い、生命を貪り、笑う彼は優しい。




そういう子だった。










けれども、彼はまだ帰らない。

この宮に入ってから、どれくらい経っただろう。
さほどでもないように思うが、随分とこのままでいたような気もする。
静寂は空漠とし、宮の外にあるはずの世界を忘れさせる。
立ち上がって四方を見回す。
闇だ。
住人達は朝日を知らずに眠り続けている。
彷徨うのは、独り私だけ。
果てしない暗夜を、病んだ魂が一つ漂っていく。
行きつく先などなく、ただ、顔、顔が。
柱列の間をどれほど歩いても、暗い顔がある。
其処彼処、無限に、無間に、沈黙している。


そこで、足が止まった。
立ち尽くす。
凍えた心臓が、次第に恐ろしい鼓動を刻み始める。
再び見回す四方の闇。
やはり、多い。多過ぎる。
この死仮面の、おびただしい数は何だ。
これほどまでに多いはずがない。こんなにも殺せと私は彼に頼んでいない。
私の知るこの場所は、この墓室は、もっとささやかなものだったはずだ。
幼い子供の、密やかな弔いの場だった。
それが、いつのまに。

何故だ。
何故こんなにも殺している。
私は言ってない。私は知らない。
私の勅命でなく、何故彼は殺す。
否、そんなはずはない。彼の意思であるはずがない。どうして彼にそんな必要がある。
彼はいつでも私のために、



悟った。
瞬間、憎悪した。
"あれ" のせいだ。
私の知らない内に、あれが彼に命じていた。
私の顔で、私の声で、彼を行かせた。

膨らみきった憂鬱が狂暴な衝動に変わる。軋みだす心臓などこのまま壊れてしまえばいい。
私の中のあれが滅びるためなら、私はどんなことでも出来る。

だが、私は何だ。
何故そのことを少しも覚えていない。
あれは私だ。私が生んだ。
それなのに、この病み衰えた精神は何だ。覚束無い記憶は何故なのだ。
私がサガだったはずなのに。
この、脆弱な自我は。





彼に会おう。
とにかく話をしよう。
彼があれの言葉に耳を傾ける必要などない。
私にはあれが分かる。
たとえ私と同じく教皇の仮面をつけ、私と同じ言葉を語るとしても、
あれの本性は破壊を好む。
この世界を全て平らげたとしても決して満足するはずがない。
あれの願望が尽きる日など永久に来ない。
だから、私があれを殺さねば。




その時、闇が変化した。
何かを孕み、うねるように密度を増していく。
まるで胎動のようだ。
静寂は溶け去り、音ではないものに満たされ波打つ。
声が、傍らから。
聞えない声を聞いた。
見れば、瞳を閉じた死仮面の、目蓋が、
なにか不可思議な夢から覚めたように、開かれ、
潤んだ瑞々しい眼球が、私を見た。

見渡せば、巨蟹宮の住人達は次々と目覚めていく。
ぽかりとあいた黒い穴。
彼等の口から、私には聞えない言葉が溢れ出す。
殷々と響き、なお深まりゆく闇にこだまして、
誰かを呼んでいるように。


彼が帰ったのか。


私は引き返し、双児宮側に向かおうとした。
無数の死仮面達は今では全て眠りから覚めている。
だが、歩く内に一つだけ、まだ目が開ききっていないものを見つけた。
丁度私が座っていた辺りだろう。
では、最初に手を触れた死仮面か。
しかし近づいてみると、違った。
それは死仮面ではない。
死体だ。

屍が転がっている。

自分の目が信じられず、手を伸ばした。
しかし、やはりそこに、ある。
捻じ切れそうな首だけを私に向け、倒れ伏している。
触れたそれは、冷たく、重い。

どうして、こんなものが、ある。
先程はなかったはずだ。
巨蟹宮には誰もいなかった。そして入ってきた人間もいない、私を除いて。

頭痛がこんな時に酷くなる。
神経が直接引き千切られる。思考が歪む。目眩。
駄目だ。
考えろ。
これは、何だ。

(それ は)

否、私は何も知らない。
そうだ、分かるはずがない。
ただ偶然、この場所に座っただけだ。
あれは確かに死仮面だった。

(だがあの時、何から手を放した?)

見覚えのある顔の死体。
教皇宮の夜警についていた一人だ。
奇妙に捻じ曲がった首は骨まで砕かれている。
まるで私の悪夢のようだ。
夢の中で私は狂人に首を握り潰され、

(殺されたのは本当に私だったのだろうか。狂人の目は血の色をしていたのだろうか)

目を覚ました後、教皇宮を出た。
そして今ここにいる。

(しかし、その前に会った人間がいる)

そんなはずはない。私が自分の姿を晒すことなど有り得ない。
私は、存在してはいけない罪人なのだから。

(だから私の顔を見たその首を捻じ折った)

そんな、ことが。
あるはずがない。
私は何もしていない。私は、

(悪夢の中で、私があれを殺したように、首を)

馬鹿な。
私は何を思い出そうとしている。
何も無い。何も知らない。
だが、この記憶は、何だ。
止めろ。

私は

(彼の宮に死体を運び入れた。引き摺って、随分と重いものに感じた)





 手を放すと、ごとり、と音がした

















































「ただいま、サガ」







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