夜明け前の、ほんの一刻。
水底のように暗く、静かに、
全てが仄青い光の中を漂っている。
薄明に、その声。

「ただいま、サガ」
「……ああ、おかえり。遅かったな」
「ごめん、待たせた。
白銀で昨日が初めて実戦の奴がいたから、見物してたんだ。
その後ですぐ帰ればよかったんだけど、知り合いに捕まってさ。
そこからが長かった」

ごめん。
もう一度謝って、にこりと笑った彼の後ろから、夜明けの気配が淡く差し込む。
きんと冷えた空気に朝露の匂いがした。

あの闇はもう無い。
死仮面も、死体も。
全ては夢のように消えてしまった。

「……いや、私が待っていたかったんだ……少し、話をしよう」
「うん?」
「聞かせてくれ、私は狂っているのか」

夢ならば、
たとえ悪夢でも良かった。


「大丈夫」


笑って彼は言う。
私はただ彼の顔を眺めていた。
私の視線に、彼はまた少しだけ笑った。
光を鮮やかに反射する、硝子のような両眼。
その深淵こそ、

「大丈夫、もうどこにもない」

万象が還る終極。
巨蟹宮の孕んでいた暗黒は、主の中に孵っていた。
有りとあらゆるものを飲み込んで、彼の中へと。
そうやって彼は、私を憂鬱にさせる全てを食べてしまった。
ここにはもう、何もない。


何もなくなって、私は泣いた。


「私は狂っている」
「そんなんじゃない」
「どうしておまえは何も聞かないんだ。
たしかに私が殺した。おそらくそれは事実だ。この指が覚えている」

捻じ折った首の骨を。

「だが、私は今でも分からない。
あの時の私は、"あれ"だったのか、それとも"私"だったのか。
私があれだったのか、あれが私だったのか。
殺したのはどちらだったのか。
私には分からない。
私は、もう顔も覚えていないんだ……私が殺したのは、いったい誰だったんだ?」
「誰でもない」

彼はただ静かに、彼の事実を伝えた。

「誰もいなかった。巨蟹宮はずっと空だった。
十二宮、教皇宮を含め、聖域には何の異常もなかった。
当然、人間が一人消えたという報告も俺達のところには来ない。
勿論教皇が煩わされることもない。
何も起きなかったんだから」
「何も……?」
「ああ」

けれども私には何の真実もない。
薄皮一枚下にあるものはへどろの海だ。
何者が潜んでいるのか、もう私にも見えない。
それなのに、彼は

「もう朝になる。教皇、あなたは教皇宮へ」

まだ私を、そう呼ぶ。

「何故おまえはそうなんだ。私は狂ったと言っているのに。
私はもう何も考えられない。何も出来ない。
今この一瞬の自分すら信じることができないんだ。
……私はまた、同じことを繰り返すかもしれない。
そしてそれに気付くことすら無くなるのかもしれない。
そうなったら、おまえはどうするのだ。それでもまだ私を教皇と呼ぶのか」
「ああ」
「愚か者が……ッ」
「たとえあんたが狂っても、何人殺しても、俺はやっぱり同じことを繰り返すよ。
あんたがどうなっても、俺は変わらない。俺はここにいる」

真っ直ぐに私を見て、言った。
私に言葉はなかった。
口を閉ざした私に、彼は少し困ったように目を伏せる。
それでも止めなかった。


「あんたは必要な人間なんだ。
教皇は聖域の核だけじゃない、世界の均衡を保つ楔だ。
こんな途中で俺達を見捨てんなよ」

「それも嫌なら、女神のために、この聖域を守ってくれ」

「あんたの待ってる女神は生きてる。アイオロスが守ったんだ、死ぬわけがない。
いつかきっと聖域に戻ってくる」

「そうすれば、あんたは救われる。女神はきっとあんたを許してくれる」

「けれど、もしもあんたを救ってくれないのなら、そんなものは神じゃない。
あんたを救わない神ならいらない。偽者だ。
忘れてしまえばいい」

「いつかあんたの待ってる神が帰るまで、お願いだから、サガ」


黙したままの私を、彼はどう思ったのだろう。
目を上げ、私を見た彼は、その視線を一瞬だけ躊躇う。
揺れた薄い色の瞳が、瞬きした。
それが私には、丁度子供が泣く時のように、思えていた。


あの日、玉座についた私の、血に汚れた手を掴んだ彼は、子供だった。
今、彼の手は、私とそう変わらないだろう。
時は流れた。
私は無力を味わった。
それでも、彼はまだ私の手を掴んでいる。
あの時と変わらぬ必死さで、ずっと私の手を。

これが私の罪。
何より離さねばならなかった手を、未だ掴んだまま、
それでもまだ私は救われたいと願っている。


泣く子のように見えた彼は、泣かぬまま。
私の涙に顔を曇らせ、下を向く。
その手を引いて抱き寄せた。
私が願うと彼はまた、大丈夫だよ、と小さな声で言ってくれた。
私の背中に回した手が、慰めるように撫でてくれる。
そうやって何度も何度も、彼は私を救ってくれる。
どんな時でも、私や彼がどうなろうと、彼は私の手を離さない。
私はそれを知っていた。



この貪婪こそ、私の罪。































09 ホントはとっても優しい人
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漠々として終わる。
もしかしたら全部白さんの悪夢か妄想かもしれないけれど、それはそれで。
蟹は白さんのことを13年間、なだめたりすかしたりおねだりしてみたり、
怒ったり脅したりキレたりしてればいいと思います。

なんか巨蟹宮が不思議空間ですけど、そんなもんか程度に思ってください。


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